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第二章

42 グレン視点

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 肩を落とし、悄然と地下へと帰った。
 どれだけ探してもあの人の恋人は見つからなかった。
 いっそ部屋の前で帰りを待ってしまうかとも考えたが、侍女や侍従に見咎められる可能性がある。諦めるしかなかった。

 頼みのスペードのキングやクイーンがあの有様で、ジャックも恋人も姿を見ることは出来なかった。まだこの国にいるのかすらも分からない。

 自分が孤立無援であると知れば、あの人がどれだけ悲しむか。いや、悲しむで済めばいいくらいか。
 食事も満足に取らせてもらえず、ギリギリの理性で耐えていたところに、あの大怪我だ。
 もしも、あの人の心が壊れてしまったら。

 そんな姿は、見たくなかった。



「だからちょっとだけだったら! 指先でほんのちょっと撫でるだけよ!」
「その言い方がすでに嫌だっつってんだよ! このセクハラ変態女が!!」
「セクッ……あなたはほんっとうに口が悪いわね。お説教してあげるから、ちょっとこっちに来なさい」
「…………その手に乗るか! 騙されるわけねぇだろ!」
「そんなこと言って、ちょっと体が動いてたわよ。本当は年上のお姉さんに撫でられたいんでしょう! 素直になりなさい!」

 もしも、あの人の心が壊れたら…………?

「あっ、グレン! 戻ったのか! 丁度よかった、助けてくれ! 俺の男としての尊厳が、危機に瀕してるんだよ!!」
「グレン! よく戻ったわね! 丁度よかったわ。その子をこっちまで連行してきなさい!」

 右と左からギラついた視線が向けられ、大声で名を呼ばれる。堪らず震える拳を握って叫んだ。

「うるさい!!!」



「……たしかに、ちょっとはしゃぎすぎたのは私が悪かったけど、そんなに怒らなくてもいいじゃないの」

 綺麗な顔で拗ねたスペードの10が、恨めしい声で言い訳まがいなことを言ってくる。

 俺がどれだけ気落ちして戻ってきたと思ってるんだ。おまけに危うく殺されるところだったというのに、こいつらときたら。

「ふざけてる場合じゃ……っ」

 苛立つままに言葉を発しようとして、慌てて口を閉じた。

 なんと伝えればいい? あんたの仲間達はソフィアに陥落していたから助けは来ないぞ。というのを、どう伝えればこの人を悲しませずに済む?
 おまけに恋人はすでに城にいなかった、などと。

「……誰も連れて来なかったのね」

 顔に出てしまっていたらしい。スペードの10は拗ねた表情を消して、落ち着いた声音でそう言った。

「ごめん……その……お、俺、スペードの人達の顔を知らなくてさ。見つけられなくって……」
「グレン」

 ピシリと鞭で打たれたような、厳しい声に体が跳ねた。

「何を見て、聞いたのか。全て正直に言いなさい」

 まっすぐにこちらを射抜く、空色の瞳から逃れる術など、ない。

 観念した俺は、全て、正直に話していた。



 滴の落ちる音だけが静かに響く。
 俺の話を聞いて目を伏せたスペードの10が長く吐いた息の音が、やけに大きく聞こえた。

「グレン、ザック。少し、これから離れていなさい」

 これ、と言って、スペードの10は左手で鉄格子を二回、コンコンと叩いた。

 首を鳴らして、牢の奥へゆっくりと歩いていく。

 何をするつもりなんだと聞きたいのに、この人から発せられる圧に呑まれて声が出ない。

 いつの間に下がっていたのか、背中が地下の壁に触れて、ひどく冷えた。

 振り返ったスペードの10の空色の瞳に、激しく燃える炎が見えたようだった。

「脱獄するわ。あの女を叩きのめして、その次はあの三人よ。力づくで目を覚まさせてやるわ」

 そう言いながら、スペードの10の左手には小さな渦が生まれ、地下に、ごうごうと轟いた。
 あれに触れれば間違いなくミンチになる。
 これは、そう察せられるほどの力強さで。

 先ほどのキングやクイーンの姿が、脳裏に浮かんだ。



『君に会えない時間は味のない食事をしているような、色のない風景を見ているような、そんな物悲しさが募るばかりだった』



 …………ん?



