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第二章
58 グレン視点
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入ってきた人物を認めたオーウェン様が、スペードの10の元へと駆け出して行った。
拗ねた表情を浮かべたままのスペードの10を前に一瞬言葉に詰まるも、果敢に叫んだ。
「あなたはいい匂いです!!」
スペードの方々が額に手を当てたのが見えた。
「──うるさいっ! 何日もお風呂に入っていない匂いが私の匂いだなんて言われたら、立つ瀬ないのよ!!」
そう言ってスペードの10はオーウェン様の頭を引き寄せ、自分の首元へと持って行った。
「これが私の匂いよ! 覚えなさい!!」
「…………いや、違いますよ! あなたは普段こんな香料の強い石鹸は使ってなかったはずだ!」
「~~~っうるさいうるさいうるさーい!!!」
これは……俺達が見ていていいものなんだろうか。
そっとスペードの方々を仰いだが、慣れているのか全員が言い争うお二人を半眼で見守っていた。
ポンと手を叩き、勇敢にもそんな二人に割って入ったのは、我が国のキングだった。
「ま、まぁ、エルザ。落ち着いて。ね? そのお洋服、あなたにとてもよく似合ってるわ。そのまま着て帰ってちょうだい。差し上げるわ。今回ダイヤの国が掛けた迷惑に対するほんのお詫び……にもならないわよね」
眉尻の下がった笑みに憂いを滲ませたダイヤのキングは、スペードの10に対して膝をついて頭を下げた。
「本来であれば、自国の10の暴挙はキングである私が止めなければならないもの。それなのに私はソフィアの言いなりになって、あなたが地下に閉じ込められていると知っても出してもあげられなかった。おまけに怪我までさせた挙句、闘技場に放り込むだなんて、どれだけ謝罪しても足りないわね。この件の賠償に関しては、すべてスペードの求めに従います。エルザも……なんでも言ってちょうだい。ダイヤのキングとして、責任をもって償うわ」
ダイヤのキングの後ろではダイヤのクイーンもまた膝をついていた。
ちらりとスペードのキングを伺い見たが、小さく首を振られ、恐らく俺達は膝をつかなくていいと言われたのだと分かった。
スペードの10は少し考えたのち、泳ぐようにスペードの方々の元へと歩み寄った。
その視線の先には可愛らしい女性──ララ様がいる。
小首を傾げたララ様も、スペードの10の元へと小走りに近付いていく。そっと口元に手を当てたスペードの10に耳を向け、何かを聞いたララ様はむっつりと拗ねたような表情を見せた。そのままツンとスペードの10から顔を逸らしてしまう。くすくすと笑ったスペードの10はララ様の頬を指で突いて、ダイヤのキングへと向き直った。
「細かい内容についてはスペードのキングと話し合っていただくとして、私、スペードの10個人としての賠償をお伝えしても?」
「なんでも言ってちょうだい。必ず償わせていただきます」
その返答にスペードの10はにんまりと笑った。
「それでは、後日こちらの白の10も合わせて三人分の、白の国で一番美味しいカフェの飲食代金のお支払いを要求します。それとおもてなしもしていただくわ。私達のエスコートを求めます。あとは……そうね。買い物も行きましょう。そのお支払いもすべて、ダイヤのキングにお任せします。ディナーもついでにお願いしちゃおうかしら」
「お土産も要求しちゃってください! もうすっごいお高いお菓子とかアクセサリーとか!」
にっこりと柔らかく要求するスペードの10に対して、ララ様はお怒りなようで眉が吊り上がっている。スペードの10の優しい沙汰に不満があるのかもしれなかった。
言われたダイヤのキングも口を開けたまま、呆然としてしまっている。
