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第一章
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「エルザ殿!」
城の廊下を歩いていると、声をかけられた。振り返るとスペードの5のオーウェンが、書類片手に駆け足で近づいてくる。
「こちら、午前中に確認をお願いしていた書類なんですが、サインが入っていなくて」
「あ、忘れてた」
そう言うと、オーウェンの眉がぴくりと痙攣する。
辺りを見回し、誰もいないことを確認すると同時に、その顔から笑みが消えた。
「……あっけらかんと言うな!」
「ごめんごめん。……ほら、サインっと、これで大丈夫かしら?」
「大丈夫なわけあるか! 俺は確認しておけって言ったんだ!……ったく、ほらここ。さっさと確認お願いします」
怒りながら差し出された書類を手に取り、オーウェンが指さす箇所に目を通してサインしていく。
「はいはい。えっと……そういえばこの間城下に可愛いカフェを見つけてね。昨日行ってきたんだけどなかなか良かったわ。ケーキが美味しくて」
「そうですか良かったですね。こちらは確認できました?」
「ふんふん。……そうそう。この間ノエルと久々に手合わせしたんだけどね、もう手も足も出ないの。可愛い弟みたいなものだから、成長を見るとなんだか泣けてきちゃうわよね」
「そうですか良かったですね。次はここなんですが……」
「うんうん。……あ、昨日の夕食に出てきたシチューはすごく美味しかったわよね! オーウェンも食べた?」
「そうですか良かったですね。ところで今日の警備担当は誰でしょうか?」
「ちょっと。クイズ形式ならそう言ってくれないと!」
「たったいま確認したばっかだぞ!」
くすんだ緑の髪を逆立てて怒るオーウェンに、首を竦めた。迷惑をかけている自覚はあるから心の中で謝る。
ごめんね、今日は仕事が手に付かないの。
朝から動悸が激しく、朝食すら何を食べたのか思い出せないほどなのだ。
オーウェンはスペードの5だが、ゼンが私につけてくれた仕事上の補佐官でもある。
スペードの国ではジャックが軍部の総司令官になり、10になった私はその補佐についた。するとどうだ。自分専用の執務室が与えられたかと思えば、毎日毎日『確認していただきたい書類』が届くではないか。
初めの頃は私も頑張った。必死に目を通し、資料を探し、出来る限り適切に処理していった。……のだが、わずか一か月で無理を悟った。
情けない自覚はある。
もみ手で助けを求めた私にゼンが「思ったよりも長持ちしましたね」と言ったことは一生忘れないだろう。時々ルーファスが死んだ目で庭園の花や訪れる小鳥達に話しかけていたが、これからはドン引かずにもっと労わってあげようと思った。
そんなこんなで、補佐として紹介されたのが私と同じくゲームには名前の出てこないスペードの5、オーウェンだ。
「エルザ殿の補佐を務めさせていただけること、とても光栄です」
そう言った、大きな図体に似合わぬキラキラとした瞳の青年はもうここにはいない。
今では「俺の憧れを返せ!」がオーウェンの口癖になっている。
「何かあったんですか? 今まで書類にミスはあっても忘れることはなかったでしょう。……聞くだけなら聞きますが」
気遣わしげな視線にあいまいに笑い返す。心配事は確かにあるが、人に言えることではないのだ。
「……それはいいとして、オーウェンも今日の白の国のお茶会に出席するでしょう? そろそろ出発の時間よ」
中立の白の国のお茶会は、三か月に一度行われている。主催者は白の女王、参加者は白の国や、四つの国の貴族に、それぞれの国のキングからエースまでが招待される。
参加するかどうかは各々の自由だが、うちのキングは面倒くさがって半年に一度しか参加せず、キングが参加しないとクイーンからエースも参加しないのがスペードの国の常だ。
