215 / 219
第五章
風 5
しおりを挟む
悲鳴をあげて逃げ惑っていた大広間の連中が、いつまでたっても落ちてこないガラス片を訝しみ、顔や頭を庇っていた腕を怖々と外して頭上を仰ぎ見る。だが僕たちのいる二階フロアはそれよりも早く、誰もが、中空を満たす煌めく切片の異常な動きを、息を殺して見守っていた。
弾け散ったガラスの粒は、きらきらと七色に光り輝きながら天井付近で集まり固まっていく。それはやがて巨大な龍を形作り、悠々と波打ちながら蛇行し始めていた。
静寂を破るどよめきと拍手が、またしても、それこそ大波となってうねり響き渡った。
「なんとも人騒がせな演出だな。きみが神経を逆なでさせるって言うのも解るよ」と、バニーはくすくす笑いながら僕を振り返った。
「だが彼は人を傷つける意志はないようだね。ただのお遊びにすぎない」
視線を赤毛に戻しながら、彼はそう結論づけたようだ。
「そのお遊びにコウも僕も振り回され続けて、気が休まらないんだ。もう、くたくただよ。日常ってものは、こんなパーティイベントじゃないだろ? 僕は平穏が欲しいんだ。それにコウだって!」
――だからお前は偏狭だっていうんだ! あいつの心をお前が決めるな!
突然奴の金属的な声が、直に頭のなかに響いていた。
「勝手に僕を侵襲するんじゃないよ! そうやって自分勝手に境界を侵してくるから、きみを排除すべき存在として認知するしかないんじゃないか!」
思わず、ゆらゆらと動きの定まらないライトに腰かける赤毛に向かって声を荒げた。
「アル!」とバニーのたしなめる声に、はっと我に返る。
これでは僕の方がよほど、幻覚・幻聴を抱えた患者のようじゃないか。また奴にしてやられた。奴の、この小賢しいやり口に、いつも、いつもしてやられる!
ぎりっと下唇を噛んでいた。
確実にバニーに変に思われた。バニーの、彼の眼差しを確認するのが怖かった。
バニーは、いったいどこまで僕の話を信じてくれたのか。理解してくれているのか――。
土台から覆されたような気がしたのだ。病気なのはコウではなく、僕の方ではないのか、と彼に疑われたのではないかと。
「アル」、バニーは腕をとってこの場から僕を連れ出し、誰もいない壁際の一角へと誘った。アーチ型に切り取られた一枚の絵を観客越しに眺めるような、奴の姿を見とめることのできる絶妙な位置で足をとめる。
「アル、落ち着いて。何が聴こえた?」
「ただの幻声だよ」
「そう闇雲に否定しなくていい。アル、きみも、きみの恋人と変わらないくらい、赤毛の彼を取り入れてしまっているように僕には見える。それでその声は、きみを迫害する者だった?」
「迫害? いや、そうじゃない。奴はコウを、」
「彼の心をきみが代弁するな、って言ったのかな?」
伏せていた目をバニーに戻し、深く頷く。
やっぱりバニーだ。彼は普通では信じ難い僕の話を真剣に聴いてくれ、すでに赤毛に対しても彼なりの洞察を得ているのだ。
「それならばきみの取り入れた赤毛の彼は、きみの良心として機能しているようだね。きみがこれまで上手く扱うことのできなかった、超自我だな。――面白いよ」
バニーは目を細め、微笑んで奴に視線を流した。それはかつてのコウが、やんちゃな子どもを見守るように奴のことを目で追っていたのと同じような眼差しだ。
「きみまで奴の肩を持つなんてね」
僕は憮然としてバニーを睨み、つい、拗ねた子どものように唇をとがらせてしまった。
「おやおや、きみまでが退行してしまうのかい?」
