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第二章

52 グレン視点

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「さーて、んじゃあ一件落着したとこで、エルザの試合でも楽しませてもらうとするかね」

 軽薄そうなスペードの9──レグサス様がソフィアを押さえつけたまま言い、オーウェン様に「拘束変わってくれ」と頼んだ。
 ソフィアの体を何重にも黒いロープ状の影が覆い、それを確認したレグサス様は手を離して手頃な椅子に腰掛けた。

「そうだな。楽しみにしているようだし、一戦くらいやらせてやるか。今後の話し合いは、その後にしよう。俺も見たい」

 スペードのキングがまだ跪いているダイヤのキング方に手を振り、これでこの件は終わりだと示したようだった。

「……エルザさんが負けるわけありませんけど……見せ物にされているみたいで、見物するのはなんだか複雑です」
「んー。俺達がアカデミーの学生だった頃から武術大会ってのがよく開催されててな、それに出るのも観戦するのも慣れてるんだよ。だからこれに関しては俺はあんまり抵抗ないなー」
「牢から出られたなら、すぐにこちらに逃げてくれば良いものを……まったくあの子はこんな時まで呑気なんですから……」
「数日牢に閉じ込められてたからな。これで止めたら可哀想ってもんだろ」
「剣を持ってないってことは体術でやる気かなぁ? 僕、エルザの体術を見るの好きなんだよね。動きが綺麗だもん」
「俺も好きです。まるでしなやかな猫、みたいで……だ、よね、ノエル……」
「なんだ。お前ら随分と仲良くなったな」
「えへへー。オーウェンさん、格好良かったんだよ。あそこの二人を一人で助けてね。あとなんだったっけ? エルザには俺を──」
「そ、それは気にしていないって言っていたじゃないですか!! それだけは絶対に兄上方には言わないでくださ」
「くださー?」
「っ敬語か! 敬語を使わなければいいんだな!? わかった。二度と使わないからそれだけは言わないでくれ、頼むから!!」
「仕方ないなぁ。というわけで、格好良いオーウェンさんは僕達兄弟の秘密なんだよ。ごめんね、兄さん」

「……兄弟だけの、な……」
「良い玩具をみつけたようで何より、と言っていいのでしょうか……」
「エルザさんとお付き合いするのって、大変なんですね……」
「ほんとにな。尊敬するわー……」

「……哀れなものを見る目をするな!!」

 わいわいと騒ぐスペードの方達を呆然と見つめていたら、スペードのキングが振り返った。

「君らもこちらに来なさい。ダイヤでの仕事はもうしなくて良いから。厳しい物言いをして悪かったな。君らの立場でエルザの味方をするのは難儀だっただろう。心から礼を言う」
「は、あ、いえ……勿体無いお言葉で……」

 反射的に頭を下げたが、心臓の震えは治らなかった。
 隣にいるザックに目を向ける。友人は顔をここ数日で一番青く染めていて、震える唇が「伝えてない」と動いた。そうだ。俺の言葉はソフィアに遮られて──。

 喉の奥から悲鳴のような声が飛び出した。

「スペードの10は怪我をされております!!!」

 和気藹々としていた空気が一転して凍りつき、全員が柵を乗り越える勢いでスペードの10に注視した。

「どこをだ!!」

 スペードのキングに問われて、ザックが「右手です! 俺を庇う時に剣を素手で受け止められて……っ」と叫んだ。
 可愛らしい女性は震える手で口元を覆い、スペードのクイーンがすぐにエルザを下げろとダイヤのキング方に命じている。
 スペードのジャックは「素手でなんて僕でもやらないよ……」と青ざめ、レグサス様が額に手を当て呆れたのポーズを取り、スペードのキングと共に柵の向こうを見ている。

「見てみろよ、ルーファス。あいつ、右手を隠してやがったぞ……ったく、利き手に怪我して、なんだって出場する気になったんだか……」
「楽しそうだからではない、とは言い切れんのがなんとも……あんの馬鹿は本当に……っ」

