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第二章

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 あの人の静止を振り切り、階段を駆け上った。
 後になって冷静になり、ザックが追いかけてきていたら。そしてソフィア様……ソフィアと鉢合わせしていれば、取り返しのつかないことになっただろうと思い至って、全身が震えあがった。
 だが、それでも。

『オーウェンに、会いたい……』

 初めて聞いたあの人の悲しい声は、俺の体を突き動かした。
 大怪我を負ってまで、友人を助けてくれたスペードの10から受けた恩に、少しでも報いたい。

 必ず、恋人を連れて戻る。



「グレン? 何を慌てているの?」

 決意して、急ぎ足で一歩踏み出した俺の背中へかかった声に、全身から汗が吹き出した。
 聞こえないふりをして、そのまま通り過ぎてしまえば良かった。

 だが、もう無理だ。体が声に反応して、硬直してしまった。
 むしろ早く振り向かなければ怪しまれると、頭の中の冷静な部分が叫んでいる。

「ソフィア、様……」

 辛うじて表情を取り繕い、振り返る。
 男に媚びたような、一見すればこちらを心配する綺麗な人に見える表情が、俺へとまっすぐに向けられていた。

「慌ててなど……ただ、友人と会う約束がありまして」
「そうなの。友人って、ザックかな?」

 心臓がグサリと槍で突かれたように痛んだ。

 この女は、ザックが自らの凶行を俺に話す可能性を危惧しているんだ。

 落ち着け。俺があの場にいたことは、バレていない。さっさと逃げてしまえば大丈夫だ。

「いいえ。兵士ではなく侍従の友人です。アカデミーの学生の頃から仲の良いやつで」

 牢の中から、この恐ろしい狂人に立ち向かったスペードの10の強さを思い出せ。声を震わせるな。

「すみません、時間に遅れそうで。失礼します」

 頭を下げて、返事を待たずに背を向けた。吐いた息が熱く、震えたように感じて──止まった。

「グレンってよく見ると結構、可愛い顔をしてるわよね。良かったらお友達とはまたにして……わたしの部屋にお茶でも飲みに来ない?」

 手を取られ、甘えた声で囁かれた言葉に、鳥肌が立つ。
 振り払いたくなる衝動を必死に押さえ込んだ。

 あの人のいう可愛いと、この女のいう可愛いには天と地ほどの差があるな、などという馬鹿なことを、まるで逃避のように考えた。



 どうして急にこんなことを言い出したのか。
 俺は、この言葉の意味が分からないほど子供じゃない。

 だがこの女は言っていた。

『ただのモブに好かれても、どうでもいいんだけど』と。

 モブとはよく分からないが、コニーのことを指すなら俺も当てはまるはずだ。キングやクイーンなどの位を持つ者ではない、という意味ならば。
 言われたことの意味を、言葉通りに受け取ってはいけない。

 なら、俺を部屋に呼んで何がしたい? この女の目的は──。

「申し訳、ございませんが……今日はどうしても、外せない用があります、ので……失礼、します」

 この女の目的は、コニー殺害の罪をスペードの10に押し付けること。そのためにザックを殺そうとして、失敗した。
 そして今、俺を見つけた、のか。



 ──部屋に行けば、間違いなく殺される。



「だって、お友達となんでしょ? 別に、延期してもらえばいいじゃない」
「祝いの席なんです。友人として欠席するわけには……」
「それならたくさん人が来ているんじゃない? あなたが行かなくても誰も困らないわよ。私は今晩、あなたと過ごしたいの。ね、いいでしょ?」

 腕を抱きしめられ、奥歯を食いしばって悲鳴が漏れるのを堪えた。

「お、俺、彼女がいるんです。だから、ソフィア様みたいに綺麗な人と一緒にいたら、怒られてしまいますよ」

 なんとか腕を取り返して、一歩ずつ距離を取る。

 俺は知らなかった。彼女がいるという断り文句が、逆効果になる女がいるなんて。
 目の媚びた様が、まるで獲物を前にした肉食獣の獰猛さへと変わり、血の気が引いた。

「へぇ……彼女がいるの。その話もぜひ聞かせてほしいわ。ほら、行きましょ。上官命令よ」

 下ろされた剣を素手で受け止めた、あの人の言葉が頭によぎる。

 自分勝手なことばかり言うな、という言葉が。

 本当にその通りだ。こんな女だとわかっていれば、ザックと二人でコニーを説得して、引き剥がしてやったのに。
 そうすれば、今頃また三人で、酒でも飲んでいたのかな。

 こんな身勝手なクソ女に……コニーは。

 右手を、腰に挿した剣へとゆっくり伸ばす。
 付いて行ったって殺されるだけだ。背を向けた、今なら。

「あら、ルーファス! ゼン!」

 先ほど俺に向けた声とは比べ物にならないほどの猫なで声が、濃紺色の二人の男性へと向けられた。慌てて手を元の位置へと戻す。

「約束していないのに会えるなんて、嬉しい! ねぇ、時間はある? あなたたちとお話したいわ」
「ああ、会えて嬉しいよ。ソフィア嬢。話すのは構わないが……そちらの部下殿と連れ立って、どこかへ行くつもりだったのではないのか?」
「違うわよ。いやね。もしかして妬いてるの? この子はこれから友達と用事があるんですって。それじゃあまた明日ね、グレン」

 ソフィアが、赤い髪の精悍な顔付きをした男性の腕にしがみつく。

 その光景を呆然と眺めていた。

 四つの国にはそれぞれ象徴となる色がある。ダイヤは黄色、お隣のクローバーは緑だ。ハートは赤で……スペードは紺。
 赤い髪に紺の騎士服。後ろに控えるのは濃い藍色の髪の紺のローブ姿の男性。


 間違いない。この二人は、あの人を迎えに来た、スペードのキングとクイーンだ。

 それがどうして、ソフィアに会えて嬉しいなんて声をかけるんだと、去っていく背中を見ながら、思った。
 あなた方の大切な10が、地下でひどい怪我をしているんですと、大声で叫びたかった。

「二人に会えない時間がとっても寂しかったわ。もうずっと一緒にいたいくらい」
「俺もだよ。……君に会えない時間は味のない食事をしているような、色のない風景を見ているような、そんな物悲しさが募るばかりだった」

 これを言われたソフィアは手を叩いてはしゃぎ、スペードのクイーンが白けた目を自国のキングへと向けている。

 ああ、同じだ。ダイヤのキングやクイーン、ジャックも、こうなった。
 一人の女を奪い合って仲違いし、まともな判断ができなくなって。

 この人達は、スペードの10を迎えに来たはずだった。なのに、あの女に入れ込む姿には、足元が崩れていくように感じた。
 スペードの10は言っていた。

 スペードのキング方も来られているのだから、すぐに出られる、と。
 自国のキング達を信じているから、食事が出なくても耐えられるのだろう。

 だが、頼みの綱があの女に陥落していると知ったら。

 …………恋人を探そう。スペードのキングやクイーンが落ちた今、あの人だけが頼りだ。
 暗がりであまり顔は覚えていないが、紺のローブにあの鋭いグリーンの瞳。そして『オーウェン』という名前。
 必ず見つけよう。恋人を連れて行けば、スペードの10を励ませるはずだ。



 そうして探し回ったのに、恋人は城のどこにもいなかった。
 まさか、キング達がソフィアに寝返ったから逃げたのか? 俺では、あの人を救えないというのに。
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