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第五章
仮面 5.
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家を出る前にコウにバニーの話をしておきたかったのに、そんな余裕はなくなってしまった。僕はよほど深く眠っていたらしく、コウは、そんな僕を寝かせておく方がいいと考えてぎりぎりまで起こさなかったのだ。おかげで頭はすっきりしている。思いもよらなかった見解にたどり着けたので文句も言えない。けれどそこからさらに整理していくには、今日は忙しすぎる日だった。
シャワーを浴びて、コウが手早く用意してくれた冷静ポタージュスープとサンドイッチの遅い昼食を軽く採って部屋に戻った。いつの間にやら、黒のスーツカバーに入った洋服がベッドに置かれている。今晩の送別会用の服だろうか。
「用意してくれてたんだ。ありがとう」とコウを見やると、彼は瞳を輝かせ、悪戯な笑みを浮かべて僕を見ていた。
ディナージャケットは好きじゃないくせに、今回は嫌がらないんだな、と訝しく思いながらカバーを外した。
「これを着るの?」
コウも、英国流の皮肉の効いた冗談を使いこなすようになったのか、と広げた服をまじまじと眺めてしまったよ。
「フロックコートは昼間用の礼服だよ」
「礼服としてじゃなくて、仮装なんだけどな、それでもだめなのかな?」
「仮装って?」
「きみが転送してくれた招待状にそう書いてあったじゃないか」
「そうだったっけ」
まるで記憶に残っていない。というよりも日付を確認しただけで文面は読んでいない気がする。
ぽかんとしてしまった僕に、コウはスマートフォンからそのメール画面を呼びだしてくれた。おざなりに流し読み、「なるほど」と頷くしかない。
そういえば、バニーが今年は大掛かりにするとかなんとか言っていたような気がする。いったいどこのどいつが、たかだか研究員の送別会を仮装パーティーにしようなどと思いついたのやら。
「それで僕はブラウニーの仮装をすればいいの?」
「ブラウニーじゃないよ。地の精霊だよ」
緑のフロックコートなんて――。
彼はこんな格好をしていただろうか。
と、つい空を仰いでしまった。彼に関する記憶は確かにあるのにその姿は朧で服装すら思いだすことはできなかった。
「こっちにマントもあるんだよ」
「夏の最中にこれだけ着こむとなると、確かに仮装してるって気がするね」
今日の気温が高くないことを祈るばかりだ。
「もうかなり涼しくなってるし、大丈夫だよ。日本のこの時期なんて、きみには想像もつかないくらいに暑いんだよ。僕は夏をここで過ごせて良かったって思ってる」
「想像もつかないって、例えばどんな感じ?」
「そうだね、戸外でもサウナの中を歩き回っている感じかな」
「それはまた、歩いているだけでのぼせてしまいそうだね」
「そうなんだよ!」
「それに比べれば、こんな格好でもマシってことなのかな」
べつに、暑いから嫌ってわけではないのだ。仮装という送別会の趣旨とは何の関連もないお祭り騒ぎが嫌なだけで。おまけにブラウン兄弟の制服のようなダサい恰好でなんて、笑えない冗談よりひどい。
とはいえ、仮装して来いなどというふざけた一文に、僕は気づかなかったのだからどうしようもない。目的は送別会ではないのだから、今さら行かないという選択肢はないし代替案も浮かばない。
「着替えるよ」と、深いため息と一緒に呑むしかない。「じゃあ、僕も着替えてくるね!」と、コウはパタパタと部屋を出ていく。
彼もコレを着るのか訊くのを忘れていた。僕が地の精霊だからって、まさか、火の精霊の仮装でもするんじゃないだろうな、と不快な想像が浮かんでくる。
ああ、まだ奴のことも聴いていない。無意識に避けていたのかもしれない。ショーンやマリーにしても、いまだ顔も合わせていないじゃないか。こんなに静かで、彼らは家にいるのだろうか。
僕とコウのいるこの世界だけが、現実世界からズレているんじゃないか、などとそんな漠とした不安に駆られてくる。
妄想を振り切って、一式用意されていたうちの白のシャツに着替えた。継いでひらひらとした白絹のスカーフを摘まみあげ、しげしげと眺めてしまった。こんな古めかしいタイの結び方なんて判るわけないじゃないか。
ほら、やっぱり。
僕の呟きが聞こえたかのようなノックの音がする。ドアを開けた廊下にいるのは――。
「お手伝いいたしますとも、アルバート様!」
大きな口を限界まで横にひいてニタニタしているガマガエル、じゃない、ブラウン兄弟のどちらかだ。
「きみは、マークス?」
「はい、はい、はい、そうでございますとも!」
「スペンサーじゃなくて?」
「そうでございますとも!」
どちらでもいい。
「この、」
「はい、はい、このクラヴァットでございます!」
言うよりも早く、彼はベッドに投げだしてあった長いタイをひゅるりと波打たせ、僕の首に巻きつけた。そしてみるみる内に首許で蝶々に結んでいる。お見事。