ちなみに白の国にキングはおらずクイーンが国を治めていて、白の女王陛下と呼ばれている。永世中立国であるという意思表示かなと思っている。
「それはいいとするなよ。もうそんな時間か。この書類を置いてくるから先に……行っていてください。私も後から向かいます」
侍女が歩いてくるのを見て、オーウェンは口調を変えて笑顔になった。
以前、同じ年ごろなんだから、敬語はやめましょうと持ち掛けたのだが、何度もかまわないと言っているのに断固として人前でのタメ口を拒否されている。
人前でなければあけすけに罵倒してくるのだから、難しい。
お手本のような礼を執って、オーウェンは離れていった。
一度自分に与えられた部屋に向かい、支度する。
お茶会だが、私はドレスではなくスペードの国の儀礼用の騎士服で身を包んだ。
濃紺色の生地に装飾は銀で統一されたデザインだ。
乙女ゲームらしくキングからジャックの三人の騎士服はそれぞれに個性があるが、あいにく10からエースまでは武官と文官の違いはあれど、おおむね統一されたものになっている。
幼馴染三人とニコイチならぬヨンコイチ扱いされている私が10になった時は、10の騎士服もお三方同様華やかに! と侍女達が色めき立ち、抑えるのに苦労した。
使い慣れたエストックを腰に差して最後に鏡を見ると、もはや慣れ親しんだ空色の髪を後ろで高く結んだ女が映っている。
10になってから1年が経ってしまった。
「……よしっ」
両頬を軽く叩き、部屋を出る。
中庭に向かうと、すでに幼馴染達や9からエースまでの位持ちが揃っていた。
幼馴染達と共に四頭立ての馬車に乗り込む。
「あー、面倒くせぇ……」
「これも付き合いですよ。しゃんとしてください」
「僕は楽しみだけどなぁ、お茶会。美味しいお菓子が食べられるし!」
馬車が走り出すと、いつも通りの会話が始まる。
社交を嫌がるルーファスに、それを諫めるゼン、ノエルは美味しいお菓子に思いを馳せている。
そんな幼馴染達をぼうっと眺めていると、いつの間にか三人の視線がこちらを向いていた。
「エルザ、今日は元気がないね? 具合でも悪い?」
「今からでも引き返しますか? 向こうについてから悪化しては、白の国にご迷惑がかかるんですよ。体調管理くらいしっかりしなさい」
「どうせ、なんか悪いもんでも食ったんだろ。欠席を認めてやるからとっとと引き返すぞ」
「わっ、まってまって! 引き返さなくていいから!」
御者に指示しようとするルーファスを慌てて抑える。
三人には言えないが、二十四歳で初めてのお茶会に気もそぞろになっていただけだ。
しかしそんな気持ちも三人の顔を見て霧散した。
本当かよ、とこちらを睨むルーファスは不満げだが、これは心配してくれている時の顔だ。ゼンも小言を言っているが気遣わしげだし、ノエルは額に手を当てて熱を測ってくれている。
「ちょっと考え事をしてただけよ。本当に、大丈夫だから」
うん、心配することなんてなにもない。この三人なら、絶対に大丈夫。
数時間も走ると白の国に入り、城が見えてきた。
白の国の中央にそびえるこの城は、この国というものを象徴しているようにいつも思う。
一点の曇りもない白亜の城。その姿は表すなら荘厳であり静謐。また、四つの国に対してより広大な領土を持っていながら、中立を貫く公平さもその白亜の中に備えていた。
四つの国は、この広大な白の国を囲うように存在している。
城へ続く跳ね橋を進んでいると、左方に同じ四頭立ての箱馬車が見えた。
赤銅の装飾が豪華なその馬車は、見慣れた紋章を掲げている。
腹立たし気な舌打ちはルーファスのものだ。
その代によるが、今代のスペードとハートのキングは、少々折り合いが悪い。だからあちらはともかくスペードの国はお茶会への参加も極力タイミングを合わせないようにしていたはずだ。
そっと視線を前に戻した。
ハートの国の紋章を掲げたその馬車と、向かう場所は同じ。
