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第二章
番外編 はじめてのしゅっちょう③
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時は遡って。エルザとザックは二人が乗った馬車を静かに見送っていた。だんだんと小さくなり、あっという間に見えなくなる。
はぁ、とエルザがため息を漏らした。
「あーあ。一緒に行きたかったなぁ」
「ぜひ一緒に行ってきていただきたかったですよ……」
ザックの声には責める調子に恐怖が混ざっている。しかしエルザは拗ねつつも呑気だった。
「そんなに怒らないでよ。イカは買ってきてもらえるし、今回の出張は潔く諦めるわ」
「……いや、買ってきてくれるわけないでしょう! あのお怒りの表情をちゃんと見ましたか!? 目で殺されるかと思った……」
ザックがぶるりと身を震わせて、両腕で体を包む。
だがエルザは「まだまだね」となぜか得意げに言った。
「あのオーウェンよ。私が食べたいって言ったのよ。買ってこない理由がある?」
ザックは張られた胸から目を逸らし、一瞬も悩まずに「ないです……」と答えた。ザックにも確実に買ってくるだろうと思えるほど、あの補佐は恋人に甘い。
「そうと決まればお仕事頑張りましょう。さすがに終わってなかったらイカはお預けにされちゃうわ」
「っそうです、お仕事ですよ! それさえ終わっていれば、俺は生き永らえられる! さぁ、執務室へ行きますよ!!」
「私のオーウェンを魔王か何かみたいに言わないでほしいわね……」
腕を引いてエルザを連行する。これはよくオーウェンがしている行動だった。
この人は手を繋いでいないとすぐいなくなるから、遠慮なく手綱代わりに掴めと教わっている。
そうして執務室についてからは、順調に仕事が進んでいく──わけもなく。
「こっちは読みましたか?」
「読んだったら。はい、次行くわよ」
「本当でしょうね? あとでクイズを出しますからね」
「えっ、クイズ形式なの? それならもう一度確認しておこうかしら」
「ほらやっぱり読んでない! オーウェン様から、確認後はクイズを出すように言い付かってますからね! 逃しませんよ!」
「違うのよ。ほら、試験前に覚えたことが不安になって最後にもう一回だけーって見直しちゃうことない? あれよ」
「それはありますけど、これはあれじゃない!!」
妙なことを叫びながら、ザックは必死に書類を捌いていく。オーウェン達が戻るのは早くても明後日の夜になる。それまでに終わらせなければ命がない。
だというのにエルザは物悲しそうに橙色に染まる窓の外を見てため息をついた。恋人が恋しいのかもしれないが、ザックは心を鬼にして上官を注意する。
「……ボーッとしてる暇はありませんよ。まだ三分の一も終わってないんですから」
そうね、と呟いてエルザの空色の瞳が机の上へと戻る。しかしどこかうわの空で、どうにも効率が悪い。
何か仕事を進めさせられる良い方法はないものかとザックが密かに思案していると、エルザは「トラブルに巻き込まれていたりしないわよね……」と不安そうに漏らした。
咄嗟に、ザックは返事ができなかった。
つい先日、エルザは他国に赴き、トラブルに見舞われたばかりだった。その被害はあまりにも酷い。友人には裏切られ、地下牢に放り込まれ、食事を抜かれて利き手を剣で斬られた。その危害を加える一端を、ザックは担ったのだから。
だが、エルザはザックを責めるためにこれを口にしたわけではない。それはあり得ない。
この人は、恋人や出来たばかりの部下が自分と同じ目に合うことが怖いのだ。
グレンはともかくオーウェンは水の属性を持っていない。もしもダイヤの国であったように投獄されて飲食を禁じられたら、オーウェンは数日と保たずに体調を崩すだろう。
しかしエルザは取り繕うように肩を竦めて、目を書類へと戻した。
「心配していてもしょうがないわね」と笑って。
「エルザ様」
思わず、上司の名前を呼んだ。この人は自分からの謝罪が欲しいわけではなく、ただ不安なだけだ。なら、罪を背負う自分にできる償いは何か。そんなもの、一つしかない。