「そ、んなことで……いい、の……?」
「そんなことって言うけど、私達、容赦する気はないわよ。食べたいものを遠慮なく注文するし、お土産ももちろん付けてもらいます。買いたいけどお値段がねぇって悩んでた物も、いい機会だから全て買い揃えちゃうわ。ララも、欲しいものがあったらチャンスよ。好きなだけ買ってもらいましょう」
「当然です。憧れの、この棚の右から左まで全部。とか店員さんに言ってやりますから。支払いはこの人がしますので。ってのもしてやりますし、荷物ももちろん全部持たせます!」
男しかいない俺の周囲の空気が重く冷えた気がした。女の人のこの徒党は、男にとっては正直ひどく恐ろしい。
心なしか、ダイヤのキングの口元がひきつったように見えた。
「か、必ずすべてお支払いさせていただきます……」
顔を見合わせたスペードの10とララ様の不敵な笑みに、してはいけないのにダイヤのキングに対してほんの少し同情してしまいそうになった。
「エルザ。ほかにはないのか?」
ソファに腰かけたままのスペードのキングが笑いながら尋ねた。
一瞬、きょとんとした表情を浮かべたスペードの10は、すぐに口角をゆるりと上げて、なぜか俺達のほうへ歩み寄ってきた。
「もう一つ、あるわ」
そうして俺達の背後に回り、俺が左手で、そしてザックが右手で肩をポンと叩かれた。
「彼らを、スペードに勧誘する許可をちょうだい」
一瞬、息をするのも忘れて、心臓が止まったかと思った。叩かれた左肩がじんじんと熱くなっていく。
今、この人は何を言った……?
「それに関しては当然エルザの好きにしてくれて構わないわ。私が指示するものじゃなく、その子達が決めることだもの」
ありがとう、と。
にんまりと笑ったスペードの10が正面へと回り込んできた。
「グレン。ザック。改めて、お礼を言うわ。あなた達がいなければ、私はお腹は空くわ、癒しはないわできっと毎日陰鬱に過ごすことになったと思う。本当にありがとう。特にグレン。あなたの作ってくれたバゲットサンドはまた是非食べさせてもらいたいわ。とっても美味しかった。その上で、これはお願いなんだけど……二人とも、スペードに来ない? 私の直属の部下として、ぜひ二人にはスペードで働いてほしいのよ」
待ちなさい、と声をかけたのは、スペードのクイーンだ。
「お腹が空いたとはなんです? ダイヤは食事もろくに出さなかったのですか?」
「ソフィアが食事を出さないよう指示を出していたそうなのよ。それなのに、この子達がご飯を持ってきてくれたの。恩人なのよ」
スペードの方々の纏う空気が冷たくなり、ああソフィアはもう死んだなと思った。
「どうかしら? 今よりも待遇は改善したものになるよう、配慮はさせてもらうわよ。悪い話でもないと、思うんだけど……」
こちらを伺うように見つめるスペードの10を前に、言葉が出ない。
先に口を開いたのは、ザックだ。
「本当に、スペードの10の部下にしていただけるのですか……?」
「ええ。私が部下になってほしいってお願いしているのよ。ところで、エルザって呼んでって言わなかった?」
「言われてませんし、無理です……」
首を大きく振ったザックは、ちらりと俺に視線を向けてきた。
ごくりと喉が動き、その視線がスペードの10へと戻った。
「俺は……あなたの下で働きたいと思います。いえ、働かせてくださいとお願いするのは俺のほうです。俺の勇気がなかったせいで、スペードの10に大変な不名誉を被らせてしまうところでした。それなのに、大事な右手に怪我をしてまで俺を助けてくださって……恩人なんてとんでもないです。それは、あなたのことです。命を助けてくださったスペードの10の元で働いて、あなたのお役に立ちたいと思います。至らない身ですが、一生懸命勤めます。よろしくお願い致します」
ザックはまっすぐに立ち、最敬礼を以ってスペードの10の求めに応えた。