バニーはくしゃりと僕の髪を撫でる。小さな子どもにするみたいに。そんな彼の仕草に、なんだかほっと息がつけた。でも表面上は眉をしかめて、ふいっと頭を振ってその手を払う。もう、バニーのうえにスティーブを重ねるわけにはいかない。
彼はにこにこと穏やかな笑みを湛えたまま、また視線を赤毛に戻している。僕もそれに倣い、赤毛を眺めながら彼に尋ねた。
「きみまでが、って他に誰を想定しての言葉?」
「彼だよ」
バニーは赤毛に目を据えたままだ。
「本当の彼はきみが思っているような、幼稚なお子さまではなさそうだからね」
バニーは、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。視界に映る赤毛を細かく切り刻み、吟味しているかのように。
「そうか――、あのペンダントライトは……。アル!」
バニーがいきなり僕の腕を掴んで、赤毛を正面に見据える手摺りに向かって駆けだした。僕はわけのわからないままだ。
と、視界のはしにコウを捉えた。ショーンやマリーも。彼らも異変に気づいたのだろう。だが、コウは特に慌てた様子でもなく、人垣から少し離れた位置からじっと赤毛を見つめているだけだ。
「彼はいったい何をするつもりなんだ!」
今までとは打って変わった真剣な眼差しで、バニーは僕に問いただした。違う、僕にではない。僕たちを見つけて駆け寄ってきたコウに尋ねたのだ。
コウはそれには答えず、真っさきに僕の腕に自分の腕を絡めてきた。それからゆっくりと首を捻って、赤毛に面を向ける。じっと奴を眺めている。
ゆらゆらと揺れている奴の背後で、絡み合う金の蔦で編まれた壁や天井を覆う網が、まるで生きているかのように収縮と拡大を繰り返していた。離れた位置からは死角になっていて、僕はこの変化に気づいていなかったのだ。
金色の胃に、飲み込まれてでもいるようだ。
見ているだけで、気分が悪くなる。金でコーティングされた内臓の、ドクン、ドクンと脈打つさまを内側から見あげているようで――。
「解き放つんだよ」とコウは、ぽつりと呟いた。
弾け散ったガラスの粒は、きらきらと七色に光り輝きながら天井付近で集まり固まっていく。それはやがて巨大な龍を形作り、悠々と波打ちながら蛇行し始めていた。
静寂を破るどよめきと拍手が、またしても、それこそ大波となってうねり響き渡った。
「なんとも人騒がせな演出だな。きみが神経を逆なでさせるって言うのも解るよ」と、バニーはくすくす笑いながら僕を振り返った。
「だが彼は人を傷つける意志はないようだね。ただのお遊びにすぎない」
視線を赤毛に戻しながら、彼はそう結論づけたようだ。
「そのお遊びにコウも僕も振り回され続けて、気が休まらないんだ。もう、くたくただよ。日常ってものは、こんなパーティイベントじゃないだろ? 僕は平穏が欲しいんだ。それにコウだって!」
――だからお前は偏狭だっていうんだ! あいつの心をお前が決めるな!
突然奴の金属的な声が、直に頭のなかに響いていた。
「勝手に僕を侵襲するんじゃないよ! そうやって自分勝手に境界を侵してくるから、きみを排除すべき存在として認知するしかないんじゃないか!」
思わず、ゆらゆらと動きの定まらないライトに腰かける赤毛に向かって声を荒げた。
「アル!」とバニーのたしなめる声に、はっと我に返る。
これでは僕の方がよほど、幻覚・幻聴を抱えた患者のようじゃないか。また奴にしてやられた。奴の、この小賢しいやり口に、いつも、いつもしてやられる!
