夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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終章

エピローグ 明朗の来し方

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 彼、アルビー・アイスバーグは目覚まし時計が鳴ってから、もうたっぷり三十分間は大きく柔らかな羽枕に顔を埋めたままでいる。無意識に手を伸ばしてベルを止め、鼓膜に届く鳥の囀りも肌に感じる朝の気配も頑なに拒んで、心地良い夢想にとっぷりと浸っているのだ。

 まだ覚め切っていないアルビーの手が、夢の余韻を探してシーツの上を彷徨っている。「コウ、見つけた」と呟くと同時に、そのもどかしく不安げな手は、ピシリッと音を立てて叩かれる。

「いい加減に起きろ! いつまでぐずぐず寝てやがるんだ!」

 甲高い、金属的な罵声が容赦なく枕の上に落ちてくる。


 僕の恋人は、丹精込めて創られた人形ビスクドールの容姿を持つ狂暴な影を抱えたとても手のかかる子だ。どこか懐古趣味的な懐かしさを醸しだす永遠の無邪気さは、永遠の幼稚さの裏返しだなんて僕は想像だにしなかった。――けれど、こんなことで彼の価値が目減りする、なんてこともない。この大きな欠点を踏まえても余りあるほど、僕は彼が愛おしい。


 ぼやりとした頭でつらつらとそんな思考を唱えながら、アルビーは深くため息をついて薄目を開ける。図々しく彼の傍らにあぐらをかいている、恋人の“影”である赤毛の男をチラリとみやる。

「せっかくかわいいコウの夢を見ていたのに。夢にまでしゃしゃり出てくるんじゃないよ」

 枕を抱きしめて、彼はこの忌まわしい現実に抵抗するように寝返りをうつ。と、パシッと今度は反対の腕を叩かれた。

「狂暴猿――」ブツブツ呟きながら、彼は仕方なく半身を起こし、ぼさぼさの黒髪をかきあげた。「痛い。赤くなってる」と、叩かれて染まった手をひらひらと振る。
 そんな彼のベッドから見渡せる窓は全開され、ひやりとした風が柔らかく吹きこんでは、さわさわとカーテンを揺らしている。ロンドンの自宅よりもずっと北部に位置するこの館は、秋の訪れも一足早い。

「コウ、風邪をひいたりしてないかな」
「あいつのことより我が身を心配しろ! 風邪をひきたくなかったらさっさと服を着ろ!」
「うるさい。ちょっと黙っててくれないか」

 感傷にも浸れないなんて――、と彼はまた深くため息をつくしかないようだ。





「おはようございます、アルバートさま! 今朝はソーセージになさいますか、それともベーコンに? 卵はどういたしましょう? ゆで卵、かき卵、」
「片面半熟焼き、ベーコン、コーヒー」
「承りましたとも! こちら、今日の朝刊でございますとも、アルバートさま!」

 サンルームの朝食の席で、緑のフロックコートを着た男が大きな口を横に引いてニタニタと、不機嫌さ丸だしのアルビーにうやうやしく新聞を差しだしている。彼にとって、これは毎朝の欠かせない儀式なのだ。
 なんだっていい、いちいち訊くな、と、かたやアルビーはうんざりしながら、これまた毎日同じ返答を繰り返している。だが今朝に限って、彼はふっと新聞に目を落としていた。

「ロンドンの大雨、止んだんだね」
 
 朝刊のトップページは、彼らが参加した送別会の翌朝から降り始めた豪雨がようやくあがった、という記事だったのだ。バケツをひっくり返したような土砂降りが、1週間も続いていたのだ。「被害甚大だな」と、アルビーは記事に添えられている写真を眺めながら、綺麗に整った眉をしかめ宝石のような瞳を曇らせる。

「あの女があちこちの水脈をつなげちまってたからな。プールされてた分の底が抜けちまったんだ。まぁ、この程度の被害で済んだんだぞ、ありがたく思え!」

 彼の向かいの席に暑苦しくふんぞり返っている、燃えるような赤毛の火の精霊サラマンダーのたまっている。だがこの男は、自分たち精霊の行いのせいだと言いながらも、悪びれた様子もない。

 アルビーの恋人は、連日の彼との電話で、この長雨に責任を感じて嘆いているというのに――。


 
「きみの本質ってただの現象なんだろ? なのに、なんでそんなにバクバク食べるの? 人間じゃないんだから栄養補給なんて必要ないだろ?」
「ま、お前らのイメージのせいだろうな。あるもの全てをなめ尽くす大火ってな! でもまぁ、俺にだって味覚はあるし、腹も減るしな。それにな、俺が旨いものを食うとコウの味覚があがるんだぞ!」
「コウはきみみたいに卑しく食い散らかしたりしないじゃないか」
「お前、眼がないのか! 食い散らかしたことなんかないだろ! いつだって、俺はだな、こんな綺麗に――」