本当に、心から嬉しそうな笑顔を満面に浮かべたスペードの10の左手が、ザックの頭頂部へと向かい──ザックはのけ反って逃げた。
「どうして逃げるのよ!!」
「それだけは絶っ対にお断りします!!」
だがすぐに壁際で捕まった。足腰の鍛え方が違うのかもしれない。
「甘いわね。私は今はもう牢から出ているのよ。観念なさい!」
「嫌だっつってんでしょうが!! 絶対に拒否する!!」
「往生際が悪い!」
スペードの10の左手が悲鳴を上げるザックへと伸びる寸前、止まった。
「はいはい。そこまでねー。今、俺がこの青少年らの護衛なんで」
レグサス様だった。スペードの10の腕を取ったレグサス様が、ザックを背に隠す。
「あっありがとうございます……! スペードの城に、セクハラ被害に対する相談窓口はありますか!?」
「……ねぇなー、それは」
涙交じりのザックの訴えは叶わないようだった。
頬を膨らませたスペードの10が、勢いよく振り返り、ズンズンと俺目掛けて歩み寄ってきた。
「いつか絶対撫でてやるわ……」
不穏な決意表明と共に。
「それで、グレンはどうする? 来てくれる?」
こほんと一つ咳をして、スペードの10が気を取り直したように笑顔を浮かべて首を傾げた。
痰が絡んだようになりながら口を開くも、まだ答えが出せない。
「俺は……」
「何か心配事があるなら話してくれる? 解決できるかもしれないもの」
心配事といえば、先ほど考えた両親のことだった。両親を残して他国へ行くわけにはいかないと説明すると、スペードの10はそんなことかと笑った。
「スペードの城には他国から来た人が多いのよ。だから長期休みの時は、スペードの子達よりも多くお休みを与えるようになっているし、ダイヤならスペードのお隣でしょう。帰るのにかかる時間はさほど変わらないんじゃないかしら。それでも気になるなら、今よりもお休みを多く渡せるように調整するわ。私の部下はほとんどスペードの子達だから、というよりほとんどアカデミーの同期だから帰るのに時間のかかる子もいないし、ザックとグレンは早くお休みを取らせてもらえるよう伝えておくわよ。それともご両親がいいと言ってくださるなら、スペードに移り住んでもらってもいいわね。城には家族で住める社宅もあるから、あなたが心置きなく仕事できる環境を整えると約束するわ。どう?」
矢継ぎ早に解決策が飛び出し、酸欠の魚のような気分だった。
「俺に、そこまで便宜を図ってもらうだけの価値があるんでしょうか」
「それは知らないわ」
スペードの10ははっきりと、そう断言した。
「あなたと知り合ってからまだ数日しか経っていないじゃない。仕事ぶりなんて、わかるわけないでしょう。でもね。きっとグレンもザックも、じゃれあいながら毎日楽しく働いてくれるだろうってことはわかるわ。それに、困ってる人を見捨てない優しい子達だってこともわかる。知らないけど、わかるのよ。水やパンを手渡してくれた手は硬くて、剣をよく握っている手だってこともわかったし、努力する子達なんだろうなって、わかる。それに、ここに居るってことは私のために頑張ってくれたんでしょう? これだけでも勧誘する理由にはならない?」
視線が真っ直ぐに合わされて、胸が騒いだ。
スペードの方々を見て、その和気藹々とした雰囲気に俺は羨ましいと思った。入隊試験を受けに行こうかと考えるほどに。
だから、両親のことで便宜を図っていただけるなら。それに、本当に──この人の部下になれるなら。
だが、無言でいた俺が返事を迷っているらしいと思ったのか、スペードの10がくすりと笑いを漏らした。
「ごめんね、グレン。選択の余地があると見せかけているけど、実はこれ、決定事項なの」
「え?」
スペードの10の笑顔はとても意地悪そうな悪戯めいたものなのに、胸の奥が沸騰するように熱くなった。