 呆れと苛立ちからか、スペードのキングが歯軋りする音がした。

 オーウェン様にはまた胸ぐらを掴まれ、揺さぶられながら怪我の具合と治療は誰がしたのかと尋ねられた。
 答えた瞬間には乱雑に胸元が離されて「エルザのもとへ行きます」とオーウェン様が駆け出そうとした、時だった。

『観客の皆々様方、大変長らくお待たせいたしましたぁー!!』

 特別なショーの時にしかされないアナウンスが、闘技場中に響き渡った。



『さぁさぁ! 本日は特別な皆様方に特別なショーをご覧に入れてみせましょう! 我が闘技場のアイドル! ベティのショーの開幕です!!』

 心臓が止まるかと思った。

 ベティ。

 この名前は、ダイヤに生まれた者なら誰でも知っている。

 闘技場の檻が開き、その中身が一歩外へと踏み出すたびに、ズシンと闘技場が揺れたようだった。
 観客の興奮が最高潮に達し、歓声が割れんばかりに響く。

 ズシンズシンと何度も揺れて、日の光の元に、それが姿を現した。

 その名前は、ダイヤの国の子供達が恐れる、母親の定番の脅し文句だ。

『言うことを聞かないと、ベティがお前を食べに来るよ』と。

 円形闘技場のアイドル。
 大罪を犯した罪人の処刑が彼女のショーと呼ばれている。

 ベティは、人食いの大虎だ。



「なん、で……ベティが……」

 俺はこの悪趣味なショーが好きではなくて、見たことは一度もない。俺と同じなのだろう多くの観客が、既に席を立ち静かに逃げていく姿が見えた。
 口元に手を当てている者は恐らく過去に見てトラウマにでもなったのだろう。

 ベティがズシンズシンと前進し、繋がれたままの鎖によって、その歩みが止められた。
 その鎖ですらここから見ても、スペードの10の体ほどの太さがあるものだ。

「…………俺が行く」

 さっと剣を抜き放ち、そう言って柵に足をかけたのはスペードのキングだ。
 慌ててスペードのクイーンと9がその腰を押さえた。

「待ちなさい! キング自ら行くものではありません! ……私が行きます」
「クイーンも駄目だっての! お前らちょっと落ち着……ノエル! お前も待て!」

 押し問答をする横からスペードのジャックが柵を飛び越えようとしていて、その首根っこがスペードの9によって掴まれた。

「じゃあ誰が行くんだよ!! 素手でエルザにあんなのと戦わせるわけにいかないだろ!!」

 まるで兄上であるスペードのキングのような口調で、スペードのジャックが怒鳴った。

「お前らを行かせるわけにいくか!! ルーファスじゃ火がとろくせーし、ゼンは体力がない。ノエルはあんなのに剣だけで近付かせられるか! 一発くらえば骨が砕けるぞ! 俺が」

 負けじと怒鳴ったスペードの9が剣に手をかけた時、静かな声がした。

「俺が行きます」

 その静かさの中に込められた明らかな怒りには、ここにいる全ての人が口を噤むほどだった。

 わずかな逡巡の後、スペードのキングが柵から離れてオーウェン様の前に立った。
「オーウェン……あのな、言いたかないが……」
「俺では足手まといになると仰るのでしょうが、承知の上です。ショーン様ほど影を使いこなせていない俺では、あの虎を拘束出来るだけの影が操れませんし、エルザを掬い上げるには距離が足りません。ですから、俺もあそこにいく必要が」
「それじゃあエルザを持ち上げてる間、お前が無防備になるだろ。自分が死ぬつもりで言ってんなら聞けねぇぞ」
「あなたの許可は求めていません。時間がありませんので、失礼します」
「……このやろう……待てっつってんだ!」

 オーウェン様の胸倉を掴み、スペードのキングが怒鳴る。
 その緊迫した空気の中で──観客の視線を一心に浴びた人の声が、闘技場中に恐ろしくよく、通った。

「虎を見るのは初めてよ! 意外と大きいのね!」

 …………。

 観客の全てが、ポカンと口を開けたまま固まった。
 その中で唯一、耐性のあったらしい人が柵へと走り寄り、叫んだ。

「動物園じゃないんだぞ!! このっ、馬鹿が!!!」

 オーウェン様のその叫びは恐らく、観客全ての総意であると、思った。
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