孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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黄昏時に残る祈り

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 妻を亡くし、男は変わってしまった。
 妻とすごした片田舎の館に籠ったまま、誰にも姿を見せなくなった。そっとしておいて欲しいと玄関のドアを閉ざし、誰の訪れも拒むようになった。


 だが、そんな彼を心配した友人がしばらくぶりに館を訪ねると、男は喜んで彼を迎えいれたのだった。男はやもめ暮らしのわりに清潔感のある服装で、友人はほっと安堵した。

 思ったより元気そうじゃないか、と。

 いつもの男の書斎ではなく、彼の妻の好んで使っていた居間に通された。夕暮れ時の、サーモンピンクを基調にした小花模様の壁紙の部屋には光が溢れ、柔らかな温もりに満ちていた。

 男は自らお茶を淹れ、友人をもてなした。


 テーブルにはティーカップが三つ。
 男と、友人と、そして、いつも男の妻が座っていた席に、彼女の大切にしていたビスクドールが置いてあった。男の妻の髪の毛を植え込んだ艶やかな黒髪の赤ん坊ほどの大きさの人形だ。生前、彼の妻が好んで着ていたのと同じ青のドレスを纏っている。それは、子どもがなかなかできずに悲しんでいた妻のために、男が妻に似せて作らせた少女の人形だった。


「砂糖はやはり三つ入れるのかい?」

 男は人形に訊ねてから紅茶に砂糖を入れ、銀のスプーンでかき回した。乳白色の渦が静まるのを待って、カップを人形の前に置く。
 
「僕は常々、砂糖三つは入れすぎじゃないかと思っているんだがね、彼女は僕の言うことなんか聞きやしない」

 男は友人に笑いながら言った。

 友人はどう応えていいものか判らなかった。だから何も言わずにただ微笑んでお茶を啜り、勧められるままにビスケットを摘まんだ。


 射しこむ西日が、アーチ型の窓の形そのままに長く伸び、薄い緑の蔦模様の絨毯を明るく照らしている。火のない暖炉の上のアンティークの金の置き時計が光を弾き、きらきらと眩しい。時を刻む音がやけに大きく響いて聞こえる。

 カチャリと、友人はカップをソーサーに戻した。

「おかわりは?」

 男がにこやかに訊ねる。
 友人は首を横に振る。

「それより、夕飯はどうするんだい? 久しぶりに一緒に外で食べないか? いい店をみつけたんだ」

 友人は努めて快活に男を誘った。

「こいつが怒るからね。夜遊びはやめたんだ。どうせお前のことだから、食事だけじゃ済まないだろう?」

 男は申し訳なさそうに肩をすくめる。

「じゃあ、うちに食事に来ないか? 妻も喜ぶ」
「遠慮しておくよ。きみの家、赤ん坊がいるじゃないか」

 友人は嬉しそうに顔を輝かせた。

「いつの話だよ! 子どもはもうずいぶん大きくなっているんだ。逢いにきてやって欲しい」
「すまないね、どうも小さい子どもは苦手でね。僕がこんな陰気臭い顔をしているせいかな、すぐに泣かれてしまうんだ」

 男は自嘲的に嗤い、唇を突きだしてみせた。

 友人の顔の上で笑みが固まる。彼は唇の端をひくつかせ、「子どもに逢ってやって欲しい……」と懇願するように繰り返す。

 だが、男は首をすくめただけだった。


 日はさらに傾き、部屋は急速にその色を褪せていた。薄闇と薄闇の間を照らす金赤色が男の輪郭を溶かし、その姿を朧に浮かびあがらせる。

 友人はもう何も言わず、黙ったまま男を見つめていた。
 男は話題を変え、とうとうと人形に話しかけ、時々、思いだしたように友人に相槌を求めた。友人は曖昧に頷き返した。


 やがて日も落ち切って、互いの表情さえ見極め辛くなると、友人は立ちあがった。

「また来るよ」
「ああ」


 
 友人は男の館を後にした。黒い大きな鉄柵の門まで来ると、もう一度後ろを振り返った。
 遠く稜線に沿う残照が赤い糸を束ねたように、黒々と影を帯びた館を結んでいる。友人は顔をしかめたまま、鈍い金属音を立てて門を出た。




「お帰りなさい」

 煌々と灯りのともる我が家に帰り着いた時には、日はとっぷりと暮れていた。

「ただいま」

 満面の笑みで出迎えてくれた小さな男の子の艶やかな黒髪を、友人は優しくわしわしと撫でてやった。

「お父さんは、」
「元気だったよ。ただ、まだ仕事が忙しいようでね」

 その子の面から笑みが消える。

「くたびれて眠っていたから、話はできなかったんだ」

 男の子を抱きあげ居間に向かいながら、友人は嘘をついた。本当のことなど言えるはずがなかった。

 愛しい妻の長い闘病生活とその看病の間に、幼い息子を友人に預けていたことを忘れ、そして今は、その妻はもうこの世にはいないことさえ忘れ――。

 男は、その心を時の狭間に置き忘れたままなのだなどと。

「でも、眠りながら微笑んでいた。きっと夢を見ていたんだろうな。おそらくきみの夢に違いないよ。とても幸せそうだったからね」

 父親の友人のその言葉に、子どもは淋しそうに頷いた。

「お父さんが目を覚ましたら、逢いにきてくれるかな?」
「仕事が片づいたらね、きっと」
「きっと」

 自分を見つめるつぶらな瞳から、男の友人は目を逸らしかけた。だが、小さく息を吸いこむと唇を結んで、その視線を受けとめ微笑んだ。


 眼前の子どもの父親の代わりに。彼の一番の親友として。
 そして何よりも、彼にこの子を託した、母親の祈りに応えるために――。


 

 
*****


「霧のはし 虹のたもとで」シリーズの元になった短編です。
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