「断られても、何度でも説得するつもりだったの。来るって言うまでね。だから、気がかりなことは全部言いなさい。……何かまだ、ある?」
何度でも説得してくれるほど、本気で俺達の勧誘を考えてくれていたなんて思ってもみなくて。
気付いたら首を縦に振っていた。
「お、俺はもう……あなたの部下のつもり、です。せ、精一杯勤めます」
俺の台詞を聞いたスペードの10の浮かべた笑顔は先ほどザックに向けられたものと同じで、左手が伸ばされてきたのも、同じだった。
だがこの左手は、俺の頭に届くことなく、途中で停止した。
また三つ編みか? と首を傾げて、垂らした髪を差し出し──逃げられた。また、左手が俺の目線の高さに据えられる。
これは、見たことのある行動だった。
まさか、そんな。
昨日の勘違いを思い出して、頬が焼けたように熱くなる。
にこにこと嬉しそうに笑うスペードの10の目が細くなり、唇が動いた。『気付いてないと思ったの』と。
その言葉の意味は、明らかだった。
恋人がいるくせに、と。地下で言ったのと同じように言わなければいけないのに。
昨日お預けを食らってしまったこの誘惑には、抗いがたいものがあった。
髪越しの柔らかで温かい感覚に、全身に鳥肌が立つようだった。
「ふふ。グレンはいい子ねぇ」
「…………」
頬に手を当てて嬉しそうに言うスペードの10の顔から逃げるように目を逸らす。
わしゃわしゃと撫でられて、顔中の筋肉に力を入れないといけなかった。
「グ、グレン、お前……っ」
レグサス様の背中に隠れていたザックが、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「セクハラで訴えるなら力を貸すぞ!! 司法は平等だ! 弱者の味方だぞ!」
「…………」
「……ほんっとうに人聞きの悪い子ねぇ。合意なんだからセクハラも何もないわよ。ねぇ、グレン?」
「合意!? 合意があるのか!? ……これ、合意なのかよ、グレン!!」
「いや……その……」
「あるのかよ!?」
頭を抱える友人に、今後の友情にひびが入っていやしないかと心配になったが……頭を離す選択肢は俺には選べなかった。
にまにまと笑いながら俺の頭を撫で続けるスペードの10の手が、急に離れた。
突然訪れた喪失感に、頭を上げ、喉の奥で悲鳴が漏れた。
「──そうか。俺が夜通し移動して証拠集めに奔走していた時に。あんたは、若い男と戯れていたと。それはさぞ、楽しい時間だっただろう。なぁ。エルザ」
スペードの10の腕を掴み、背後に静かな炎を背負ったオーウェン様を見とめたスペードの10の顔から、音を立てて血の気が引いて行った。
この怒りを前に、俺に出来ることなど、何もない。
拗ねた表情を浮かべたままのスペードの10を前に一瞬言葉に詰まるも、果敢に叫んだ。
「あなたはいい匂いです!!」
スペードの方々が額に手を当てたのが見えた。
「──うるさいっ! 何日もお風呂に入っていない匂いが私の匂いだなんて言われたら、立つ瀬ないのよ!!」
そう言ってスペードの10はオーウェン様の頭を引き寄せ、自分の首元へと持って行った。
「これが私の匂いよ! 覚えなさい!!」
「…………いや、違いますよ! あなたは普段こんな香料の強い石鹸は使ってなかったはずだ!」
「~~~っうるさいうるさいうるさーい!!!」
これは……俺達が見ていていいものなんだろうか。
そっとスペードの方々を仰いだが、慣れているのか全員が言い争うお二人を半眼で見守っていた。
ポンと手を叩き、勇敢にもそんな二人に割って入ったのは、我が国のキングだった。
「ま、まぁ、エルザ。落ち着いて。ね? そのお洋服、あなたにとてもよく似合ってるわ。そのまま着て帰ってちょうだい。差し上げるわ。今回ダイヤの国が掛けた迷惑に対するほんのお詫び……にもならないわよね」
