孔雀色の空の下

萩尾雅縁

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薔薇色の襞

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 地球上で最も空に近い場所といわれるヒマラヤの蒼穹の下で、数多の薔薇色の塊が容赦なく照りつける光をキラキラと弾いている。
 見渡す限りごろごろと転がる、一つひと抱えはあろうかというブロック石。いっけん水晶のようにも、仄かに色づいた貴石のようにも見えるこの半透明の岩石は、塩なのだ。
 ここ、パキスタンには世界最大級の岩塩鉱脈がある。数億年前の太古の海を隆起した大地が閉じ込め、年月を経て化石化した。それが眼前に広がるものの正体だ。

 究極の塩を求めて、こんな処にまでやって来た。
 そんな価値もへったくれもなく、無造作に放置されている薔薇色の欠片を拾いあげる。冷たく固い石の感触を唇で味わい、舌を這わす。僅かな破片を口に含み、噛み砕く。
 しょっぱい。当然だ。塩なのだから。だが、それだけではない。血を舐めるような鉄分や、わずかな苦みを感じさせるマグネシウムの、複雑に混じり合った自然の味がする。

 想像以上の風味に満足して、辺りをぐるりと見渡した。かなり離れた道沿いで、切り出された岩塩がトラックに次々と積み込まれている。

 切り立った山際に陽が重なる。じきに陽も落ちるだろう。ここまで案内してくれた現地ガイドはどこにいるのだ?
 急激に影を伸ばす山並みに、陰る空気。いつの間にかひと気が絶え、静まり返っている殺伐とした景色に不安がよぎる。
 じゃりじゃりと石を踏み、変な音を立ててトラックが去っていく。後には誰もいない。つい今しがたまで働いていた現地人はどこに消えたのだ?

 すっかり慌てて、「おーい、誰かいないのか!」と、日本語で叫んでいた。切り立った岩肌に、自分の放った声が反響する。
 夕陽を浴び、薔薇色の岩塩がますますその濃さを増して煌めいている。その狭間をぬって、「おーい、誰か!」と呼び歩いた。

 黒い影がしゅっと跳ねた。

 猫だ。こんな所に……。この国に入ってから猫などお目にかかったことなどなかったのに。
 実家で飼っていた黒猫のゼロに似ている。同じような緑の首輪をしている。
 黒猫は、乱雑に重ね置かれているいくつもの岩塩の上を飛び跳ね、切り立った岩肌に向かっている。時々、誘う様に振り返る。


 薔薇色の波打つ海原は、徐々に紺青の闇に呑まれつつあった。わずかな作業小屋が並ぶだけのこんな山奥には、外灯などない。あの小屋にすら自家発電機があるかどうか。ひんやりと肌を撫で始めた夜気に、ぶるりと身震いする。こんな所に置いていかれるなんて、冗談じゃない。あの黒猫に飼い主がいるかは判らなかったが、時間が制止したようなこの世界で唯一の動く生き物だ。

 縋りつく想いで、猫を追いかけていた。


 

 そびえ立つ断崖にぽっかりと口を開けた採掘場の奥深くまで掘られたトンネルにはトロッコ用の線路が敷かれ、裸電球が数人が通り抜けられる程度の狭い道を照らしている。

 電気は通っているのか。
 ほっと安堵の吐息が漏れる。

 ぽつぽつと灯りの連なる吸い込まれるような消失点に、闇に溶けた猫の金色の眼が光る。訳もなく、その光を追っていった。
 
 ざらざらとした土壁は、程なくしてぼこぼことした白い結晶に覆われていた。雨水に溶けだした塩が再結晶したのだろう。
 仄かな灯りに照らし出される塩の状態を掌で確かめ、時にその先端を削り取って舐め、更に奥へと足を運んだ。

 
 どれほど奥へと下ったのか、いつの間にか足元にはぴしゃぴしゃと浅く水が溜まっていた。雨水が流れ込んだのか、それとも地下水が染みでているのか。
 岩肌も、つるりとした面に、表にあったような薔薇色と白や茶の線が交互に入り混じる、綺麗な縞模様の断層面に変わっている。薄紅色の岩塩の肌は鮮やかで、生きて呼吸しているような、かすかに収縮を繰り返しているような。

 脈打っている。

 ぞっとしない。
 まるで内臓のようだ。

 しっとりと湿り気のある空気のせいか、妙に息苦しい。水溜まりを避けて、ひんやりとした壁面にもたれて座った。

 どこかで、猫が鳴いている。
 背に当たる岩肌は、なぜか柔らかい。




 山をほじくり、塩を盗み食ってきた俺は、この地球ほしに喰われるのだろうか。

 ふと、そんな想いが脳裏をよぎった。

 それとも、このままこの壁の中に閉じ込められ、塩漬けになった俺を、何億年か後に、だれかが切りだし喰らうのだろうか。

 いつの間にか、猫が腹の上にのっていた。

 ぴちょん、ぴちょんと水音がする。
 

 カルシウムの塊の俺の骨はきっと白い岩塩になり、俺の血はきっとその白い塩を柔らかな薔薇色に染めあげる。

 きっと誰かが求め続けておれを見つける。
 それはきっと数多の閉じ込められ溶けだした命と混じりあい、重なりあい、美しいグラデーションを作りだす塩。

 このヒマラヤの体内で消化されたおれむくろだ――。





 気がつくと、病院のベッドの上だった。
 心配そうにガイドの男が見守っていた。
 ただの高山病だから山を下りればすぐによくなる、そう言われた。

 突然いなくなった俺は、今は閉鎖されている採掘トンネルの中で倒れていたのだそうだ。

 トンネルの奥から聞こえてきた動物の鳴き声に、もしや獣にでも襲われたかと、いぶかり見つけてくれたのだそうだ。


「究極の塩になり損ねた」

 くっくっと笑う俺を見て、善良そうなガイドは安心したように白い歯を見せて笑った。


 
 

 
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