「二人に会いに行きましょう。この仕事を全て終わらせて、追いかけるんです。俺がお供しますから」
「そ、れは嬉しい、けど……これを全部って、終わるかしら……?」
「終わるかな、ではなく、終わらせるんです。エルザ様のオーウェン様への愛が試されますよ!」
エルザはポトリとペンを落とし、顔を真っ赤に染めて「愛……試される……」とうわ言のように呟いた。構わずザックが畳みかけた。
「会いに行きたくないんですか。帰るまでのんびり仕事して待ちますか。頑張れば一日でも早く会えるかもしれないのに、ダラダラ仕事して自堕落な時間を過ごす方を選ばれますか」
「仕事をしているのに自堕落なって言われる人生は少し嫌だわ……」
「嫌なら二人で力を合わせて、オーウェン様とグレンを迎えに行きましょう。必要な資料があれば取ってきます。言われればキングにだって助力を求めに行きますよ。……二人に会いたいんでしょう?」
ひたと視線を合わせて、じっと見つめること数秒。エルザがクスクスと笑いを漏らした。
「ザックは本当に、いい子ねぇ」
「……いい子ってなんですか。子供扱いはやめてください。特に仕事が嫌で逃げ回るような人には子供扱いされたくありません」
「子供扱いなんてしてないわよ。頼りになる男の子だわ」
それもまた微妙な扱いだと思う。
「今日は徹夜で頑張るわ。早く二人に会いたいもの。手伝ってくれる?」
それでも、ふわりと笑って言われれば、もちろん否と答えるはずがない。
「当然です。俺はそのために残りましたから」
「本当に、あなた達は頼りになるわ」
嬉しそうな、自慢げなともいえる笑顔を浮かべたエルザの手がこちらへと伸びる。思わず首を傾げたら、頭にポスリと手が乗った。
ほんの一瞬、固まって──飛び退いた。
「油断大敵よ」
やられた。
顔から火が出るとはこのことかと思うほど顔が熱い。ここ数日、平和な日々を過ごしていたから、この悪癖をすっかり忘れてしまっていた。
ザックはやっとのことで「話し合いの場を法廷に移してもいいんだぞ!」と得意気にニヤける上官を脅したが、その実、母親以外の手が頭に乗る程度のことでここまで心が揺さぶられるとは思いもよらず、激しく動揺していた。
それを誤魔化すために上司へのスパルタ教育を開始し、鞭打つ勢いで三日分の仕事をわずか一日で終わらせてしまったのだった。
固まる二人の後ろで、女性達は久しぶりの再会を喜び合っている。
「人を探してたんだけど見つからなくってね。ちょうどミアの家がこの近くだって思い出したの。会えて嬉しいわ」
「私も来てくれて嬉しい。おじいちゃんは元気よぉ。相変わらず結婚結婚うるさいんだから。エルザはまた可愛い子を連れてるのねぇ。彼氏?」
「残念なことに部下なのよ」
「え~、そうなの? なかなか王都まで行かないからさぁ。こんな田舎じゃ出会いも何もあったもんじゃないのよねぇ。もらっていい?」
「……やめておきなさい。とーっても厳しいのよ、この子……ミアの手には負えないわ……」
「人聞きが悪いですよ。俺が厳しくしたおかげで故郷まで来られたんでしょう。この厳しさも部下としての愛情ですよ」
「……ほらね。あんなに可愛かったのに、こんな生意気なこと言うようになっちゃって……」
「生意気で結構です。……もう拗ねないでくださいよ。二人と行き違いになったのは俺のせいではありません。エルザ様が大切な印鑑を窓から落としたから探すのに手間取ったんでしょう。書類も風で飛ばすし、だからあれほど窓は閉めておけと申し上げたのに」
わずか二日で部下がすっかり小舅へと変貌している。相当な苦労をかけたらしい。オーウェンは息を潜めつつ心の中で謝罪した。
グレンが身をかがめて声を落とした。
「オーウェン様。エルザ様がいらしてますが……」
「気付かれるんじゃないぞ、グレン。もしも俺達がカップルのふりをしていたなどとバレたら……あの人は確実に誤解して面倒なことになる」
「ですよね……気付かれる前に逃げます……?」
「駄目だ。会計が済んでない」
会計自体は金をテーブルに置いておけば済む話だが、今立ち上がれば確実に気付かれるし、なによりこの良い磯の香りを放置して去るのは後ろ髪を引かれる思いをしそうだった。
