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二章
153.没収
しおりを挟む「マティアス、『ちゅうして』と言ってもいいんだぞ」
ソファに並んで座って今日あったことを話していると、話が途切れたタイミングでラルフ様が言った。
ラルフ様は最近僕にそのセリフを言わせたがる。僕が酔った時に気分が高揚して言ってしまったセリフだ。薄っすらと記憶にある恥ずかしいセリフ。
「ラルフ様、ちゅうして」
そう言うとラルフ様が嬉しそうに僕にキスしてくれるから、羞恥心を我慢して言う。ラルフ様の期待に応えたい気持ちも少しはあるんだけど、言った時のラルフ様の蕩けるような笑顔が好きなんだ。その笑顔見たさに、僕は羞恥心を我慢する。
だけど何度も言っていると、そんなに恥ずかしがるようなことでもない気がしてきた。麻痺してきたってことかな? 但し人前では絶対に言えない。
でも今日はラルフ様の様子が少し違った。一瞬不思議そうな顔をして、そして唇が重なるといつものように温かい舌がトロリと絡んできた。気のせいかな? 気持ちよくて吐息が漏れる。
「違うな」
ラルフ様が急にキスをやめてそう言った。突然そんなことを言われて、僕はなんのことか分からなかった。
「へ?」
「可愛いことに変わりはないが、マティアスらしくない」
「なんのことですか?」
僕は本気で分からない。刺繍のこと? それともハーブオイルのこと? ポポファミリーを量産していること?
「マティアスは大胆だが、あざとさはない」
「うん?」
うん、そうだと思う。大胆って自覚はないけど、あざとさなんてもっとない。誰にもあざといなんて言われたことはないし、なんで急にラルフ様がそんなことを言ったのか分からなかった。
「『キスして』と言ってみてくれ」
「はい?」
急になんなのか分からず、僕は「キスして?」と言ってみた。
「マティアス、好きだ」
「うん。僕もラルフ様のこと好きですよ」
「やっぱりマティアスは『ちゅうして』よりも『キスして』の方が似合う」
はい?
僕は似合わないのに、ラルフ様にそんな恥ずかしいセリフを言わされていたのかと思うと腹が立ってきた。確かに僕も少しは乗り気だったけど、酔っていないのに自ら言ったりしない。
「やっぱり僕はラルフ様のこと嫌いです!」
「なぜだ!?」
僕がラルフ様を押し返してそっぽを向くと、ラルフ様は急に立ち上がって目を見開いた。横目で見ると握りしめた拳はプルプルと震えている。
「僕は今日はシルと寝ますから、ラルフ様は一人で寝てください」
僕は立ち尽くすラルフ様を一人置いて部屋を出た。
シルの部屋の扉を開けると、また増えたポポ一族がずらりと並んでいる。数々のポポ一族と目が合うと、一気に怒りは霧散して、こんなことで怒って逃げ出してきた僕が格好悪く思える。
その横にはフェリーチェ様が刺繍してくれたポポスカーフも置いてある。
シルの部屋は完全にポポに支配された。
「ママ、これよんで」
「うん、いいよ」
ベッドに入ってシルが見ていた本を読んであげると、シルは物語が終わる前に眠ってしまった。
腹が立ったからと言って、ラルフ様を置いて部屋を出てしまったのは大人気なかった。
まだラルフ様が落ち込んでいるような気がして、少しだけ様子を見てみようとベッドをそっと抜け出す。部屋の扉に手をかけたのに、扉は開かなかった。
もしかして、扉の外にはラルフ様がいて、寝ずの番ってやつをしているんだろうか?
「ラルフ様、そこにいるんですか?」
「マティアス……」
やっぱりそこにはラルフ様がいた。僕は開かない扉にもたれて座ると、ラルフ様に話しかけた。
「嫌いなんて言ってごめんなさい」
「いいんだ。きっと俺がマティアスに嫌われるようなことをしてしまったんだ」
別に嫌ってはいない。ただちょっと腹が立って嫌いなんて言ってしまっただけだ。
「恥ずかしかった」
「何があった? まさかアリーが何かしてきたか?」
扉の向こうでガタンと音がした。夜なのに僕の返答によってはすぐにでも敵を倒しに向かう気なのかもしれない。
「いえ、クロッシー夫人は関係ありません。ラルフ様が僕に恥ずかしいことを言わせました」
「いつだ?」
「最近よく言わされていましたよ。『ちゅうして』って。それなのに似合わないって。ラルフ様が言わせたくせに酷いです」
次はドゴッと鈍い音がした。それ何の音ですか?
