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第二章

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 遠くから恋人の怒鳴り声が聞こえた気がして、こっそりと安堵した。グレンからオーウェンは見つからなかったと聞いていたから、もしかしてスペードの国に帰ってしまったのかと少し気がかりだったけど、無用な心配だった。そもそもあの人が私を置いて帰るはずがない。
 しかし今の怒鳴り声。……やはりお説教は避けられそうにない……。

 ほんの少し萎えた気持ちを、目の前の巨体へと切り替える。

 前世のテレビでしか見たことのない虎は、その目線はやや私の下にあるものの、立ち上がればその高さは優に三メートルは超えるだろう大きさだ。
 歩くたびに地面が揺れるような錯覚に陥るほど太い前足は、恐らく私の顔ほどもあるだろう。さすがにこの肉球を触りたいなどの誘惑は湧かない。
 こちらにひたと合わされた金色の瞳は決して逸らされない。吐かれる生臭い息と舌の先から垂れた涎が生々しい。

 この虎との試合は、時間いっぱい逃げ切れば勝ちだと教えてくれたあのおじさんを行かせなくて、心から良かったと思う。

 オーウェンがここにいるということは、ルーファス達もここにいるのだろう。だとすると……あの女は、私がこの大虎に食い殺されるところを、スペードのみんなに見せつけるつもりだったのか。
 ダイヤの10は、あの可愛らしい見た目に反してなかなかえげつないことを考える。

 絶対、思い通りにさせてやるものか。

「ベティ」

 自らの名前を理解しているらしい虎の目がわずかに反応を見せた。

 多くの観客が逃げていくのが視界の端から見える。残虐なショーだけに、苦手な人が多いのだろう。
 なら、こんなショーは辞めにすればいいのよね。

「ベティ。あなたもご飯をろくにもらえなくて、毎日辛いでしょう。こんなショーが楽しいとも思ってないんじゃない?」

 もしかしたら猫だから、獲物をいたぶるのは好きなんですよーとでも思ってるかもしれないけど、それは知らない。猫語はわからないし。

「私も黙ってご飯になってあげるつもりはないの。だから、他のことで観客を盛り上げればいいと思うのよ。わかる?」

 ガシャンと鎖が地に落ちて、歩みを邪魔されていた虎が一歩踏み出した。

 その巨体に掌をかざして待ったをかける。
 盛り上がる歓声に負けじと、大声を張った。

「ベティ。おすわり!!」



 まさに水を打ったような有様な観客と、恋人の「それは猫です!」の叫び声は無視する。

「人を食べるショーよりもお座りする虎の方が、きっと興業としては盛り上がると思うのよね。だから、ベティ。ここで一つ、芸を覚えなさい。そうすれば普通のご飯に加えてご褒美のオヤツがもらえるようになるわ。ウィンウィンってやつよ」

 再度おすわりと声をかける。さすがの虎も歩みを止めていた。

 ……おすわりって、猫も出来たはず……よね?

「座れるでしょう? ほら、お尻を下げなさい」

 お尻を叩いて教えてやろうと歩み寄ると、虎が一歩後ろに下がった。
 きっと、自分に近づいて来る人間は初めてなのだ。

 油断せず更に歩みを進めると、さすがに虎の前足が動いた。
 歩いた分を一歩で飛び退く。前髪を爪が掠めていく感覚があった。

 それに勢いを増したらしい虎が後ろ足に力を込める。お尻を叩くには少し、元気すぎるらしいな。

 十分に距離を取り、左手をかざした。慣れた感覚が走り抜けて、虎が首を振って苦しみだす。
 そろそろいいかと手を外すと、虎がケホケホと咳き込んだ。大きく裂けた口から喉を詰まらせていた液体が溢れる。
 こちらへ向いた金色の目に、わずかな怯えが見て取れた。

 ──あの女の思い通りになんてさせてやるものか。

 こんなショーなんて、ぶっ潰してやるわ。

「大丈夫よ、ベティ。ゆっくり覚えていきましょう。……時間はたっぷりあるわ」

 左手をかざして命じること数十度。

 先に根をあげたのは、虎の方だった。



「ベティ。おすわり」

 頭は項垂れて、金色の瞳は上目遣いでこちらを見つめながらも、大きなお尻はしっかりと地面についている。私の腕ほどもある太い尻尾は、後ろ足の間を通っていた。

「お手」

 そっと左手のひらを差し出すと、右前足がその上に乗せられる。重い。おまけに大きな肉球は硬くゴワゴワしていて、あまり好きじゃない感覚だ。すぐに下ろした。

「ついでに、おかわり」

 再度差し出すと左前足が乗せられる。
 よしよし。

「いい子ね、ベティ。他にも覚えたらきっと楽しいわよ」

 にっこり微笑むと、虎は目を逸らした。

 人食いショーなんかより、お座りする虎の方が平和的でいいでしょう。
 これも、今回の賠償項目の一つに加えてもらおう。

 怯えた目をしたスタッフらしい人達が、先が鎖の輪になった刺又のようなものを持って、恐る恐る近づいて来る。
 どうやらショーは終わりらしい。

「これからはご飯をちゃんともらえるようにアリーにお願いしておくからね。今日教えたことは忘れないように。もう人を食べたらダメよ」
 
 大きな頭を撫でたら、金色の瞳が静かに見上げてくる。
 お尻を上げて、くるりと背中を向け、そのついでとばかりに巨体を私の腰に擦り付けて、ベティはスタッフを無視して自ら檻へと悠然と歩いていった。

 いいなぁ、虎。

「オーウェンと暮らす部屋で飼えないかしら」

 さすがに響く歓声の中では、この呟きは恋人には届かなかったようだった。



 ※



 虎の大きな背中が檻の中へと消えていき、ルーファスは柔らかな椅子へとドサリと腰を下ろした。
 そっと眉間を揉み、「いやぁ」と何気なさを装って口を開く。

「さすがはスペードの5の恋人だな。虎にも臆さぬとは。いや、さすがさすが」
「……はは。何を仰いますやら。さすがはスペードのキングの御親友であられると感銘を受けておりましたところですよ」

「……お前らな……あれの身内であることを押し付け合うなよ……」

 お前らと言われたルーファスとオーウェンは、同時にレグサスから目を逸らした。

「わ、わー、さすがエルザさん! 私の大好きなエルザさんは、その、さ、さすがだなぁ!」
「見ろ。ララちゃんのこの勇姿を」
「ララ、無理をするな。こっちに来い。これ以上あれを見るんじゃない」

 恋人を抱き寄せたルーファスが、その視線を遮る。「あれ呼ばわりはさすがに……」とゼンが呟いたが、誰からも同意はなかった。

「そもそもさぁ」

 可愛らしい声に、その場にいるすべての人の視線が集中する。
 視線を受け止めたノエルは「エルザには魔法があるんだから、虎の相手くらいどうってことないんだよね」と拗ねたように呟いた。

 怪我と聞いて慌てふためいた自分達がなんだか恥ずかしくなったらしいスペードの面々から、ダイヤの兵士達はそっと視線を外す。
 そうして、我々は何も見ておりませんよと示したのだった。
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