眉尻の下がった笑みに憂いを滲ませたダイヤのキングは、スペードの10に対して膝をついて頭を下げた。
「本来であれば、自国の10の暴挙はキングである私が止めなければならないもの。それなのに私はソフィアの言いなりになって、あなたが地下に閉じ込められていると知っても出してもあげられなかった。おまけに怪我までさせた挙句、闘技場に放り込むだなんて、どれだけ謝罪しても足りないわね。この件の賠償に関しては、すべてスペードの求めに従います。エルザも……なんでも言ってちょうだい。ダイヤのキングとして、責任をもって償うわ」
ダイヤのキングの後ろではダイヤのクイーンもまた膝をついていた。
ちらりとスペードのキングを伺い見たが、小さく首を振られ、恐らく俺達は膝をつかなくていいと言われたのだと分かった。
スペードの10は少し考えたのち、泳ぐようにスペードの方々の元へと歩み寄った。
その視線の先には可愛らしい女性──ララ様がいる。
小首を傾げたララ様も、スペードの10の元へと小走りに近付いていく。そっと口元に手を当てたスペードの10に耳を向け、何かを聞いたララ様はむっつりと拗ねたような表情を見せた。そのままツンとスペードの10から顔を逸らしてしまう。くすくすと笑ったスペードの10はララ様の頬を指で突いて、ダイヤのキングへと向き直った。
「細かい内容についてはスペードのキングと話し合っていただくとして、私、スペードの10個人としての賠償をお伝えしても?」
「なんでも言ってちょうだい。必ず償わせていただきます」
その返答にスペードの10はにんまりと笑った。
「それでは、後日こちらの白の10も合わせて三人分の、白の国で一番美味しいカフェの飲食代金のお支払いを要求します。それとおもてなしもしていただくわ。私達のエスコートを求めます。あとは……そうね。買い物も行きましょう。そのお支払いもすべて、ダイヤのキングにお任せします。ディナーもついでにお願いしちゃおうかしら」
「お土産も要求しちゃってください! もうすっごいお高いお菓子とかアクセサリーとか!」
にっこりと柔らかく要求するスペードの10に対して、ララ様はお怒りなようで眉が吊り上がっている。スペードの10の優しい沙汰に不満があるのかもしれなかった。
言われたダイヤのキングも口を開けたまま、呆然としてしまっている。
「そ、んなことで……いい、の……?」
「そんなことって言うけど、私達、容赦する気はないわよ。食べたいものを遠慮なく注文するし、お土産ももちろん付けてもらいます。買いたいけどお値段がねぇって悩んでた物も、いい機会だから全て買い揃えちゃうわ。ララも、欲しいものがあったらチャンスよ。好きなだけ買ってもらいましょう」
「当然です。憧れの、この棚の右から左まで全部。とか店員さんに言ってやりますから。支払いはこの人がしますので。ってのもしてやりますし、荷物ももちろん全部持たせます!」
男しかいない俺の周囲の空気が重く冷えた気がした。女の人のこの徒党は、男にとっては正直ひどく恐ろしい。
心なしか、ダイヤのキングの口元がひきつったように見えた。
「か、必ずすべてお支払いさせていただきます……」
顔を見合わせたスペードの10とララ様の不敵な笑みに、してはいけないのにダイヤのキングに対してほんの少し同情してしまいそうになった。
「エルザ。ほかにはないのか?」
ソファに腰かけたままのスペードのキングが笑いながら尋ねた。
一瞬、きょとんとした表情を浮かべたスペードの10は、すぐに口角をゆるりと上げて、なぜか俺達のほうへ歩み寄ってきた。
「もう一つ、あるわ」
そうして俺達の背後に回り、俺が左手で、そしてザックが右手で肩をポンと叩かれた。
「彼らを、スペードに勧誘する許可をちょうだい」
一瞬、息をするのも忘れて、心臓が止まったかと思った。叩かれた左肩がじんじんと熱くなっていく。
今、この人は何を言った……?