「ありがとう」と礼を言うと、びよんと背中を反り返させる。これは喜んでいる仕草なのだろうか。
「ところで、ショーンとマリーはいる?」
反り返っていた彼の背中が、また直立不動に戻って固まる。口も固く結ばれている。
僕はこの動作を、どう読み取ればいいのだろう――。
シャワーを浴びて、コウが手早く用意してくれた冷静ポタージュスープとサンドイッチの遅い昼食を軽く採って部屋に戻った。いつの間にやら、黒のスーツカバーに入った洋服がベッドに置かれている。今晩の送別会用の服だろうか。
「用意してくれてたんだ。ありがとう」とコウを見やると、彼は瞳を輝かせ、悪戯な笑みを浮かべて僕を見ていた。
ディナージャケットは好きじゃないくせに、今回は嫌がらないんだな、と訝しく思いながらカバーを外した。
「これを着るの?」
コウも、英国流の皮肉の効いた冗談を使いこなすようになったのか、と広げた服をまじまじと眺めてしまったよ。
「フロックコートは昼間用の礼服だよ」
「礼服としてじゃなくて、仮装なんだけどな、それでもだめなのかな?」
「仮装って?」
「きみが転送してくれた招待状にそう書いてあったじゃないか」
「そうだったっけ」
まるで記憶に残っていない。というよりも日付を確認しただけで文面は読んでいない気がする。
ぽかんとしてしまった僕に、コウはスマートフォンからそのメール画面を呼びだしてくれた。おざなりに流し読み、「なるほど」と頷くしかない。
そういえば、バニーが今年は大掛かりにするとかなんとか言っていたような気がする。いったいどこのどいつが、たかだか研究員の送別会を仮装パーティーにしようなどと思いついたのやら。
「それで僕はブラウニーの仮装をすればいいの?」
「ブラウニーじゃないよ。地の精霊だよ」
緑のフロックコートなんて――。
彼はこんな格好をしていただろうか。
と、つい空を仰いでしまった。彼に関する記憶は確かにあるのにその姿は朧で服装すら思いだすことはできなかった。
「こっちにマントもあるんだよ」
「夏の最中にこれだけ着こむとなると、確かに仮装してるって気がするね」
今日の気温が高くないことを祈るばかりだ。
「もうかなり涼しくなってるし、大丈夫だよ。日本のこの時期なんて、きみには想像もつかないくらいに暑いんだよ。僕は夏をここで過ごせて良かったって思ってる」
「想像もつかないって、例えばどんな感じ?」
「そうだね、戸外でもサウナの中を歩き回っている感じかな」
「それはまた、歩いているだけでのぼせてしまいそうだね」
「そうなんだよ!」
「それに比べれば、こんな格好でもマシってことなのかな」
べつに、暑いから嫌ってわけではないのだ。仮装という送別会の趣旨とは何の関連もないお祭り騒ぎが嫌なだけで。おまけにブラウン兄弟の制服のようなダサい恰好でなんて、笑えない冗談よりひどい。
とはいえ、仮装して来いなどというふざけた一文に、僕は気づかなかったのだからどうしようもない。目的は送別会ではないのだから、今さら行かないという選択肢はないし代替案も浮かばない。
「着替えるよ」と、深いため息と一緒に呑むしかない。「じゃあ、僕も着替えてくるね!」と、コウはパタパタと部屋を出ていく。
彼もコレを着るのか訊くのを忘れていた。僕が地の精霊だからって、まさか、火の精霊の仮装でもするんじゃないだろうな、と不快な想像が浮かんでくる。
ああ、まだ奴のことも聴いていない。無意識に避けていたのかもしれない。ショーンやマリーにしても、いまだ顔も合わせていないじゃないか。こんなに静かで、彼らは家にいるのだろうか。
僕とコウのいるこの世界だけが、現実世界からズレているんじゃないか、などとそんな漠とした不安に駆られてくる。
妄想を振り切って、一式用意されていたうちの白のシャツに着替えた。継いでひらひらとした白絹のスカーフを摘まみあげ、しげしげと眺めてしまった。こんな古めかしいタイの結び方なんて判るわけないじゃないか。
ほら、やっぱり。
僕の呟きが聞こえたかのようなノックの音がする。ドアを開けた廊下にいるのは――。
「お手伝いいたしますとも、アルバート様!」
大きな口を限界まで横にひいてニタニタしているガマガエル、じゃない、ブラウン兄弟のどちらかだ。
「きみは、マークス?」
「はい、はい、はい、そうでございますとも!」
「スペンサーじゃなくて?」
「そうでございますとも!」
どちらでもいい。
「この、」
「はい、はい、このクラヴァットでございます!」
言うよりも早く、彼はベッドに投げだしてあった長いタイをひゅるりと波打たせ、僕の首に巻きつけた。そしてみるみる内に首許で蝶々に結んでいる。お見事。
「ありがとう」と礼を言うと、びよんと背中を反り返させる。これは喜んでいる仕草なのだろうか。
「ところで、ショーンとマリーはいる?」
反り返っていた彼の背中が、また直立不動に戻って固まる。口も固く結ばれている。
僕はこの動作を、どう読み取ればいいのだろう――。
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