 アルビーはそっぽを向いてもう聴いていない。彼は問いの答えが欲しかったわけではないのだ。彼の発言はたんなる英国式ブリティッシュの嫌味ジョークにすぎない。けれど、日本育ちのこの精霊には通じないらしい。それがまたアルビーの神経に触るのだった。


「早くコウが着かないかな――」

 誰に、というのでもなくアルビーは呟く。間違っても、眼前で絶え間なく頬を動かしている彼にではない。それに、直立不動の銅像になって、指示を待っているフロックコートにでもない。だが、

「お夕食には間に合うように来られるとおっしゃっておられましたとも!」

 ガマガエルのような大きな口がパクパクと動き、嬉しそうに答えている。


 言われなくてもアルビーだって知っている。毎日指折り数えて待っていたのだから。

 今日は彼の恋人が彼の許へ訪ねてきてくれる、待ちに待った週末だ。彼の恋人は平日はロンドンにある大学に通い、週末だけ彼に逢いに3時間半もかけて来てくれるのだ。一緒に暮らしていた彼らが、夏が終わるころには遠距離恋愛となるのは当初からの予定通りだ。ただ、その場所が違うだけで。アルビーは一人でドイツにいるのではなく、二度と会いたくはなかった父の傍らで、この世で一番嫌いな恋敵と一緒に暮らしているというだけだ。

 精霊との約束は、人間の考える意味とは異なる場合があるから、とアルビーは、その世界にどっぷりと浸かっている恋人に忠告されたことがある。だが彼はどうやら、その意味がよく理解できていなかったらしい。

 彼が地の精霊グノームと交わした約束、

 ――あんな無茶苦茶な奴をコウのそばに置いて、野放しになんてしておけるはずがないじゃないか! 

 この言葉が火の精霊サラマンダーを束縛し、それ以来、この赤毛の精霊は、魂を共有するアルビーの恋人の傍らにではなく、天敵といっていい間柄のアルビーの監視下に居ざるをえなくなったのだ。そして、ただでさえ不安定な彼の恋人に付き添うために、また新しい登場人物が、本来のアルビーの住まいの同居人として加わることになった。その少女のことが気にならないわけではないのだが――。

 こいつよりは、よほどマシだ。と、アルビーは眼前の赤毛を盗み見て思う。

 赤毛の皿の料理がなくなると、緑の腕がすかさず継ぎ足す。そのタイミングは見事としか言いようがない。この二人を眺めていると、いつまでもこの食事は終わらないのではないかという気さえしてくる。
 だが、まともに相手にしさえしなければ、アルビーには赤毛がここにことなど、まったく大したこととは思えなかった。

 彼にとって重要なのは、この男が恋人の傍にことなのだから。

 そう考えると、夏の初めにこの男を家から追いだしてやる、と心に誓った彼の決意は成就されたと言っていいだろう。自分とともにいるというのは想定外であっても、鬱陶しくはあっても、それを上回る安心感を彼は得ている。
 こうして顔を突き合わせているうちに、この詐欺師の化けの皮を剥いで恋人から完全に切り離せばいいのだ、とアルビーは毎日の騒々しい食卓を一歩ひいて眺めながら呪文のように自らに言い聞かせている。

 彼の悩みが、この男だということは変わらない。
 だが、かつての漠然とした不安も今はクリアな輪郭を持ち、彼の眼前で欲に忠実に生きるそのさがを晒している。


 だからこうして、ひと夏を経た彼の理不尽な一日も、ありのままの存在を眺めることで得られる明朗さで始まる、ということだ――。




                 了







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感想 4

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みんなの感想(4件)

竹比古
2021.02.20 竹比古

>>前回の続きからラストまで

 くそっ、やられた!
 ドラコに続いて、シルフィやブラウンさんも姿を見せて、コウの口から、ぽつり、ぽつりと物語の核心部分が零れ出す。
 アルビーと同じく、約束が気になって仕方がない。
 ここでもう一度――。
 くそっ、やられた!(褒め言葉です) リアルの中に現れたファンタジックな存在たちをもっと見ていたい。ブラウンさんの噛み合わない応答がコミカルで、明らかに人ではないさまが楽し過ぎる。
 もちろん、苦悩するアルビーの赤裸々な胸の内と、目の前で起こっていることへの心理学的な理由付けはもどかしく、『現実にはあり得ないこと』を精神疾患の中に見出そうとするアルビーと、それを現実として受け止めているコウは正反対で、いつになったら同じ目線になるのか、読み進めずにはいられない。
 そして、消化されずにあったモノがひとつずつ明かされて行く様は、もう本当に「やられた!」でした。
 何より、アルビーがどんどん男前に(いえ、もちろん最初から美形ですが)になって行く。
 コウは……もしかして、主導権を握っている!
 あちらから帰って来て落ち着くのかと思いきや、まるでこれが始まりであるかのよう。
 ケルト神話は竹比古も興味を持ったことがありますが、ただ神話の中に登場する人ならざる者たちに興味を持っていただけだったんだなぁ、としみじみ。
 何より、新しい同居人が現れ、この物語が4部作で続きがあると聞き、さらなる楽しみが増えました。
 ほのぼの日常あり、ほのぼのとしていられない非日常ありの続き、心待ちにしています。


