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第二話 イザリス砦に棲む獣

世界、滅ぼせし者 Part.2

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 間一髪、ヴァネッサは身を躱していたが、つぶれたトマトの果汁の様にぶちまけられた臓物を引っ被ってしまっていた。それでも、彼女には僅かの怯みもなく、ただ、ぐいっと血を拭うと、突如降ってきた影の正体を見極めようとする。

 が、先にその姿の全体を認めたのは、通りの向かいに立っていたレイヴンで、その位置に立っていたからこそ、彼はうんざりした感想を漏らす。

 その影はどっかで見たことがあるように歪で
 どっかで見たことがあるように醜く
 同じくどっかで見たことがあるように凶暴。

「あぁ、またかよ…………ッ!」

 そう、一言で表すなら、化物と評するにふさわしい体躯と形をしていた。

「もう一度、相手しろってのか」
「前回と同じとはいかぬぞ、小僧。吾等が討った時よりも、遙かに力を増している」

 ――と、ヴァネッサの声を敏感に捉えて、化物が機敏に顔を向けた。巨大な顎を開いて、牙を覗かせかと思えば、火球を吐き出してヴァネッサを狙い撃つ。
 当然、眼前に降ってきた化物をヴァネッサは警戒していたので、容易くもらいはしなかったが、彼女が躱した火球はアーサーの馬車を直撃し、粉々に吹き飛ばした。

「ちぃっ、運の悪い――」

 そこで一瞬、アーサーの身を案じてしまった迂闊、
 ほんの一瞬、化物から目を切ってしまったのがいけなかった。

 なによりもヴァネッサにとって最悪だったのは、次の攻撃に移った化物の速度が、獲物に飛びかかる蛇よりも唐突で、俊敏だったことである。

「しまっ――」

 突進してくる化物は、さながら倒れ込んでくる巨木のようで、警戒をすり抜けた不意打ちに身構えるのがやっとだったヴァネッサだが、満身の打撃に代わって彼女を襲ったのは、上着を引かれる柔らかな衝撃、直後に前髪を掠めていった化物の巨体は目標を失い、建物に頭から突っ込んでいった。
 何が起きたのか理解が遅れ、もがく化物からヴァネッサが首を巡らせれば、龍人へと姿を変えたアイリスがすぐ傍に立っている。

「ふぅ~、ギリギリでしたね」

 生死を分けた紙一重であった。
 化物の攻撃にアイリスが気がついていなければ、今頃ヴァネッサは死体になって転がっていただろう。

「アイリス様……。ありがとうございます、助かりました」
「まだ来ますよ、動けます?」
「お任せを。同じ手を二度食うほど、このヴァネッサ緩くはありません」

 警戒心を一段引き上げ、ヴァネッサが練り上げた魔力を左腕の腕輪へと注ぎ込めば、輝く弓がどこからともなく現れる。

「アイリス様はお下がりください、ここは私が……!」
「そうはいきませんよ、ヴァネッサ。わたしも闘います」

 小さな二つ拳を固めて、アイリスは構えた。
 ぞわぞわと、頭から尻尾の先まで駆け抜ける悪寒が告げていた。魔力を感じ取れるアイリスと、ヴァネッサは本能的に理解していたのである、この化物はここで討たねばならないと、ここで逃せば大変な事になってしまうと――。

「いくつもの魔具が混ざり合っている所為でしょうか、こうして相対しているだけでも、魂に染みこもうとしてくる破壊的な邪悪を感じます。雨水がジワリジワリと屋根に染みこんでいくように、毒にも似た狂気がわたしの魂まで犯そうとしているのが! これこそが、魔具の、いえ邪龍の魂が持つ力なんですね?」
「……そうですアイリス様。魔具の力は強力ですが、最も恐ろしいのは魔具による破壊ではなく、伝染する邪悪と狂気にあるのです。誰しもが持つ欲を煽り、操り、増大させ、そうしてもたらされる悲劇を食らう事で自らの糧とし、やがて生物に取憑いた魔具は肉をも喰らうようになるのです……丁度、あのように・・・・・…………」

 悪意を喰らった魔具は磁石のように引き合い、かつての邪龍としての形に戻ろうとし、小さな魂の欠片達が一つの塊となれば、次に器を求めるようになる。
 ヴァネッサ達の前にいるのは、すでに器を手に入れた邪龍の魂だった。

