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夢違えの護符(4)
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その日を境に、勿忘草色は僕の夜を支配するのをやめた。
憑きものが落ちたように、それはあっけなく、平凡な日常を取り戻した。おそらく、そう言っていいのだと思う。いつから始まったのかも思いだせないほど、僕は、この勿忘草色に染まっていたけれど、けして生まれてこの方、というわけではないのだから。
けれどさすがにこの不思議を、撫子色の泡の連なる御守りのおかげだとは思わなかった。
それよりも、これをくれた彼女のおかげかな、と思った。僕の関心は色ではなく、彼女自身に向いていたから。たぶん、そういうことなのだと思う。というか、それ以外に考えられない。勿忘草色の侵襲を止めた夢は、彼女と見た桜色の空だった。
それから一年後、僕は白藍色の彼女――、愛と結婚するにあたって長年住み慣れたこの家を引き払い、都心にマンションを買い、引っ越すことになった。
たいして大きくないとはいえ、家一軒だ。家財の処分が大変だった。おまけに、愛が古いものが好きで捨てたがらないものだから、よけいに整理が進まない。あちらこちらで作業の手を止め、「まぁ!」とか「これ、何に使うのかしら?」と訊いてくる。
そんななか、押し入れの奥で見つけたのだ、と古いアルバムを引っ張りだしてきた。
「かわいい! これ、あなたの子どもの頃ね! 目許が今と変わらない!」
ケラケラ笑いながらページを繰る。
目を瞑って眠っている赤ん坊は、どのページも、どのページも同じ。
勿忘草色――。
勿忘草色のベビーベッドの柵。
勿忘草色のシーツ。
勿忘草色の上掛け。
赤ん坊は勿忘草色に包まれて、今にも窒息しそうに苦しげだ。
勿忘草色の色無地を着た母――。
記憶の中にいる母とは違う母の姿が、ぷくぷくした泡が意識の底から昇り、パンッと弾けたように鮮明に浮かんだ。
薄紅色の唇がかすかに動いている。
「――――」
僕は必死にもがいていた。手足をばたつかせて。
「――――」
口がふさがれ、視界が勿忘草色に埋められていく。
「あなた、どうしたの? あなた」愛が僕の腕に手をかけ、心配そうに見ている。
「あ――。ちょっと、懐かしくてさ」僕はむりに笑顔を作った。そして、震えの止まらない指先で、ページをさらに捲っていった。
この写真の場所は、この家じゃない。父の実家だ。母はそこで僕を出産したのだ。だからきっと、和装の母を思い浮かべたのだろう。祖父は呉服屋を営んでいて、家人は日常的に和装だったから。
お宮参りの、
お食い初めの、
初節句の、
勿忘草色の晴れ着に包まれた赤ん坊。
でも僕を抱いているのは母じゃない。このアルバムに母はいない。どこにもいない。
僕の知る母は、着物なぞ着ることはなかった。父は帰省する時、僕だけを伴った。僕は深く考えることをしなかった。祖父の下で、僕には数多の和色の名前が刻まれた。
僕は、母が好きだった。母は、いつも優しくて、温かくて、愛情深く僕を育ててくれたのだ。――真綿でぎゅっと包みこむように。
僕は苦しかった。
苦しかった。
苦しかったのだ。
――きっと、自分でも判らないほどに。
涙がとめどなく溢れていた。止まらなかった。
愛が、僕を抱きしめてくれていた。
勿忘草色、侵襲と、――慈愛の色。
僕はずっと、この色を、忘れていたのだ。
了
憑きものが落ちたように、それはあっけなく、平凡な日常を取り戻した。おそらく、そう言っていいのだと思う。いつから始まったのかも思いだせないほど、僕は、この勿忘草色に染まっていたけれど、けして生まれてこの方、というわけではないのだから。
けれどさすがにこの不思議を、撫子色の泡の連なる御守りのおかげだとは思わなかった。
それよりも、これをくれた彼女のおかげかな、と思った。僕の関心は色ではなく、彼女自身に向いていたから。たぶん、そういうことなのだと思う。というか、それ以外に考えられない。勿忘草色の侵襲を止めた夢は、彼女と見た桜色の空だった。
それから一年後、僕は白藍色の彼女――、愛と結婚するにあたって長年住み慣れたこの家を引き払い、都心にマンションを買い、引っ越すことになった。
たいして大きくないとはいえ、家一軒だ。家財の処分が大変だった。おまけに、愛が古いものが好きで捨てたがらないものだから、よけいに整理が進まない。あちらこちらで作業の手を止め、「まぁ!」とか「これ、何に使うのかしら?」と訊いてくる。
そんななか、押し入れの奥で見つけたのだ、と古いアルバムを引っ張りだしてきた。
「かわいい! これ、あなたの子どもの頃ね! 目許が今と変わらない!」
ケラケラ笑いながらページを繰る。
目を瞑って眠っている赤ん坊は、どのページも、どのページも同じ。
勿忘草色――。
勿忘草色のベビーベッドの柵。
勿忘草色のシーツ。
勿忘草色の上掛け。
赤ん坊は勿忘草色に包まれて、今にも窒息しそうに苦しげだ。
勿忘草色の色無地を着た母――。
記憶の中にいる母とは違う母の姿が、ぷくぷくした泡が意識の底から昇り、パンッと弾けたように鮮明に浮かんだ。
薄紅色の唇がかすかに動いている。
「――――」
僕は必死にもがいていた。手足をばたつかせて。
「――――」
口がふさがれ、視界が勿忘草色に埋められていく。
「あなた、どうしたの? あなた」愛が僕の腕に手をかけ、心配そうに見ている。
「あ――。ちょっと、懐かしくてさ」僕はむりに笑顔を作った。そして、震えの止まらない指先で、ページをさらに捲っていった。
この写真の場所は、この家じゃない。父の実家だ。母はそこで僕を出産したのだ。だからきっと、和装の母を思い浮かべたのだろう。祖父は呉服屋を営んでいて、家人は日常的に和装だったから。
お宮参りの、
お食い初めの、
初節句の、
勿忘草色の晴れ着に包まれた赤ん坊。
でも僕を抱いているのは母じゃない。このアルバムに母はいない。どこにもいない。
僕の知る母は、着物なぞ着ることはなかった。父は帰省する時、僕だけを伴った。僕は深く考えることをしなかった。祖父の下で、僕には数多の和色の名前が刻まれた。
僕は、母が好きだった。母は、いつも優しくて、温かくて、愛情深く僕を育ててくれたのだ。――真綿でぎゅっと包みこむように。
僕は苦しかった。
苦しかった。
苦しかったのだ。
――きっと、自分でも判らないほどに。
涙がとめどなく溢れていた。止まらなかった。
愛が、僕を抱きしめてくれていた。
勿忘草色、侵襲と、――慈愛の色。
僕はずっと、この色を、忘れていたのだ。
了
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