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第二章

56 オーウェン視点

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 挙手をして発言したのはララさんだ。

「お、俺一人で、ですか……?」

「はい。エルザさんが怒るとしたらなんだろうって考えたんですが……自分のことであんなに怒る人じゃないと思うんです。だから、怒るとしたらルーファスさんやゼンさん、ノエル君のこと、それか──オーウェンさんのことかなと。ルーファスさん達が行けないなら、オーウェンさんが説得するのが一番、誰も傷つかないんじゃないでしょうか」

 ララさんは「それに……」と、やけに顔をニヤけさせてはっきりと言った。

「人を正気に戻すのは愛の力。というのは、やっぱり王道かなと思います!」

 両拳を握り頬を上気させて断言した人を、渋面のその恋人が手招きした。

「ララ。ちょっと……」
「なんです。妙なことしたら承知しませんからね」

 恋人なんだよな……?

 胡乱な目つきのララさんの肩を抱き寄せたキングは、その耳元で囁いた。

「しねぇっての。……あのな。もしそれでエルザが止まらなければ、アレがもう一人増えることになるんだぞ」

 アレと言って指されたのは、未だ膝を抱える弟君だ。

「………………やめておきましょうか」
「その方がいい。さすがに力づくで取り押さえるのに手が足りなくなる」

 心外だ。
 俺はノエルほど付き合いが長いわけでもないし、もしもエルザに突き放されたとしても、ここまで落ち込むことはない、と思う。

「いえ、どのように説得すればいいのか見当もつきませんが、行くだけ行ってみます。それでお怒りが鎮まるなら、儲け物ですし。それに……」

 ちらりと目を向ければエルザはまだ水でダイヤの10を攻め立てているところだった。いつもながらなんとも見事な水属性の魔法だ。

 逸る心臓を抑えて、急ぎ足でエルザの元へと向かった。


 ※


「……あいつ『それに……』のあと、なんて言った?」

 オーウェンを見送ったルーファスが、残った者達に問いかける。

 額を押さえたレグサスが「あのバカ……」と、これでもかと呆れを滲ませる声を漏らした。

「あの水魔法を間近で見たいので。ってさ」
「…………次の手を考えるぞ。あれは駄目だ」

 弟の頭を撫でてご機嫌取りを再開するルーファスに、残るスペードの面々は同時にため息を吐いた。


 ※


 広場に辿り着けば、ダイヤの10は息も絶え絶えながらもまだ生きていた。
 足元に転がりながら、恐怖に染まった目を俺の恋人へと向けている。

 補佐となってすでに一年以上が経過しているが、エルザが怒ったところは、あまり見たことがない。おまけにそのどれもが自らのことではなく、他人に対しての不幸への怒りだった。
 ……いや、一度怒られたか。ララさんと話していたことでエルザを泣かせ、キングやクイーンを呼んでくると言って、怒らせた。

 今、俺の目の前に立つ、細い背中から感じる計り知れない怒気は、その時の比ではない。

 なんと言って声をかけるべきだろう。

 怒りの原因を突き止めて、同意しつつ宥めるというのが、一般的な怒る相手への適切な対処だが──。

 悩む俺の耳に、ダイヤの10の涙まじりの謝罪の言葉が届く。もしやこれでエルザの怒りも収まるのではと思ったが──その考えは極めて甘かった。

「ごめんなさい? 許して? 何に対しての謝罪なのか、さっぱり分からないわ。同じことばかり繰り返して。今お前がその言葉を繰り返しているのは、何故だかわかる? 逃げたいからよ。私から。自分を苦しめる私から逃げるために、使ってるだけよ。もしも私がお前より弱ければ、口にしようなんて欠片も思わなかったでしょうね。そんな上辺だけのものになんの意味があるの。馬鹿の同じ言葉ばかり聞く方も鬱陶しいのよ。わかる? それじゃあこの次は喉を潰しましょうね。無駄なことしか話さない喉は、不要なものだわ。お前もそう、思うわね」

 駄目だ。想定していたより遥かに怒りが激しい。
 一体何がこの人の逆鱗に触れたのか。今後の参考に知っておきたいものだ。
 おまけに喉を潰されては、証言をさせるのにも支障が……ああ、いやそれは筆談で問題ないのか。……駄目だろう。早く止めなければ。

 口を開きかけたところで、エルザが左手を再度翳した。まずい。魔法を使う動作だ。

 焦る俺をよそに、ダイヤの10の体が水の球体に囲われ、そのまま宙に浮いた。中で溺れる様がよく見える。
 人一人入れるだけの大きさの水球を作るだけでも出来る者はそういないのに、その中に人を入れて浮かせるとは……一体どうやって──?

「そうか、浮力か!!!」

 その原理に思い至り、思わず拳を握った。

「なるほど。たしかに人も物体だ。体全体を水に沈めてしまえば、浮力で水面に浮こうと働くわけだ。まさかそこまで考えてこの魔法を使われたのですか、エルザ!!」

「オーウェン。ちょっと静かに──」

「そもそも先ほどの虎もですよ! 相変わらず喉に水を詰めるのが上手い。しかも今回は対象に近付けなかったというのに、よくぞああも見事に溺れさせられるものだと感心していたのです! あれはまさに数メートル先の針の穴に糸を伸ばして通すようなものですよ! ……不可能だ!! 一体どうすればあれだけ緻密な魔力操作が……そうか。あなたは縫い物も得意でしたね! 俺に必要な修行は縫い物だったか……っ!」

「オーウェン……いい加減に──」

「なんですか、エルザ! 縫い物を教えてくださるのですか!?」

 興奮冷めやらぬまま、エルザのいる方へと視線を向ける。

 水球は突然地面へと流れ落ちて中身が床に叩きつけられ、ぐえと情けない声を出した。

 くるりと振り返った恋人が俯いたまま、ドスドスと音が聞こえそうなほどの怒りとともにこちらへと歩み寄ってくる。

 あれ……俺、今……何をしに来たんだ、っけ……?

「……馬鹿にされて……腹が立ってたってのに……っ」
「馬鹿に? なんの話です?」

 目の前で足を止め、顔を上げた恋人の空色の瞳は、紛れもなく俺への怒りだけを浮かべていた。

「……怒りづらいわぁ!! このっ……魔法バカ!!!」
「ええ!? す、すみません……? あ、いやでも本当にあなたの魔法は素晴らしくてですね……そうだ! 一度あなたの水の鞭を体感してみたいと思っていたのですが、これだけの広場なので丁度いい機会です。お願い出来ませんか?」
「出来るわけないでしょう!! いや今の気分だと一発くらい当ててやろうかとは思ってしまっているけど……っ」
「ぜひお願いします! あ。水球もついでにいいですか? 浮く感覚と息が出来ない感覚を体験したくて」
「嫌よ!! ……久しぶりに会った恋人に言うことがそれなの!? もっと他にあるでしょう!」

 他に。と言われると。

 エルザの言う通り、会うのは数日ぶりで、おまけに最後に会った時エルザは薄暗い地下の牢の中だった。

「……縫い物は教えていただけます?」
「もうっうるさい! この魔法バカ!!」

 もう知らないとばかりにエルザがそっぽを向いてしまった。
 その肩を引き寄せて──腕の中に閉じ込めた。

「冗談だ。……会いたかった」

 抱き締める力を強めた。数日ぶりの温もりと柔らかさに、心地良い安堵感に息が漏れる。

「……嘘ばっかり。序盤は本気だったでしょう」

 細い腕が恨み言と共に背中へと回った。

「縫い物を教えて欲しいというのも本気だよ。一緒に編み物をするのも楽しそうだと思うんだけど、城に帰ったらどうかな」
「仕方ないから、教えてあげるわ。一緒にマフラーでも編む? あなたのマフラーは私が編んで、私のをあなたが編むの」
「そんな不格好なものをあんたに着けさせられない」
「不格好でないように練習すればいいじゃない。あなたとなら、編み物中の沈黙もきっと苦じゃないわ」

 体を離したエルザがふわりと笑う。
 それは胸が騒ぐほど、綺麗な笑顔だった。

 再び抱き寄せて、腕に力を込める。この離れていた数日の寂しさを埋めたかった。
 
 こめかみに唇を落とすと、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔をくすぐった。背中に回る腕が込める強さに、幸せで満たされる。

「ああ……久しぶりの、エルザの匂いだ──」



 ドンと。

 唐突に胸を押された。

 その勢いで尻餅をつき、頭が混乱する中、胸を押した恋人を見上げた。

「……エルザ……?」

 頰を真っ赤に染めて震える姿は、羞恥に寄るものだとは分かったが──どう見ても俺を見る瞳には、再び怒りの炎が灯っているようにしか見えなかった。

「アリ──────ッ!!!」

 そうして恋人が叫んだのは、ダイヤのキングの名だった。

 空色の視線も貴賓席へと移動する。

 身を乗り出したダイヤのキングを見つけたエルザは、わなわなと震える唇で再度叫んだ。

「お風呂貸してぇ──!!!!」

 この時俺は、自らがしでかした事の重大さに、やっと気付いたのだった。
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