ハートとスペードの国が両方参加するお茶会に、私はゲームの始まりを知ったのだった。
城の廊下を歩いていると、声をかけられた。振り返るとスペードの5のオーウェンが、書類片手に駆け足で近づいてくる。
「こちら、午前中に確認をお願いしていた書類なんですが、サインが入っていなくて」
「あ、忘れてた」
そう言うと、オーウェンの眉がぴくりと痙攣する。
辺りを見回し、誰もいないことを確認すると同時に、その顔から笑みが消えた。
「……あっけらかんと言うな!」
「ごめんごめん。……ほら、サインっと、これで大丈夫かしら?」
「大丈夫なわけあるか! 俺は確認しておけって言ったんだ!……ったく、ほらここ。さっさと確認お願いします」
怒りながら差し出された書類を手に取り、オーウェンが指さす箇所に目を通してサインしていく。
「はいはい。えっと……そういえばこの間城下に可愛いカフェを見つけてね。昨日行ってきたんだけどなかなか良かったわ。ケーキが美味しくて」
「そうですか良かったですね。こちらは確認できました?」
「ふんふん。……そうそう。この間ノエルと久々に手合わせしたんだけどね、もう手も足も出ないの。可愛い弟みたいなものだから、成長を見るとなんだか泣けてきちゃうわよね」
「そうですか良かったですね。次はここなんですが……」
「うんうん。……あ、昨日の夕食に出てきたシチューはすごく美味しかったわよね! オーウェンも食べた?」
「そうですか良かったですね。ところで今日の警備担当は誰でしょうか?」
「ちょっと。クイズ形式ならそう言ってくれないと!」
「たったいま確認したばっかだぞ!」
くすんだ緑の髪を逆立てて怒るオーウェンに、首を竦めた。迷惑をかけている自覚はあるから心の中で謝る。
ごめんね、今日は仕事が手に付かないの。
朝から動悸が激しく、朝食すら何を食べたのか思い出せないほどなのだ。
オーウェンはスペードの5だが、ゼンが私につけてくれた仕事上の補佐官でもある。
スペードの国ではジャックが軍部の総司令官になり、10になった私はその補佐についた。するとどうだ。自分専用の執務室が与えられたかと思えば、毎日毎日『確認していただきたい書類』が届くではないか。
初めの頃は私も頑張った。必死に目を通し、資料を探し、出来る限り適切に処理していった。……のだが、わずか一か月で無理を悟った。
情けない自覚はある。
もみ手で助けを求めた私にゼンが「思ったよりも長持ちしましたね」と言ったことは一生忘れないだろう。時々ルーファスが死んだ目で庭園の花や訪れる小鳥達に話しかけていたが、これからはドン引かずにもっと労わってあげようと思った。
そんなこんなで、補佐として紹介されたのが私と同じくゲームには名前の出てこないスペードの5、オーウェンだ。
「エルザ殿の補佐を務めさせていただけること、とても光栄です」
そう言った、大きな図体に似合わぬキラキラとした瞳の青年はもうここにはいない。
今では「俺の憧れを返せ!」がオーウェンの口癖になっている。
「何かあったんですか? 今まで書類にミスはあっても忘れることはなかったでしょう。……聞くだけなら聞きますが」
気遣わしげな視線にあいまいに笑い返す。心配事は確かにあるが、人に言えることではないのだ。
「……それはいいとして、オーウェンも今日の白の国のお茶会に出席するでしょう? そろそろ出発の時間よ」
中立の白の国のお茶会は、三か月に一度行われている。主催者は白の女王、参加者は白の国や、四つの国の貴族に、それぞれの国のキングからエースまでが招待される。
参加するかどうかは各々の自由だが、うちのキングは面倒くさがって半年に一度しか参加せず、キングが参加しないとクイーンからエースも参加しないのがスペードの国の常だ。
ちなみに白の国にキングはおらずクイーンが国を治めていて、白の女王陛下と呼ばれている。永世中立国であるという意思表示かなと思っている。