「それに関しては当然エルザの好きにしてくれて構わないわ。私が指示するものじゃなく、その子達が決めることだもの」
ありがとう、と。
にんまりと笑ったスペードの10が正面へと回り込んできた。
「グレン。ザック。改めて、お礼を言うわ。あなた達がいなければ、私はお腹は空くわ、癒しはないわできっと毎日陰鬱に過ごすことになったと思う。本当にありがとう。特にグレン。あなたの作ってくれたバゲットサンドはまた是非食べさせてもらいたいわ。とっても美味しかった。その上で、これはお願いなんだけど……二人とも、スペードに来ない? 私の直属の部下として、ぜひ二人にはスペードで働いてほしいのよ」
待ちなさい、と声をかけたのは、スペードのクイーンだ。
「お腹が空いたとはなんです? ダイヤは食事もろくに出さなかったのですか?」
「ソフィアが食事を出さないよう指示を出していたそうなのよ。それなのに、この子達がご飯を持ってきてくれたの。恩人なのよ」
スペードの方々の纏う空気が冷たくなり、ああソフィアはもう死んだなと思った。
「どうかしら? 今よりも待遇は改善したものになるよう、配慮はさせてもらうわよ。悪い話でもないと、思うんだけど……」
こちらを伺うように見つめるスペードの10を前に、言葉が出ない。
先に口を開いたのは、ザックだ。
「本当に、スペードの10の部下にしていただけるのですか……?」
「ええ。私が部下になってほしいってお願いしているのよ。ところで、エルザって呼んでって言わなかった?」
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首を大きく振ったザックは、ちらりと俺に視線を向けてきた。
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ザックはまっすぐに立ち、最敬礼を以ってスペードの10の求めに応えた。
本当に、心から嬉しそうな笑顔を満面に浮かべたスペードの10の左手が、ザックの頭頂部へと向かい──ザックはのけ反って逃げた。
「どうして逃げるのよ!!」
「それだけは絶っ対にお断りします!!」
だがすぐに壁際で捕まった。足腰の鍛え方が違うのかもしれない。
「甘いわね。私は今はもう牢から出ているのよ。観念なさい!」
「嫌だっつってんでしょうが!! 絶対に拒否する!!」
「往生際が悪い!」
スペードの10の左手が悲鳴を上げるザックへと伸びる寸前、止まった。
「はいはい。そこまでねー。今、俺がこの青少年らの護衛なんで」
レグサス様だった。スペードの10の腕を取ったレグサス様が、ザックを背に隠す。
「あっありがとうございます……! スペードの城に、セクハラ被害に対する相談窓口はありますか!?」
「……ねぇなー、それは」
涙交じりのザックの訴えは叶わないようだった。
頬を膨らませたスペードの10が、勢いよく振り返り、ズンズンと俺目掛けて歩み寄ってきた。
「いつか絶対撫でてやるわ……」
不穏な決意表明と共に。
「それで、グレンはどうする? 来てくれる?」
こほんと一つ咳をして、スペードの10が気を取り直したように笑顔を浮かべて首を傾げた。
痰が絡んだようになりながら口を開くも、まだ答えが出せない。
「俺は……」
「何か心配事があるなら話してくれる? 解決できるかもしれないもの」
心配事といえば、先ほど考えた両親のことだった。両親を残して他国へ行くわけにはいかないと説明すると、スペードの10はそんなことかと笑った。
「スペードの城には他国から来た人が多いのよ。だから長期休みの時は、スペードの子達よりも多くお休みを与えるようになっているし、ダイヤならスペードのお隣でしょう。帰るのにかかる時間はさほど変わらないんじゃないかしら。それでも気になるなら、今よりもお休みを多く渡せるように調整するわ。私の部下はほとんどスペードの子達だから、というよりほとんどアカデミーの同期だから帰るのに時間のかかる子もいないし、ザックとグレンは早くお休みを取らせてもらえるよう伝えておくわよ。それともご両親がいいと言ってくださるなら、スペードに移り住んでもらってもいいわね。城には家族で住める社宅もあるから、あなたが心置きなく仕事できる環境を整えると約束するわ。どう?」