 追伸
 夢の痕2 シンクロ…… の部分が何だか複雑な表記になっています。
 ノート6 問いを重ねるていた →問いを重ねていた

萩尾雅縁
2021.02.20 萩尾雅縁

 ラストまでお読み下さり、ありがとうございます! 
 もう失望を通り越して怒らせてしまうんじゃないかと戦々恐々としていましたので、こうして楽しんでいただけたご様子を教えていただけたことで、心底ほっとしました。

 これははたしてファンタジーなのか、徹底して否認するアルビーの姿勢は、ファンタジー好きな読者様には許しがたいものがあるようです。
「受け入れ難い現実」はそれが何であれ、当人のアイデンティティを揺るがすほどのもので、コウにしろ、アルにしろ、そうそう譲れるものでもなく。いつか同じ目線になれるのか、なれなくても共に歩んでいけるのか。作者もまだまだ進んでいって、見届けたいです。

 この(情けない)アルビーが、かっこいいヒーローになれるのか? とかなり首を捻りながらの執筆だったのですが、ちゃんと男前になっていけていたようで、よかった! 一安心です!

 初めに想定していたのとはまるで違うラストに行き着き、次への導入部も兼ねた第二部の終わりになってしまいました。きっと第三部も書き始めたら、作者も思いもよらぬ広がりになるんだろうな。
 
 これ、楽しんでいるのは作者だけなのでは? と自問自答のつきなかった作品でしたが、続きを待っていると言っていただけて本当に嬉しかった。頑張ります!

 そして毎回の誤字報告も、ありがとうございます!

解除
竹比古
2021.02.11 竹比古


 >>夜8まで

 新鮮な(当然ながら)アルビー視点。
 読み進めて思うことが一つ。
 彼ら二人はどちらも我慢強い! 相手を傷つけないように持する一人称の独白の数々が、コウ視点の時から本当にじれったい(切ない)。すぐに人を傷つけて自分の心を守ろうとするキャラを書くことが多いせいか(竹比古のことです)、本音を口に出せない彼らが初々しい(そして焦れる)。

 もちろん、ドラコとコウの約束も知りたくて仕方がない。
 増えたキャラの中でアルビーの立ち位置に同情することも増え、「コウに我儘をぶつけて欲しい」「自分もコウに遠慮なくぶつかりたい」そんな真摯な想いも見え。

 テント張るか? とドラコにツッコみながら、ブラウンさん(笑)やドラコの世界に思いを馳せ。増えたチッペンデールに吹き出し……番外を読みに行きたい衝動を抑えて、アルビーの苦悩を我がことのように、恨めしくコウを見つめています(笑)。
 やはり、好きです、この作品。


 追記
 どうぞお役立てください。
 夜4 証明は一段落とされ → 照明は一段落とされ
 夜5と夜6に同一内容が投稿されています。
 第二章ショーン きみの見方だ → きみの味方だ

萩尾雅縁
2021.02.11 萩尾雅縁

「霧のはし」に続いて、こちらにもご感想をくださりありがとうございます!

 じれったい、そうなのですね。この二人、どちらも臆病だからかな。逆に私には、竹比古さんの強烈に真っ直ぐなキャラたちがとても新鮮に映ります。自分に正直と言いますか。

 なかなか屈折したアルビーですが、彼の苦悩に寄り添ってくださりありがとうございます。最後まで読まれたときにも、好きと言っていただけるかどうか。すみません、と先に謝っておいてもいいでしょうか?

 それでもこうして読んでいただけたことで、書くためのエネルギーを頂けました。アルもコウも作者にとって大事な子たちなので、最後まで見届けられるように自分を整えて頑張ります。

 そして誤字報告、毎回とんでもないですね…。
 何度もお手数をおかけして申し訳ありません。ありがとうございます!

解除
mash:m
2020.09.13 mash:m

私の読解力では、アルの複雑さを全て理解するのは難しかったですが、アルビー視点の話を読んでからまたコウ視点の話を読み返すと、1回目に読んだ時とはまた違った感情を抱いたりして、何度も今作と前作を行き来してしまいました。
とても面白いお話でした。

萩尾雅縁
2020.09.13 萩尾雅縁

最後までお読み下さり、ご感想下さりありがとうございます。
アルの複雑さ、充分に読み解き表現できていなかったと反省しきりです。作者の至らなさからくる難解さにもかかわらず、前作ともども丁寧に読みこんで下さったことを教えていただけて、本当に報われました。
読むことで何か発見があり、日常で得るのとはまた違った感情を味わっていただけていたらいいな、と願ってやみません。

解除

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