だが、この流れはまずい。
「いいじゃん。仲良しそうで。私は連戦連敗よぉ。さっきもそこのイケメン達相手に玉砕したとこ」
「イケメン?」
オーウェンが勢いよく立ち上がり、ガタリと椅子が倒れた。
早くあの店員から引き離さなくてはと恋人の名を呼ぼうと口を開き──。
「そう。カップルなんだって。ざーんねん」
真正面から、グレンとザックの上官であり恋人同士でもあるエルザとオーウェンの視線が、合わさった。
「カッ、プルって……この……二人が……?」
エルザが狼狽したように友人と恋人へと交互に顔を向ける。
「エルザ、違うんです。これは」
「そ、そうだよ! 俺は嫌だって言ったのにオーウェン様が無理矢理!」
「おい、その言い方は語弊があるぞ!」
必死の言い訳も虚しくエルザの表情に困惑が広がる。後ろに立つザックは「これは俺も知らないぞ……」と恐怖したように顔を青ざめさせていた。
エルザの口から「なによそれ……」と嘆くような声が溢れる。これはまずいことになったと二人はさらに言い募ろうと口を開いたが、エルザの方が早かった。
「──私はどっちに妬けばいいのよ!」
数秒間、場に沈黙が降りた。
「……えっと……お、れ……ですかね……?」
「オーウェン様に決まってるだろ! なんでオーウェン様もそこで自信なさげなんですか!!」
「困惑するところがおかしいでしょう! オーウェン様があなたの恋人でしょうが!」
部下二人から怒鳴られて上官二人は首を竦めた。
「いや、ダイヤの国では二人にキツく当たってしまったからな。俺はあまり好かれていないだろうと思っていたのにグレンと二人での出張が思いの外楽しくて、エルザに自慢したい気持ちだったから……」
「そんなの、私だってザックと二人で楽しかったわよ! いっぱい怒られたけど道にも迷わなかったし、宿もちゃんと予約が取れていたわ! いっぱい怒られたけどまっすぐここまで来られたんだから!」
上官二人は自分達がどれだけ部下と仲良くお出掛けしたかを言い争い始め、その声は店中に響き渡った。
「次はグレンとお留守番してるわよ! 私の方が仲良いんだから!」
「留守番を前提に話すんじゃない! 誰のせいでザックが一人で留守番することになったと思ってるんだ!! あんたのお守りですっかり疲弊して、可哀想に……っ」
あまりの上官達の醜態に、ザックが「俺は次も留守番でいいですから!」と止めに入り、グレンは「そもそも出張はお出掛けじゃないでしょう!」と主張したが、二人の耳には入らなかった。
その時、再び扉が客の来訪を告げた。
放心していた店員の女──ミアが条件反射で顔をそちらへと向けて、顔を手で覆った。
「あーあ……」とでも言いたげに。
客は男だった。それも大男と言っていいほど体の大きな頭の禿げあがった男だ。
大きな体格のその男は、店の一点に目を止め、大きな口を喉の奥が見えるほど開いた。
「……こんの、馬鹿娘が!!! 親に顔も見せんとなにを人ん家で騒いでやがる!!!」
割れ鐘のような声が店の端まで響き渡り、さすがに騒いでいた二人も目を丸くした。
「父さん!!」
騒いでいたうちの一人であるエルザが、客を見とめて慌てて叫んだ。
その単語に、オーウェンの体が竦み上がる。
よりにもよって、恋人と喧嘩中に父親と会うことになるとは。
「外まで聞こえとったぞ! 嫁入り前の娘がでかい声で騒ぐんじゃねえ!!」
だが焦るオーウェンをよそに、エルザの父は大きな拳を恋人へと振り下ろした。
ガツンと大きな音がして、エルザが頭頂部を押さえる。
「いったぁい! もう、すぐに手を出すんだから!! 嫁入り前に傷物になったらどうするのよ!」
「それが嫌ならとっととルウにでもゼンにでももらってもらえ! 二人はどこにいやがる!?」
「二人はお城にいるわよぉ……あとその二人にもらってもらう予定はないって何度言ったらわかるの!」
「あの二人以外にお前のようなじゃじゃ馬をもらってくれるような男がいるか!!」
「いるわよ!! ここにちゃんといるもの!! ねっ、オーウェン!!」
いきなりとんでもない死球を投げ込まれた気分だった。
「……こいつがオーウェンか」