「…………あれ、『君恋』の王子のセリフじゃねぇか!!」

 シュンと音を立てて、嵐が止んだのが視界の端に見えた。

「…………………………きみこい?」
「あっご、ごめ…………っち、違うんだよ。さっき聞いたスペードのキングのセリフがさ。昔読んだ恋愛小説に出てきたセリフと全く同じだなと、思って」

 魔法を維持できないほど驚いたらしいスペードの10の眉が険しく寄っていて、内心酷く焦る。
 どうして今になって思い出してしまったんだ。そしてこの場においてツッコミを止められなかった自分のバカさ加減が恨めしい。

「君恋って……そういえば……私も昔読んでたわね。王子が優しくて格好良くって、いつか私もこんな人と結婚したいなって思っ……て……」

 言いながら、首がどんどん傾いていき、燃えていた目が瞬いた。

 と、思ったら、スペードの10は突然、腹を抱えてしゃがみ込んだ。

「ど、どうした!? 大丈夫……」
「……ふふっ懐かしいわね、きみこい! あの子ったら、ちゃんと貸したのを読んでたのね! あははははっ!」

 大口を開けて、腹を抱えて笑い出したスペードの10に、ザックと二人で唖然としてしまう。

「こんなもん読めるかって言ってたくせに、ほんと、そういうところは可愛いんだから!」

 涙が出るほど笑っている。
 何の話をしているのか、聞いても大丈夫だろうか。

「やっぱり、本はなんでも読んでおくものよね。いつ何時、その知識が自分を助けるかわからないんだから。……それが女の子を口説く時でもね」

 ぐぅと腕を垂直に伸ばしたスペードの10の雰囲気は和らぎ、いつもの穏やかさに戻っていて、肩から力が抜けた。

「何があったんだよ……」
「ああ、ごめんなさいね。でも安心していいわよ。きっとスペードのキングもクイーンも、あの女に落ちてなんかいないわ。本気で口説きたい相手には、ちゃんと自分の言葉を伝える人だもの。きっと、私を嵌めた理由でも探るために、惚れたフリをしてるのね」

 そう言って、ベッドへと向かったスペードの10は、隠していたらしい食べかけのエビと、手をつけていないチキンのバゲットサンドを手に鉄格子の前まで戻ってきた。

「そのつもりなら、大人しく待っててあげるわよ。腹ごしらえには問題ないしね」

 片目を瞑ってエビのサンドイッチにかぶりつく姿を茫然と眺めている間に、大きなサンドイッチはあっという間に消え去った。

「ほら、ザック。あなたのパンも出しなさい。食事はいくらあったって困らないのよ」

 友人のポケットの中身も強奪した上で。



 あっという間に食事を平らげたスペードの10は「さて、それじゃあ確認しておきたいんだけど」と、いつもの穏やかな笑顔で切り出した。

「あなた達は肩書き上はソフィアの部下だけど、もうあの女の部下で居続けるつもりはないわよね?」

 思わず、ザックと目を見合わせた。

「当たり前だろ。友達を殺したやつの言うことなんか聞きたくない」

 ザックも頷いて言った。

「俺はそれだけじゃない。あなたに命を救われましたから、これからはスペードの10に従います」
「なら頭をこっちに……」
「それは断わる。男の尊厳の問題だ」

 むぅと唇を尖らせたスペードの10に、ザックは顔を背けて抵抗している。
 そうだよな……普通、撫でさせたりしないよな……。

「あなた達の気持ちは分かったわ。なら私は、一時的にでもあなた達の上官になるってわけね」

 一時的に。
 この言葉は思ったよりも俺の心を深く抉った。
 俺はダイヤの国に所属する兵士だ。
 この人の本当の部下には、なり得ない。
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