「それでは、町の人達は……」
「もう残っちゃいねえ、誰もな――」

 未だ通りの向こうから、レイヴンが言った。

「――よく見ろアイリス、そいつの身体を」

 化物は子供が作った泥人形みたいな歪な造形だが、それもそのはずだ。鱗も翼もなく、龍と呼ぶにはあまりに崩れた化物の身体、その皮膚は、直視に堪えない無残なものだった。ひどい腐臭と生々しいぬめり、まさしく、力任せに挽き潰した何十という人肉の寄せ集めは、何故動けるのか不思議なほどに不揃いだ。遮二無二壁を破壊して、振り返った顔も、どこが眼なのかよく分からない。

 唯一、確信が持てるのは、どこから食事をとるかである。

「グゥオオオオオオオオオオォオオオォォオオッッッ!」

 咆哮一閃、町中の窓ガラスを震わせると化物は再度突進を繰り出す。
 狙いは――……ヴァネッサだ。

「ふむ、またも吾か」

 さっきは身構えるのがやっとだった速度である、しかしどうだ。風に踊る木の葉のように、ヴァネッサはひらり、今度こそ華麗に躱してみせた。が、今度はアイリスの方が反応しきれず、流れ弾を喰らう形で化物に吹っ飛ばされ、道具屋の窓をぶち破った。

「アイリス様ッ!」
「俺が行く、お前はダンスに集中してろ」

 レイヴンはすぐさま道具屋に駆け込む。すると、ガラス片やらなんやら引っ被ったアイリスが、ぷるぷると頭を振っていて、龍らしい頑丈な身体に、レイヴンは自然、安堵の息を漏らした。
「はぁ……油断しすぎだぞ、アイリス」
「あイタたた。もう、もっと心配してくださいです」
「それだけ強がれりゃあ不要だろ。……平気か?」

 言ってレイヴンが手を差し伸べると、力強い笑みと共に、アイリスはその手を握る。

「えへへ、もちろんです。わたしは龍ですからね、あんな体当たりくらいなんてことありません! ハッ! それよりも、はやくヴァネッサを助けにいかないと!」

 まともに受けたからこそ分かる破壊力、アイリスは急いで通りに出た。いくらヴァネッサが強くても、一人で闘える相手ではないと、そう思って。


 しかし、である――

 
 速度は脅威、だがそれだけ。
 直線的かつ、切り返しも鈍く一度で打ち切る突進を見切るなどヴァネッサには容易かった。
 突進だけならば直撃を喰らうこともないだろうと、銃把を握ったまま遠巻きに見ていたレイヴンも確信を持つ。

 だが、化物には次に打つ手を考える知能は残っていないようだ。
「バァァァアアオオオオオォバアアアアアアアァダァァァァアァァァアアアアッッ!」
「しつこいのう……」

 赤い布の代わりに白髪を翻し、剣に代わって矢を射る様は、さしずめ、アクロバティックな闘牛で、手助けするつもりだったアイリスも、彼女の戦いぶりに見とれてしまっていた。
 ヴァネッサは攻撃を躱すたび、一本、一本、確実に化物の身体に矢を打ち込んでいく、足に、腕に、頭に、と十回の攻防はすべてヴァネッサに分があった……ように見える。

「ふぅむ……、流石に化物か……」

 澄ましてこそいるが蒼い額には汗が滲む。一晩前に受けた傷が治っているはずもなく、攻撃は躱しきっていても、動くたびに彼女の肉体には鈍痛が走り抜けていた。
 それに比べて、化物ときたら急所に打ち込んでも怯みさえしないのである。
 分かっていたこととはいえ、倒しきるまで時間がかかりすぎる。
 そう考えたのもつかの間、ヴァネッサは急激に迫る化物を捌き、後頭部を射貫く。

 しかし、悲しいかな。手応えはあるのに、効果がない。
 化物が向ける眼光は、まだ殺意が溢れかえっている。

「熱い視線を向けられるのはやぶさかでないがのう……」
「アアアァァァアボオオオォォォハァァアアァダァアアアァ!」

 返事は、咆哮。
 次いで通りへと歩み出したレイヴンが言う。

「ダークエルフってのは懐深いモンだと思ってたんだがな、俺は」
「吾にも好みくらいはある。――吾のことはいい、アイリス様はご無事か」
「ああ、誰よりもな」

 翼を拡げて健在を示したアイリスを留めて、レイヴンは更に化物へと歩み寄る。右手に持った拳銃を魔銃へ持ち替え、拍車を僅かに鳴らしながら化物を射程に捉えると、ガンマン同士の決闘のように構えた。