初めて父親の目がオーウェンを捉えた。呆けている場合ではない。とにかく始めが肝心だと意を決してオーウェンが口を開こうとしたが──。
「娘を怒鳴りつけていた、この男が、なぁ……」
全身から血の気が引いたようだった。
はぁ、とエルザがため息を漏らした。
「あーあ。一緒に行きたかったなぁ」
「ぜひ一緒に行ってきていただきたかったですよ……」
ザックの声には責める調子に恐怖が混ざっている。しかしエルザは拗ねつつも呑気だった。
「そんなに怒らないでよ。イカは買ってきてもらえるし、今回の出張は潔く諦めるわ」
「……いや、買ってきてくれるわけないでしょう! あのお怒りの表情をちゃんと見ましたか!? 目で殺されるかと思った……」
ザックがぶるりと身を震わせて、両腕で体を包む。
だがエルザは「まだまだね」となぜか得意げに言った。
「あのオーウェンよ。私が食べたいって言ったのよ。買ってこない理由がある?」
ザックは張られた胸から目を逸らし、一瞬も悩まずに「ないです……」と答えた。ザックにも確実に買ってくるだろうと思えるほど、あの補佐は恋人に甘い。
「そうと決まればお仕事頑張りましょう。さすがに終わってなかったらイカはお預けにされちゃうわ」
「っそうです、お仕事ですよ! それさえ終わっていれば、俺は生き永らえられる! さぁ、執務室へ行きますよ!!」
「私のオーウェンを魔王か何かみたいに言わないでほしいわね……」
腕を引いてエルザを連行する。これはよくオーウェンがしている行動だった。
この人は手を繋いでいないとすぐいなくなるから、遠慮なく手綱代わりに掴めと教わっている。
そうして執務室についてからは、順調に仕事が進んでいく──わけもなく。
「こっちは読みましたか?」
「読んだったら。はい、次行くわよ」
「本当でしょうね? あとでクイズを出しますからね」
「えっ、クイズ形式なの? それならもう一度確認しておこうかしら」
「ほらやっぱり読んでない! オーウェン様から、確認後はクイズを出すように言い付かってますからね! 逃しませんよ!」
「違うのよ。ほら、試験前に覚えたことが不安になって最後にもう一回だけーって見直しちゃうことない? あれよ」
「それはありますけど、これはあれじゃない!!」
妙なことを叫びながら、ザックは必死に書類を捌いていく。オーウェン達が戻るのは早くても明後日の夜になる。それまでに終わらせなければ命がない。
だというのにエルザは物悲しそうに橙色に染まる窓の外を見てため息をついた。恋人が恋しいのかもしれないが、ザックは心を鬼にして上官を注意する。
「……ボーッとしてる暇はありませんよ。まだ三分の一も終わってないんですから」
そうね、と呟いてエルザの空色の瞳が机の上へと戻る。しかしどこかうわの空で、どうにも効率が悪い。
何か仕事を進めさせられる良い方法はないものかとザックが密かに思案していると、エルザは「トラブルに巻き込まれていたりしないわよね……」と不安そうに漏らした。
咄嗟に、ザックは返事ができなかった。
つい先日、エルザは他国に赴き、トラブルに見舞われたばかりだった。その被害はあまりにも酷い。友人には裏切られ、地下牢に放り込まれ、食事を抜かれて利き手を剣で斬られた。その危害を加える一端を、ザックは担ったのだから。
だが、エルザはザックを責めるためにこれを口にしたわけではない。それはあり得ない。
この人は、恋人や出来たばかりの部下が自分と同じ目に合うことが怖いのだ。
グレンはともかくオーウェンは水の属性を持っていない。もしもダイヤの国であったように投獄されて飲食を禁じられたら、オーウェンは数日と保たずに体調を崩すだろう。
しかしエルザは取り繕うように肩を竦めて、目を書類へと戻した。
「心配していてもしょうがないわね」と笑って。
「エルザ様」
思わず、上司の名前を呼んだ。この人は自分からの謝罪が欲しいわけではなく、ただ不安なだけだ。なら、罪を背負う自分にできる償いは何か。そんなもの、一つしかない。
「二人に会いに行きましょう。この仕事を全て終わらせて、追いかけるんです。俺がお供しますから」
「そ、れは嬉しい、けど……これを全部って、終わるかしら……?」
