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第一章
50番外編 水の魔女
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翻り、鼻先をかすめた髪は、月明かりの元で氷のような冷たい色をしていた。
背を向けた。と考え、しかしそれを隙と見て取るほど白面ではない。
事実、残った最後の仲間が目の前の女に飛びかかるも、案の定剣の柄尻で手酷く腹を突かれた。
地面に伏す間もなく女の左手が仲間の口元へと伸び、まずいと地を蹴った眼前で、仲間の命はどろりと散った。
「……水の魔女が」
仲間とは言え、実際はこの仕事のために知り合ったばかりの他人だ。
仇を取ってやる義理はなく、それよりもこの修羅のような女から逃げることを考えねばならなかった。
「その呼び名は少し気に入っているのよ。知ってくれているなんて、光栄だわ」
まるで眠るように横たわった、仲間だったそれらには目もくれず、女が静かに微笑んだ。
軽い調子の言葉と対比するような纏う空気の重厚さに、後ずさることすらできない。
ヒュンと音がして、自らの頭のあった辺りを白銀の線が走った。
逃げ道の確保など、この女を前にして出来るはずもなかったのだと、悟った。
ものの数秒で、濃い土と青草に鉄の混じる匂いが鼻腔を覆い尽くし、見下ろす女の顔を睨むことだけが、残された唯一の抵抗となった。
もはやここまで。
自らを終えるべく、奥歯に仕込んだ丸薬を噛む。
「ぅ、ぐっ……がはっ!」
途端、激しく咳き込み、喉の奥に突然出現したとしかいいようのないものを吐き出した。
吐き出したものの色は赤ではない。
透明。
その中に見覚えのある黒い濁りを見て取り、全身から汗が吹き出した。
「駄目よ。私の前で、それじゃあ死ねないわ」
触れられてなどいないというのに突然現れたこの水は、目の前の女によるものか。
これが、スペードのキングの片腕、水の魔女。
「さて、質問に答えてもらうわ。教えてくれたら……楽になるわよ」
婉然と微笑む魔女の左の手のひらが、こちらに向いた。
喉の奥がヒュウと、か細く鳴った。
顔面を覆う濡れた布を取り払われても、幾度となく繰り返されたそれに、もはや全身の力は抜け落ちている。
「ねぇ」
恐ろしいほど優しく肩を撫でられ、視線だけをその手の主へと向けた。
「もう、いいでしょう? 話してちょうだい。そうしたら、キングにはあなたは始末したと伝えて逃してあげる。私はキングに信用されているから絶対にバレたりしないわ。あなただって、命令のために自分の命をかける義理なんてないはずでしょう?」
眉尻の下がる表情に、先ほどまでの苛烈さは微塵もない。
「お願いだから、教えて。あなたを助けたいのよ」
事実、仕事に対する忠誠心などは、かけらもなかった。
かけられた気遣いに、残された力を振り絞る。
「そのような甘言を、信じると思うか」
最期に見たものが弧を描く美しい唇であったことは、自らの人生において、ただ唯一の幸せであるといえるだろう。
背を向けた。と考え、しかしそれを隙と見て取るほど白面ではない。
事実、残った最後の仲間が目の前の女に飛びかかるも、案の定剣の柄尻で手酷く腹を突かれた。
地面に伏す間もなく女の左手が仲間の口元へと伸び、まずいと地を蹴った眼前で、仲間の命はどろりと散った。
「……水の魔女が」
仲間とは言え、実際はこの仕事のために知り合ったばかりの他人だ。
仇を取ってやる義理はなく、それよりもこの修羅のような女から逃げることを考えねばならなかった。
「その呼び名は少し気に入っているのよ。知ってくれているなんて、光栄だわ」
まるで眠るように横たわった、仲間だったそれらには目もくれず、女が静かに微笑んだ。
軽い調子の言葉と対比するような纏う空気の重厚さに、後ずさることすらできない。
ヒュンと音がして、自らの頭のあった辺りを白銀の線が走った。
逃げ道の確保など、この女を前にして出来るはずもなかったのだと、悟った。
ものの数秒で、濃い土と青草に鉄の混じる匂いが鼻腔を覆い尽くし、見下ろす女の顔を睨むことだけが、残された唯一の抵抗となった。
もはやここまで。
自らを終えるべく、奥歯に仕込んだ丸薬を噛む。
「ぅ、ぐっ……がはっ!」
途端、激しく咳き込み、喉の奥に突然出現したとしかいいようのないものを吐き出した。
吐き出したものの色は赤ではない。
透明。
その中に見覚えのある黒い濁りを見て取り、全身から汗が吹き出した。
「駄目よ。私の前で、それじゃあ死ねないわ」
触れられてなどいないというのに突然現れたこの水は、目の前の女によるものか。
これが、スペードのキングの片腕、水の魔女。
「さて、質問に答えてもらうわ。教えてくれたら……楽になるわよ」
婉然と微笑む魔女の左の手のひらが、こちらに向いた。
喉の奥がヒュウと、か細く鳴った。
顔面を覆う濡れた布を取り払われても、幾度となく繰り返されたそれに、もはや全身の力は抜け落ちている。
「ねぇ」
恐ろしいほど優しく肩を撫でられ、視線だけをその手の主へと向けた。
「もう、いいでしょう? 話してちょうだい。そうしたら、キングにはあなたは始末したと伝えて逃してあげる。私はキングに信用されているから絶対にバレたりしないわ。あなただって、命令のために自分の命をかける義理なんてないはずでしょう?」
眉尻の下がる表情に、先ほどまでの苛烈さは微塵もない。
「お願いだから、教えて。あなたを助けたいのよ」
事実、仕事に対する忠誠心などは、かけらもなかった。
かけられた気遣いに、残された力を振り絞る。
「そのような甘言を、信じると思うか」
最期に見たものが弧を描く美しい唇であったことは、自らの人生において、ただ唯一の幸せであるといえるだろう。
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