「臆した訳ではなかったようだのう、小僧」
「仲睦まじいところを邪魔するのは野暮かと思ったが、手に余るみたいだからな。……三歩、左に退いてろ、どうやらこいつの始末は俺がつけるべきらしい」
「まさか、レイヴンも一人で倒すつもりです⁈ もう! どーしてみんな無茶ばっかりしようとするんです⁈」

 そう騒ぐな、とレイヴンは左手を僅かに挙げてから、口笛一つ吹き鳴らして化物の注意を引く。ヴァネッサが自らに課された使命を果たそうとしているように、彼もまた、自分の甘さが招いた惨劇のケツを拭かなければならなかった。

 ヴァネッサは言っていた、魔具は人間の欲を喰らうのだと――
 アイリスは言っていた、そして魔具は魂に取憑くのだと――

 だがレイヴンは思う。魔具が最も欲しているのは、雑草のように茂る安易な欲などではなく、より根深く、苛烈な、時に正義とさえ思える強烈な感情なのではないか、と――
 業火が如く猛る、理屈の通らぬ感情。一度その焰で身を焼いたからこそ、レイヴンはこの場にいる誰よりもすべてを理解していた。

 たとえ法で裁かれたとしても、焰は燃え続ける。唯一鎮めるには、自らの法によって、そして自らの手によって、果たすしかないのである。

 曰く『眼には眼を、歯には歯を』だ。

 なるほど、人間の魂を喰らう魔具には最上の御馳走といえ、そこまで強く恨むのも止むなしだと言える、理解もするし、同情もしよう。あんな姿になってまで仇討ちに燃える気概には拍手を送ってやってもいい。

 とはいえ……
「町中は殺りすぎだ、こいつは俺でも癪に障るぜ……」

 化物が振り返りきるまでレイヴンは待つ、銃把を握った右腕はだらりと脱力させたまま。決闘に臨むならば真正面、己と命と誇りをかける瞬間には、拳銃遣いの作法がある。たとえ相手が決闘にケチをつける腰抜けだとしても、背中からは撃たない。

「マァァァアアダァアアァ、ジャアアァァマァアアァッ!」
「……あんまり情けなんてのはかけるもんじゃあねえな。何かしでかすとは思ってたが、とんでもねえことをしでかしやがって。来いよアミーゴ、兄弟に会わせてやる」

 交わる視線が火花を散らし、吼える化物が地を蹴った。
 それは変わらず愚直な突進であるがしかし、身軽なヴァネッサとは違い、レイヴンにはその暴虐の化身とも呼ぶべき力の塊を躱す術がない。

 彼にあるのはただ一つ、右手に握る魔銃のみ、生死を分かつ瞬間のみ――
 圧倒的な圧力を纏いながら
 あらゆる生き物を一瞬のうちに肉塊に変える殺意だけを伴って
 疾く、臆さず、遮二無二迫る化物
 しかし滴る紅い軌跡を
 奴が舞いあげた土煙を
 その一挙手一投足をレイヴンは見逃さない

 心臓が鼓動するよりも短い、ほんの僅かな瞬間だけ、彼は化物以外のすべてを世界から消すと、魔銃に仕事をさせてやる。
 銃口を閃かせ、人差し指を絞り込めば激発。
 それは電光石火の早撃ち。
 練られた魔力が撃ち出されれば、轟く雷に引き裂かれて、漆黒の夜空が二つに割れる。レイヴンが全力でたたき込んだ一射、化物の胸から上を消し飛ばしたその威力は凄まじく、ヴァネッサも驚きを隠せなかった。

「よもや、一撃とはのう……」
「……殺すだけなら簡単だ、いつだって、殺すだけならな」

 ありったけを込めて、撃つだけ。加減するよりも、満身を込めて殴りつける方が実に簡単なのである。魔具に取憑かれていた本体も、化物の上体ごと塵に帰りもはや身じろぐこともない。
 肉の焼ける臭い、硝煙が風には運ばれていく。
 あとは、この肉塊に埋まった魔具を取り出す作業を残すだけだと、やりきれない安堵の息を漏らしながらそう誰もが思っていた。


 だが――

「レイヴン……まだ動いてます……」
 悪夢は、まだ始まったばかりだったらしい。

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