「終わるかな、ではなく、終わらせるんです。エルザ様のオーウェン様への愛が試されますよ!」
エルザはポトリとペンを落とし、顔を真っ赤に染めて「愛……試される……」とうわ言のように呟いた。構わずザックが畳みかけた。
「会いに行きたくないんですか。帰るまでのんびり仕事して待ちますか。頑張れば一日でも早く会えるかもしれないのに、ダラダラ仕事して自堕落な時間を過ごす方を選ばれますか」
「仕事をしているのに自堕落なって言われる人生は少し嫌だわ……」
「嫌なら二人で力を合わせて、オーウェン様とグレンを迎えに行きましょう。必要な資料があれば取ってきます。言われればキングにだって助力を求めに行きますよ。……二人に会いたいんでしょう?」
ひたと視線を合わせて、じっと見つめること数秒。エルザがクスクスと笑いを漏らした。
「ザックは本当に、いい子ねぇ」
「……いい子ってなんですか。子供扱いはやめてください。特に仕事が嫌で逃げ回るような人には子供扱いされたくありません」
「子供扱いなんてしてないわよ。頼りになる男の子だわ」
それもまた微妙な扱いだと思う。
「今日は徹夜で頑張るわ。早く二人に会いたいもの。手伝ってくれる?」
それでも、ふわりと笑って言われれば、もちろん否と答えるはずがない。
「当然です。俺はそのために残りましたから」
「本当に、あなた達は頼りになるわ」
嬉しそうな、自慢げなともいえる笑顔を浮かべたエルザの手がこちらへと伸びる。思わず首を傾げたら、頭にポスリと手が乗った。
ほんの一瞬、固まって──飛び退いた。
「油断大敵よ」
やられた。
顔から火が出るとはこのことかと思うほど顔が熱い。ここ数日、平和な日々を過ごしていたから、この悪癖をすっかり忘れてしまっていた。
ザックはやっとのことで「話し合いの場を法廷に移してもいいんだぞ!」と得意気にニヤける上官を脅したが、その実、母親以外の手が頭に乗る程度のことでここまで心が揺さぶられるとは思いもよらず、激しく動揺していた。
それを誤魔化すために上司へのスパルタ教育を開始し、鞭打つ勢いで三日分の仕事をわずか一日で終わらせてしまったのだった。
固まる二人の後ろで、女性達は久しぶりの再会を喜び合っている。
「人を探してたんだけど見つからなくってね。ちょうどミアの家がこの近くだって思い出したの。会えて嬉しいわ」
「私も来てくれて嬉しい。おじいちゃんは元気よぉ。相変わらず結婚結婚うるさいんだから。エルザはまた可愛い子を連れてるのねぇ。彼氏?」
「残念なことに部下なのよ」
「え~、そうなの? なかなか王都まで行かないからさぁ。こんな田舎じゃ出会いも何もあったもんじゃないのよねぇ。もらっていい?」
「……やめておきなさい。とーっても厳しいのよ、この子……ミアの手には負えないわ……」
「人聞きが悪いですよ。俺が厳しくしたおかげで故郷まで来られたんでしょう。この厳しさも部下としての愛情ですよ」
「……ほらね。あんなに可愛かったのに、こんな生意気なこと言うようになっちゃって……」
「生意気で結構です。……もう拗ねないでくださいよ。二人と行き違いになったのは俺のせいではありません。エルザ様が大切な印鑑を窓から落としたから探すのに手間取ったんでしょう。書類も風で飛ばすし、だからあれほど窓は閉めておけと申し上げたのに」
わずか二日で部下がすっかり小舅へと変貌している。相当な苦労をかけたらしい。オーウェンは息を潜めつつ心の中で謝罪した。
グレンが身をかがめて声を落とした。
「オーウェン様。エルザ様がいらしてますが……」
「気付かれるんじゃないぞ、グレン。もしも俺達がカップルのふりをしていたなどとバレたら……あの人は確実に誤解して面倒なことになる」
「ですよね……気付かれる前に逃げます……?」
「駄目だ。会計が済んでない」
会計自体は金をテーブルに置いておけば済む話だが、今立ち上がれば確実に気付かれるし、なによりこの良い磯の香りを放置して去るのは後ろ髪を引かれる思いをしそうだった。
だが、この流れはまずい。
「いいじゃん。仲良しそうで。私は連戦連敗よぉ。さっきもそこのイケメン達相手に玉砕したとこ」
「イケメン?」
オーウェンが勢いよく立ち上がり、ガタリと椅子が倒れた。