「違うんだ! 似合わないのではない! とても似合う! 似合うんだが、俺の好みというか、マティアスには失礼なことを言った。すまない。怒らせるつもりはなかった」
似合うんだ? それはそれで複雑な気分だけど……
怒らせるつもりがなかったのはそうでしょうね。ラルフ様は僕を怒らせようとしたことなんてありませんし。
「分かっています。ちょっと腹が立っただけです」
「すまない。どうしたら許してもらえる?」
さっきから断続的にドゴッと鈍い音が聞こえるんですが、それは何の音ですか? 聞きたいような聞きたくないような……
「もう怒ってないですよ」
「そうか」
ふぅ~っとラルフ様の長い吐息が聞こえた。
「それでさっきから何をしているんですか?」
「反省しながらマティアスと話をしている」
それはそうだけど、僕が気になってるのはその音です。
「ラルフ様、扉を開けてもらえますか?」
「今日はやめておこう。俺は朝までちゃんとここで番をする」
そんなの必要ないよ。野営しているわけでもないし、ここは高い塀に囲まれた王都で最も安全と思われる家の中だ。
「そんなことしなくていいですから、部屋で寝てください」
「分かった」
本当に分かったのかな? しばらく僕が静かにしていると、足音が去っていく音がした。ラルフ様が部屋に戻ったんだろう。僕は安心してシルのベッドに戻って目を閉じた。
朝になると僕はラルフ様の部屋を訪ねた。ちゃんと寝れたのかな?
「昨日はごめんなさい。え? それ、どうしたんですか!」
騎士団の制服を着ようとしていたラルフ様の脇腹に赤黒い、まだ新そうな痣をみつけた。ラルフ様がそんな傷を負った姿は初めて見る気がする。
「なんでもない」
そう言うとラルフ様はサッとボタンを留めて隠してしまった。
なんでもないわけないよね? 痛そうだったし。
「僕に隠し事ですか?」
「そうではないが、言いたくない」
言いたくない? 模擬戦で負けたことが格好悪いから言いたくないとかそういうこと? ラルフ様が負けることなんてあるんだろうか? 僕の中ではラルフ様は最強で、ラルフ様が誰かに負けるなんて想像できないんだけど。
僕はジッとラルフ様を見つめた。
「ふぅ、マティアス、怒らないでくれ」
「怒っていませんよ」
「反省のために自分でやった」
「はい?」
もしかして、昨日扉越しに聞こえていた音って……
なんてことだ。僕はラルフ様の制服を捲って痣を確認した。骨、折れてないよね?
間近で見ると本当に痛そうだ。
「もうこんなことしないで下さい。ラルフ様は僕の大切な人なんですから」
「マティアス……」
僕のせいだ。僕がラルフ様を追い詰めた。
服で隠れるところにしたの? でもどうやって? こんなに痣になるまでって……
まさか……ちょうど目が合った。机の上に置かれたポポママとピエール二号。
「これ、使いましたね?」
「…………」
僕が見上げるとラルフ様は目を逸らした。
「これは没収です! ラルフ様はチンアナゴ使用禁止です!」
ラルフ様を怪我させるようなものを持たせるわけにはいかない。
するとラルフ様は僕があげた下手なポポの刺繍が入ったハンカチをパッと取って握りしめた。まるでこれだけは絶対に渡したくないとでも言うように。
「それは没収しませんよ。ハンカチは凶器ではありませんので」
「そうか。よかった」
そんなに大切にしてくれているなんて。嬉しいけどちょっと複雑です。頑張ってラルフ様の名前や花を刺繍できるように練習するので待っていて下さい。
「マティアス、許してもらえるなら今日は一緒に寝たい」
「僕は怒っていませんよ。一緒に寝ましょう。それより怪我までさせてしまって、僕の方が謝らなければ……ごめんなさい」
「大丈夫だ。こんなのは大したことない」
そう言ってラルフ様は僕のことを抱きしめてくれた。
「でも……」
「心配ない。マティアスは何も悪くない」
ラルフ様は少し困ったような顔で、腕の中の僕の顔を覗き込んだ。
「ラルフ様、キスして?」
一瞬驚いて、蕩けるような笑顔に変わると、大きな手は僕の背中からうなじに回されて、そっとキスしてくれた。
「ラルフ様、もう行かないと遅刻しますよ」
「大丈夫だ。全力で走れば俺は馬より速い」
ええ!? 馬より速いの? それって人外じゃない? やっぱり僕の旦那様は最強だと思う。
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