「それはいいとするなよ。もうそんな時間か。この書類を置いてくるから先に……行っていてください。私も後から向かいます」
侍女が歩いてくるのを見て、オーウェンは口調を変えて笑顔になった。
以前、同じ年ごろなんだから、敬語はやめましょうと持ち掛けたのだが、何度もかまわないと言っているのに断固として人前でのタメ口を拒否されている。
人前でなければあけすけに罵倒してくるのだから、難しい。
お手本のような礼を執って、オーウェンは離れていった。
一度自分に与えられた部屋に向かい、支度する。
お茶会だが、私はドレスではなくスペードの国の儀礼用の騎士服で身を包んだ。
濃紺色の生地に装飾は銀で統一されたデザインだ。
乙女ゲームらしくキングからジャックの三人の騎士服はそれぞれに個性があるが、あいにく10からエースまでは武官と文官の違いはあれど、おおむね統一されたものになっている。
幼馴染三人とニコイチならぬヨンコイチ扱いされている私が10になった時は、10の騎士服もお三方同様華やかに! と侍女達が色めき立ち、抑えるのに苦労した。
使い慣れたエストックを腰に差して最後に鏡を見ると、もはや慣れ親しんだ空色の髪を後ろで高く結んだ女が映っている。
10になってから1年が経ってしまった。
「……よしっ」
両頬を軽く叩き、部屋を出る。
中庭に向かうと、すでに幼馴染達や9からエースまでの位持ちが揃っていた。
幼馴染達と共に四頭立ての馬車に乗り込む。
「あー、面倒くせぇ……」
「これも付き合いですよ。しゃんとしてください」
「僕は楽しみだけどなぁ、お茶会。美味しいお菓子が食べられるし!」
馬車が走り出すと、いつも通りの会話が始まる。
社交を嫌がるルーファスに、それを諫めるゼン、ノエルは美味しいお菓子に思いを馳せている。
そんな幼馴染達をぼうっと眺めていると、いつの間にか三人の視線がこちらを向いていた。
「エルザ、今日は元気がないね? 具合でも悪い?」
「今からでも引き返しますか? 向こうについてから悪化しては、白の国にご迷惑がかかるんですよ。体調管理くらいしっかりしなさい」
「どうせ、なんか悪いもんでも食ったんだろ。欠席を認めてやるからとっとと引き返すぞ」
「わっ、まってまって! 引き返さなくていいから!」
御者に指示しようとするルーファスを慌てて抑える。
三人には言えないが、二十四歳で初めてのお茶会に気もそぞろになっていただけだ。
しかしそんな気持ちも三人の顔を見て霧散した。
本当かよ、とこちらを睨むルーファスは不満げだが、これは心配してくれている時の顔だ。ゼンも小言を言っているが気遣わしげだし、ノエルは額に手を当てて熱を測ってくれている。
「ちょっと考え事をしてただけよ。本当に、大丈夫だから」
うん、心配することなんてなにもない。この三人なら、絶対に大丈夫。
数時間も走ると白の国に入り、城が見えてきた。
白の国の中央にそびえるこの城は、この国というものを象徴しているようにいつも思う。
一点の曇りもない白亜の城。その姿は表すなら荘厳であり静謐。また、四つの国に対してより広大な領土を持っていながら、中立を貫く公平さもその白亜の中に備えていた。
四つの国は、この広大な白の国を囲うように存在している。
城へ続く跳ね橋を進んでいると、左方に同じ四頭立ての箱馬車が見えた。
赤銅の装飾が豪華なその馬車は、見慣れた紋章を掲げている。
腹立たし気な舌打ちはルーファスのものだ。
その代によるが、今代のスペードとハートのキングは、少々折り合いが悪い。だからあちらはともかくスペードの国はお茶会への参加も極力タイミングを合わせないようにしていたはずだ。
そっと視線を前に戻した。
ハートの国の紋章を掲げたその馬車と、向かう場所は同じ。
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