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4.ヴァルプアギズの夜

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 ミルクを流したような星空の下、ゲールはそよともしない草原に立っていた。片方だけ履いている靴下を、夜露がしとどに濡らしている。見上げた先には小高い丘。そのいただきにそびえ立つ塔の上方には赤い満月。煌々とした月光を浴びて、一匹のウサギが、じっと身じろぎもせずゲールを見おろしている。血のように赤い瞳が、鋭く、怪しい輝きを放っている。

 ――魔女。こいつ、魔女じゃん。

 ゲールは心の中で呟いた。

 ――それも、もう生きてない亡霊……。

 こんな明るい夜なのに、このウサギには影がない。その体自体が影だからだ。
 古来より、魔女はウサギに化けて現われるといわれている。ウサギは「秩序から外れたもの」、そして「異界へ誘うもの」だから――。

 じっと見つめていると魅入られてしまう、とゲールは奥歯を噛みしめ目を伏せた。だが、少しばかり遅すぎたようだ。伏せた視線の先にある黒々とした斜面を、光沢のある赤が音もなく流れてきて、氷となって張り始めていた。


 今さら湧きあがってきた恐怖にかられて、ゲールはそろそろと後退あとずさる。ウサギを直視しないように目をすがめて――。そして、赤い氷を避けられそうな傾斜にめどをつけると、文字通り脱兎のごとく駆け出した。
 
 だが、彼が地を蹴る度に、わずかに触れた足の裏から地面はぼこぼこと陥没し、深遠な穴を覗かせる。あちら側へのトンネルだ。魔女はここより地下世界へ通じ、悪魔と結びつくといわれている。

 あの赤に捕まって氷漬けにされるか、ウサギ穴に落ちて、あちら側に連れていかれるか――。

 こんなはずではない。こんなはずではなかったのだ。ゲールは、未来の伴侶に会うために、片方の靴下だけを履いてベッドに入り、眠りに落ちた。それは決して、魔女に魅入られるためなどではなかったはず。

「まったくあいつら、何て助言をくれたんだよ! ウサギ穴だなんて冗談じゃない!」

 ゲールは転がるように野を蹴りながら悪態をつく。

 バレンタインの日から二か月半、特に何が起こるわけでもなかった。逆に何も行動しなければ、あのままやり過ごせたかもしれなかったのに、彼らの助言を信じて、ここへやって来てしまったから。

 この赤い月のかかる丘へ――。



 ――ヴァルプアギズの夜、魔女がやって来るだろう。ゲールをあちら側へ連れていくために。

 侏儒こびとたちは、ヴァレンタインの日の気味悪い贈り物からそんな未来を読み取った。そして、

 ――俺の特別なビー・マイ・人になってよバレンタイン

 と、口にしてしまった告白を無効にするには、正しい運命に定められた相手に出逢い、「ゲール・マイスターが告白した相手は、この人だ」と宣言すれば事足りる、彼らはそう太鼓判を押した。
 だが、彼らのくれた助言が、今こうしてゲールを窮地に追いこんでいる。ゲールは片方だけ靴下を履いた足で、はたして出口があるのかさえ判らないこの夢のなかを逃げ惑っているのだ。


 言われた通りにして、夢の中へ未来の伴侶に逢いにきてみたら、ウサギに化けた魔女が待ち受けていた、なんて――。

 魔女が定められたゲールの運命なのか!

 そんなの、嘘だろ、と心で叫びながらゲールは必死で駆けている。だが、どれほど逃げても、首筋には生温かい息がかかり、ぎざぎざとした棘のような囁き声が、繰り返し繰り返し追って来るのだ。

 ――お前は私のものだよ、と。


 赤く凍ったイラクサの棘に、ゲールの足の皮膚は破れ、血が滲みでていた。生き物のようにしなり、うねり、波打って追いかけてくるその枝が蛇の口のように大きく割れ、鋭い歯をむき出してゲールの足に噛みついた。もんどりうって地面に突っ伏した彼に、枝はしゅるしゅると絡みつき、拘束する。

 塔の背後に月がかかり、さらには流れる黒雲がわずかな明かりさえ奪う。
 辺りは闇に包まれて何も見えない。
 漆黒のなかでゲールは荒く息をつきながら、虚空を睨みつけ、聴覚に神経を集中させる。

 ウサギが地面を跳ねる音が、近づいてきている。
 楽しげに、歌うように、踊るように弾んで。

「おまえの大切な人になっ――、」

 すぐそばで聞き取れたその言葉が終わらない内に、一陣の風が空を切った。ゲールの手にいつの間にか銀のナイフが握られている。風に煽られ、ゲールは闇雲にそのナイフを振るった。
 雲が切れ、金色の月光が辺りを照らしだす。小さな足が、赤い血飛沫を散らしながら宙を舞っている。ゲールはそれをはっしと掴んだ。

 銀のナイフは、月光の煌々と照らす夜空もまた、大きく切り裂いていた。その裂け目から、ゲールのよく知る自室の天井が覗いて見えた。

 ゆっくりと開かれたゲールの双眸に、窓から差し込む街灯の灯りがやけに眩しくて。薄闇のなか、壁のマンチェスター・ユナイテッドのポスターが、ぼうと浮きでるように映えている。ふと、机の上にココアを飲み残したままだったことを思いだす。



「神さま、ありがとうございます」

 深く吸いこんでゆっくり息をつき、ゲールは瞳に映るこの現実に感謝した。

 それから、頭皮までびっしょり濡れた汗をパジャマの袖で拭う。もぞもぞとベッドの上に半身を起こした時、ふくらはぎに走るいくつもの赤い切り傷に、ピリピリとした痛みが蘇る。靴下は泥だらけでしっとりと濡れていた。痺れて強張る左手を開くと、その手の中には、血痕の残るウサギの足が握られていた。


 

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