矢継ぎ早に解決策が飛び出し、酸欠の魚のような気分だった。
「俺に、そこまで便宜を図ってもらうだけの価値があるんでしょうか」
「それは知らないわ」
スペードの10ははっきりと、そう断言した。
「あなたと知り合ってからまだ数日しか経っていないじゃない。仕事ぶりなんて、わかるわけないでしょう。でもね。きっとグレンもザックも、じゃれあいながら毎日楽しく働いてくれるだろうってことはわかるわ。それに、困ってる人を見捨てない優しい子達だってこともわかる。知らないけど、わかるのよ。水やパンを手渡してくれた手は硬くて、剣をよく握っている手だってこともわかったし、努力する子達なんだろうなって、わかる。それに、ここに居るってことは私のために頑張ってくれたんでしょう? これだけでも勧誘する理由にはならない?」
視線が真っ直ぐに合わされて、胸が騒いだ。
スペードの方々を見て、その和気藹々とした雰囲気に俺は羨ましいと思った。入隊試験を受けに行こうかと考えるほどに。
だから、両親のことで便宜を図っていただけるなら。それに、本当に──この人の部下になれるなら。
だが、無言でいた俺が返事を迷っているらしいと思ったのか、スペードの10がくすりと笑いを漏らした。
「ごめんね、グレン。選択の余地があると見せかけているけど、実はこれ、決定事項なの」
「え?」
スペードの10の笑顔はとても意地悪そうな悪戯めいたものなのに、胸の奥が沸騰するように熱くなった。
「断られても、何度でも説得するつもりだったの。来るって言うまでね。だから、気がかりなことは全部言いなさい。……何かまだ、ある?」
何度でも説得してくれるほど、本気で俺達の勧誘を考えてくれていたなんて思ってもみなくて。
気付いたら首を縦に振っていた。
「お、俺はもう……あなたの部下のつもり、です。せ、精一杯勤めます」
俺の台詞を聞いたスペードの10の浮かべた笑顔は先ほどザックに向けられたものと同じで、左手が伸ばされてきたのも、同じだった。
だがこの左手は、俺の頭に届くことなく、途中で停止した。
また三つ編みか? と首を傾げて、垂らした髪を差し出し──逃げられた。また、左手が俺の目線の高さに据えられる。
これは、見たことのある行動だった。
まさか、そんな。
昨日の勘違いを思い出して、頬が焼けたように熱くなる。
にこにこと嬉しそうに笑うスペードの10の目が細くなり、唇が動いた。『気付いてないと思ったの』と。
その言葉の意味は、明らかだった。
恋人がいるくせに、と。地下で言ったのと同じように言わなければいけないのに。
昨日お預けを食らってしまったこの誘惑には、抗いがたいものがあった。
髪越しの柔らかで温かい感覚に、全身に鳥肌が立つようだった。
「ふふ。グレンはいい子ねぇ」
「…………」
頬に手を当てて嬉しそうに言うスペードの10の顔から逃げるように目を逸らす。
わしゃわしゃと撫でられて、顔中の筋肉に力を入れないといけなかった。
「グ、グレン、お前……っ」
レグサス様の背中に隠れていたザックが、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「セクハラで訴えるなら力を貸すぞ!! 司法は平等だ! 弱者の味方だぞ!」
「…………」
「……ほんっとうに人聞きの悪い子ねぇ。合意なんだからセクハラも何もないわよ。ねぇ、グレン?」
「合意!? 合意があるのか!? ……これ、合意なのかよ、グレン!!」
「いや……その……」
「あるのかよ!?」
頭を抱える友人に、今後の友情にひびが入っていやしないかと心配になったが……頭を離す選択肢は俺には選べなかった。
にまにまと笑いながら俺の頭を撫で続けるスペードの10の手が、急に離れた。
突然訪れた喪失感に、頭を上げ、喉の奥で悲鳴が漏れた。
「──そうか。俺が夜通し移動して証拠集めに奔走していた時に。あんたは、若い男と戯れていたと。それはさぞ、楽しい時間だっただろう。なぁ。エルザ」
スペードの10の腕を掴み、背後に静かな炎を背負ったオーウェン様を見とめたスペードの10の顔から、音を立てて血の気が引いて行った。
この怒りを前に、俺に出来ることなど、何もない。
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