孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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夢違えの護符(3)

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 桜色が降っていた。僕のうえに。
 桜色が香っていた。僕のうちに。

 深藍しんらんの空。ほのかに揺蕩う桜色、――花びら。

 夜中に唐突に目が開いた時、瞼裏に残っていた色は、勿忘草色わすれなぐさいろじゃなかった。

 闇色のなか、手を伸ばして明かりを灯す。いつもと変わりない部屋が蜜柑色みかんいろに浮かび上がる。
 深く息をついた。不思議な心持ちだった。こんなにも楽に呼吸できるなんて。

 浅黄うすきの掌にぽつぽつと一重梅ひとえうめの痕がつくほど握りしめていた、藤の花のように重なり合って連なるあぶくを光にかざした。そのなかの一粒、透明な撫子色の内側から輪郭を透かして、深藍しんらんを見上げていた。
 
 馬鹿な、そんなはずがない。それは夢だ。昨夜の、会社の懇親会に顔を出した折の記憶が、撫子色の泡に映っていただけの――。
 



 ――よかったら、これ、さしあげますよ。御守りとして作ってもらったんですけど、もう、願い事叶っちゃったみたいなんで。

 白藍色しらあいいろの彼女が、そう言ったのだ。

 花見の席は、浅く深く重なる桜色が風に揺れ、ひらひらと舞う樹の下だった。ブルーシートに同僚と陣取り、缶ビールで乾杯して弁当をつまんでいた時、ポケットに入れていた誰かの落とし物をふと思いだした。そこで、尋ねてみた。同じ部署のほぼほぼがこの場に揃っている。持ち主がいるかもしれない。

「あ、それ、そのブレスレット、私のです!」と白百合色しらゆりいろの手が上がり、白藍色が僕の横へと移ってきた。「ありがとうございます! なくしちゃったと思ってました」と続ける彼女に、僕の浅黄色にのせていた撫子色、のビーズのブレスレットを――。
 さしだした。ちゃんと。すると白藍色は、なんの脈絡もなくああ言ったのだ。僕にくれる、と。僕はそんな物惜しげな顔をして、この撫子色を見ていたのだろうか。

 それから白藍色は、このブレスレットの効能、というのだろうか、護符としての意味や由来を語りだした。
 奈良旅行で訪れた寺の、門前にあった数珠屋で求めたものだという。
「霊験あらたかなんですよ! なんたって夢違い観音様に100日間もお供えした水晶を使ってるんですから。きっと、先輩の悪夢も吹っ飛ばしてくれますって!」
 白藍色は勢いこんで喋っていた。

 悪夢――。

 僕はこの白藍色に、勿忘草色の話をしたことなどないのに。それ以前に、会話らしい会話をしたことさえない。

 白藍色はえんえんと喋っている。桃花色ももはないろの唇が二枚の花びらのようにふるふると動き、似つかわしい甘ったるい音を、少し騒がしく紡ぎだす。

「えっと、しら――、あいさん」
「あ、先輩、初めて下の名前で呼んでくれた!」
「あいちゃん」誰かが頓狂な笑い声をたてた彼女の肩を、咎めるように叩く。

 彼女の名前を、すぐには思いだせなかった。そう、確か、白石さんだ。名前は、藍なのか。
「だから白藍色の服を着ていることが多いのか――」納得して、口にだしてしまった。と、白藍色がくるりと僕を振り返る。
「違いますよぉ。藍色のあいじゃなくて、LOVEの方の愛です」

 今度は彼女を咎めたはずの女郎花色おみなえしいろが、ケタケタと笑った。

「白石愛だから、白藍色だなんて! これだから、山名さんは!」

 話題が僕のことに移ってしまった。

「さすが、絶対色覚の持ち主!」

 違うよ。そもそも絶対色覚、4色型色覚(スーパーカラービジョン)を持てるのは、遺伝子的に女性だけだ。僕は異なる色相を通常の人以上に区別できる、というわけではない。

 誤解が広まってしまったのは、ものをその色味で認識する僕の癖のせいらしい。つい和色を使ってしまうのも、実家が京都の呉服屋だからだと、入社したての頃は言い訳がましく募っていた。だが、一度広まったくだらない噂は訂正されることはなかった。
 こんな場面で、僕は肩を丸めて苦笑するだけだ。

 僕が、僕を包む色を意識するのは、この現実にある色が多種多様だからじゃない。それが勿忘草色ではないことを確かめたいからだ。ひとつ、ひとつ現実を数えて確認したいだけなのだ。
 それが周りには、とんでもなく奇異に映るらしい。だから実際とは違う絶対色覚というラベルを貼って、僕は異常者などではなく、自分とは違う特別な人だからだ、と持ちあげる。安心を得るためなら事実なんて問題じゃないのだろう。

 僕はただ、そうせずにはいられないだけなのに。

 僕の内側から溢れ出ようとする勿忘草色が、外の世界まで、呑みこんでしまわないように、確認しているだけ。

 それが、なぜ――。


 


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