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第一章
64 補佐は資格を失った
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いつのまにか自室に帰っていたらしい。
ソファに座ることもできず、崩れ落ちてスツールに顔面を押し付けた。
浮かれていた数日前の愚かな自分を、心の中で罵る。
キングとクイーンの牽制にララさんは受けて立ち、俺は逃げた。
もうあの人への気持ちを持つ資格すら、なくなってしまった。
いっそ、誰かと結婚してしまおうか?
他の誰かと穏やかに過ごしていれば、こんな報われるはずもない想いなどすぐに忘れられるのでは。
……いや、だめだ。他に思う人があるままの婚姻は、相手にあまりにも失礼で申し訳なさすぎる。
きちんと心の整理をつけてからにするべきだろうな。
心の整理など付くはずもないことは、全身を駆け巡る行き場のない苛立ちとも嘆きとも取れるこの感情を見れば明らかだが。
ノックの音にびくりと体が跳ねた。
いつもより控えめながらも、それだけで誰が来たのかがわかってしまった。
どうしてここに来たのか。
今頃楽しくテーブルを囲んでいるはずの人が。
このまま動かなければ彼女は去るだろう。
このまま、動かなければ。
彼女が行ってしまう。
ドアノブを引いて扉を開けると、俯いていた頭が上がり、真正面から空色の双眸とぶつかった。
「どう、しました……?」
喉から震える声で聞けば、彼女は逡巡の末にケーキが一緒に食べたくて、と答えた。
確かに彼女の片手にあるトレーには、ケーキが二つにお茶のポットとカップが乗せられている。
だが、ケーキを食べるには、部屋に入れる必要がある。
自分の私室に、愛している人を。二人きりで。
「……今日は遠慮します」
またしても俺は逃げた。
心がごちゃまぜになったまま、この人と二人きりにはなれなかった。
しかしエルザ殿は顔を曇らせて、手のひらを俺の頰にそっと当てた。
「なんだか痛そうな顔してる……何か、あったの……?」
気遣わしげな表情に、胸を鷲掴みにされたようだった。
何かはあった。
あなたとお二人の親密さと、諦めない強さを目の前で見せつけられ、あなたから逃げたのだ。
いつもとは違う悲しげな瞳に、俺が写っている。
まさに痛ましいというに相応しい顔の俺が。
耐えきれず逸らせば、彼女の口元に目が止まってしまい、先ほどキングが触れたのはこの辺りかと思った。
何かを考えたわけではない。
むしろ何も考えが浮かばず、黙りこくってしまっている。
しかし俺の左腕は緩慢に上がり、親指は俺の意思を無視して彼女の口元に触れた。
キングの付けた痕を拭うように。
途端、目の前の顔は目を見開いて固まり、すぐに真っ赤に染まった。
その様子には俺だってひどく驚いた。
どうしてこんな。たかが、指で触れただけだ。
わからない。どうしてこの人は。
考えることから逃げて、指を離した。
「……体調が優れませんので、今日は休みます」
目を背けてドアに手をかけ、彼女の返事を待たずに閉めた。
数分の後に彼女はドアの前から離れていき、長く息を吐いた。
頭の中ではどうしてという疑問が浮かび続けていた。
ソファに座ることもできず、崩れ落ちてスツールに顔面を押し付けた。
浮かれていた数日前の愚かな自分を、心の中で罵る。
キングとクイーンの牽制にララさんは受けて立ち、俺は逃げた。
もうあの人への気持ちを持つ資格すら、なくなってしまった。
いっそ、誰かと結婚してしまおうか?
他の誰かと穏やかに過ごしていれば、こんな報われるはずもない想いなどすぐに忘れられるのでは。
……いや、だめだ。他に思う人があるままの婚姻は、相手にあまりにも失礼で申し訳なさすぎる。
きちんと心の整理をつけてからにするべきだろうな。
心の整理など付くはずもないことは、全身を駆け巡る行き場のない苛立ちとも嘆きとも取れるこの感情を見れば明らかだが。
ノックの音にびくりと体が跳ねた。
いつもより控えめながらも、それだけで誰が来たのかがわかってしまった。
どうしてここに来たのか。
今頃楽しくテーブルを囲んでいるはずの人が。
このまま動かなければ彼女は去るだろう。
このまま、動かなければ。
彼女が行ってしまう。
ドアノブを引いて扉を開けると、俯いていた頭が上がり、真正面から空色の双眸とぶつかった。
「どう、しました……?」
喉から震える声で聞けば、彼女は逡巡の末にケーキが一緒に食べたくて、と答えた。
確かに彼女の片手にあるトレーには、ケーキが二つにお茶のポットとカップが乗せられている。
だが、ケーキを食べるには、部屋に入れる必要がある。
自分の私室に、愛している人を。二人きりで。
「……今日は遠慮します」
またしても俺は逃げた。
心がごちゃまぜになったまま、この人と二人きりにはなれなかった。
しかしエルザ殿は顔を曇らせて、手のひらを俺の頰にそっと当てた。
「なんだか痛そうな顔してる……何か、あったの……?」
気遣わしげな表情に、胸を鷲掴みにされたようだった。
何かはあった。
あなたとお二人の親密さと、諦めない強さを目の前で見せつけられ、あなたから逃げたのだ。
いつもとは違う悲しげな瞳に、俺が写っている。
まさに痛ましいというに相応しい顔の俺が。
耐えきれず逸らせば、彼女の口元に目が止まってしまい、先ほどキングが触れたのはこの辺りかと思った。
何かを考えたわけではない。
むしろ何も考えが浮かばず、黙りこくってしまっている。
しかし俺の左腕は緩慢に上がり、親指は俺の意思を無視して彼女の口元に触れた。
キングの付けた痕を拭うように。
途端、目の前の顔は目を見開いて固まり、すぐに真っ赤に染まった。
その様子には俺だってひどく驚いた。
どうしてこんな。たかが、指で触れただけだ。
わからない。どうしてこの人は。
考えることから逃げて、指を離した。
「……体調が優れませんので、今日は休みます」
目を背けてドアに手をかけ、彼女の返事を待たずに閉めた。
数分の後に彼女はドアの前から離れていき、長く息を吐いた。
頭の中ではどうしてという疑問が浮かび続けていた。
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