早くあの店員から引き離さなくてはと恋人の名を呼ぼうと口を開き──。
「そう。カップルなんだって。ざーんねん」
真正面から、グレンとザックの上官であり恋人同士でもあるエルザとオーウェンの視線が、合わさった。
「カッ、プルって……この……二人が……?」
エルザが狼狽したように友人と恋人へと交互に顔を向ける。
「エルザ、違うんです。これは」
「そ、そうだよ! 俺は嫌だって言ったのにオーウェン様が無理矢理!」
「おい、その言い方は語弊があるぞ!」
必死の言い訳も虚しくエルザの表情に困惑が広がる。後ろに立つザックは「これは俺も知らないぞ……」と恐怖したように顔を青ざめさせていた。
エルザの口から「なによそれ……」と嘆くような声が溢れる。これはまずいことになったと二人はさらに言い募ろうと口を開いたが、エルザの方が早かった。
「──私はどっちに妬けばいいのよ!」
数秒間、場に沈黙が降りた。
「……えっと……お、れ……ですかね……?」
「オーウェン様に決まってるだろ! なんでオーウェン様もそこで自信なさげなんですか!!」
「困惑するところがおかしいでしょう! オーウェン様があなたの恋人でしょうが!」
部下二人から怒鳴られて上官二人は首を竦めた。
「いや、ダイヤの国では二人にキツく当たってしまったからな。俺はあまり好かれていないだろうと思っていたのにグレンと二人での出張が思いの外楽しくて、エルザに自慢したい気持ちだったから……」
「そんなの、私だってザックと二人で楽しかったわよ! いっぱい怒られたけど道にも迷わなかったし、宿もちゃんと予約が取れていたわ! いっぱい怒られたけどまっすぐここまで来られたんだから!」
上官二人は自分達がどれだけ部下と仲良くお出掛けしたかを言い争い始め、その声は店中に響き渡った。
「次はグレンとお留守番してるわよ! 私の方が仲良いんだから!」
「留守番を前提に話すんじゃない! 誰のせいでザックが一人で留守番することになったと思ってるんだ!! あんたのお守りですっかり疲弊して、可哀想に……っ」
あまりの上官達の醜態に、ザックが「俺は次も留守番でいいですから!」と止めに入り、グレンは「そもそも出張はお出掛けじゃないでしょう!」と主張したが、二人の耳には入らなかった。
その時、再び扉が客の来訪を告げた。
放心していた店員の女──ミアが条件反射で顔をそちらへと向けて、顔を手で覆った。
「あーあ……」とでも言いたげに。
客は男だった。それも大男と言っていいほど体の大きな頭の禿げあがった男だ。
大きな体格のその男は、店の一点に目を止め、大きな口を喉の奥が見えるほど開いた。
「……こんの、馬鹿娘が!!! 親に顔も見せんとなにを人ん家で騒いでやがる!!!」
割れ鐘のような声が店の端まで響き渡り、さすがに騒いでいた二人も目を丸くした。
「父さん!!」
騒いでいたうちの一人であるエルザが、客を見とめて慌てて叫んだ。
その単語に、オーウェンの体が竦み上がる。
よりにもよって、恋人と喧嘩中に父親と会うことになるとは。
「外まで聞こえとったぞ! 嫁入り前の娘がでかい声で騒ぐんじゃねえ!!」
だが焦るオーウェンをよそに、エルザの父は大きな拳を恋人へと振り下ろした。
ガツンと大きな音がして、エルザが頭頂部を押さえる。
「いったぁい! もう、すぐに手を出すんだから!! 嫁入り前に傷物になったらどうするのよ!」
「それが嫌ならとっととルウにでもゼンにでももらってもらえ! 二人はどこにいやがる!?」
「二人はお城にいるわよぉ……あとその二人にもらってもらう予定はないって何度言ったらわかるの!」
「あの二人以外にお前のようなじゃじゃ馬をもらってくれるような男がいるか!!」
「いるわよ!! ここにちゃんといるもの!! ねっ、オーウェン!!」
いきなりとんでもない死球を投げ込まれた気分だった。
「……こいつがオーウェンか」
初めて父親の目がオーウェンを捉えた。呆けている場合ではない。とにかく始めが肝心だと意を決してオーウェンが口を開こうとしたが──。
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