ぎりっと下唇を噛んでいた。
確実にバニーに変に思われた。バニーの、彼の眼差しを確認するのが怖かった。
バニーは、いったいどこまで僕の話を信じてくれたのか。理解してくれているのか――。
土台から覆されたような気がしたのだ。病気なのはコウではなく、僕の方ではないのか、と彼に疑われたのではないかと。
「アル」、バニーは腕をとってこの場から僕を連れ出し、誰もいない壁際の一角へと誘った。アーチ型に切り取られた一枚の絵を観客越しに眺めるような、奴の姿を見とめることのできる絶妙な位置で足をとめる。
「アル、落ち着いて。何が聴こえた?」
「ただの幻声だよ」
「そう闇雲に否定しなくていい。アル、きみも、きみの恋人と変わらないくらい、赤毛の彼を取り入れてしまっているように僕には見える。それでその声は、きみを迫害する者だった?」
「迫害? いや、そうじゃない。奴はコウを、」
「彼の心をきみが代弁するな、って言ったのかな?」
伏せていた目をバニーに戻し、深く頷く。
やっぱりバニーだ。彼は普通では信じ難い僕の話を真剣に聴いてくれ、すでに赤毛に対しても彼なりの洞察を得ているのだ。
「それならばきみの取り入れた赤毛の彼は、きみの良心として機能しているようだね。きみがこれまで上手く扱うことのできなかった、超自我だな。――面白いよ」
バニーは目を細め、微笑んで奴に視線を流した。それはかつてのコウが、やんちゃな子どもを見守るように奴のことを目で追っていたのと同じような眼差しだ。
「きみまで奴の肩を持つなんてね」
僕は憮然としてバニーを睨み、つい、拗ねた子どものように唇をとがらせてしまった。
「おやおや、きみまでが退行してしまうのかい?」
バニーはくしゃりと僕の髪を撫でる。小さな子どもにするみたいに。そんな彼の仕草に、なんだかほっと息がつけた。でも表面上は眉をしかめて、ふいっと頭を振ってその手を払う。もう、バニーのうえにスティーブを重ねるわけにはいかない。
彼はにこにこと穏やかな笑みを湛えたまま、また視線を赤毛に戻している。僕もそれに倣い、赤毛を眺めながら彼に尋ねた。
「きみまでが、って他に誰を想定しての言葉?」
「彼だよ」
バニーは赤毛に目を据えたままだ。
「本当の彼はきみが思っているような、幼稚なお子さまではなさそうだからね」
バニーは、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。視界に映る赤毛を細かく切り刻み、吟味しているかのように。
「そうか――、あのペンダントライトは……。アル!」
バニーがいきなり僕の腕を掴んで、赤毛を正面に見据える手摺りに向かって駆けだした。僕はわけのわからないままだ。
と、視界のはしにコウを捉えた。ショーンやマリーも。彼らも異変に気づいたのだろう。だが、コウは特に慌てた様子でもなく、人垣から少し離れた位置からじっと赤毛を見つめているだけだ。
「彼はいったい何をするつもりなんだ!」
今までとは打って変わった真剣な眼差しで、バニーは僕に問いただした。違う、僕にではない。僕たちを見つけて駆け寄ってきたコウに尋ねたのだ。
コウはそれには答えず、真っさきに僕の腕に自分の腕を絡めてきた。それからゆっくりと首を捻って、赤毛に面を向ける。じっと奴を眺めている。
ゆらゆらと揺れている奴の背後で、絡み合う金の蔦で編まれた壁や天井を覆う網が、まるで生きているかのように収縮と拡大を繰り返していた。離れた位置からは死角になっていて、僕はこの変化に気づいていなかったのだ。
金色の胃に、飲み込まれてでもいるようだ。
見ているだけで、気分が悪くなる。金でコーティングされた内臓の、ドクン、ドクンと脈打つさまを内側から見あげているようで――。
「解き放つんだよ」とコウは、ぽつりと呟いた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
胡桃の中の蜃気楼
萩尾雅縁
経済・企業
義務と規律に縛られ生きて来た英国貴族嫡男ヘンリーと、日本人留学生・飛鳥。全寮制パブリックスクールで出会ったこの類まれなる才能を持つ二人の出逢いが、徐々に世界を揺り動かしていく。青年企業家としての道を歩み始めるヘンリーの熾烈な戦いが今、始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる