夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第五章

仮面 2.

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 僕はコウのうえに、自ら打ち捨てたはずの僕自身を投影していた。その投影された「幼い僕」をいたわり愛することで自分自身を慰めていたのだという、バニーの指摘から見いだした発見に、僕は打ちのめされたといっていい。

 とんでもないな――。
 コウはたまったものではなかっただろう。
 これでは、コウは僕に愛されれば愛されるほど、孤独に陥ることになる。

 コウの抱えていた彼自身の孤独が、僕を錯覚させた。そこに僕を投影させることを容易にさせ、コウ自身の気づかぬ間に住みつき、彼を侵襲し、支配できると思いこませたのだ。
 僕がコウに求めていたものが、僕自身の無意識に封じ込めた「幼い僕」だとしたら、コウ本来の人格と、この投影された「幼い僕」の間に、はたして明確な差異はあるのか、とバニーは問うている。この愛は、僕の病的な自己愛ナルシシズムにすぎないのではないか、と。

 バニーの指摘は間違っていない。僕は確かにこの過程を経てきていた。けれどコウは、そのことにすら気づいていた。すべてを理解したうえで僕を抱えてくれていた。コウにとっての僕は、彼自身が言っていたように「貪欲に広がり続ける闇」だったのだから。けれど彼は「食べ尽くされて空っぽになる」と言いながら、僕を抱えることをやめなかった。


「バニー、コウはすべて解っている。解っていて、それでも僕を愛してくれたんだ。僕は彼を庇護し、彼の孤独を抱えているつもりだったのに、抱えられていたのは僕の方だったんだ。それこそが、僕の愛してやまない彼の個性だよ」

 求められているのが自分のなかの僕の影でしかないと知ってなお、コウは、その影ですら愛してくれたのだ。僕の貪欲な渇望すら、拒むことなく抱えてくれたのだ。僕の形が何であろうとコウは――。どんな言葉でも定義などできないほど、彼の愛は深くて広い。

 コウは僕をカメレオンだと言ったけれど、彼の方が僕にはよほどカメレオンに見える。どれほど色を変えようと、決してその形は揺るがないカメレオンだ。
 赤毛に侵襲されようと、僕を受け入れ僕になろうと、コウは、コウであるという形を変えることはない。彼は、なにものをも包含できる器そのものといえるのではないだろうか。

 だからこそ、判らなくなる。コウはいつでもそこに在るのに、見失う。彼が今、何を抱えているのかが、見えなくて――。



「アル、きみは彼の個性に愛を見いだし満ち足りている。けれど両価的アンビバレントに、彼のそんな個性ゆえに不安から逃れられない。きみは僕に彼をどう扱ってほしいんだい? 彼の個性化を、きみは本当に望んでいるの? きみであって彼でもあるこの無秩序な状態こそが、きみの望む愛の形なんじゃないのかい?」

 バニーはその表情から笑みを消し、厳しい眼差しでもって静かに僕に問いかけた。今日の彼は僕に容赦ない。これはバイザーとバイジーとしての会話ではない。

 僕の友人としてのバニーとの会話なのだ。

 父親スティーブとしてのバニーではなく、指導者バイザーとしての彼でもなく。そんな彼の率直な意見は僕に緊張を強い、なおかつ高揚させた。庇護される関係性ではない、対等な友人として、彼は僕を扱ってくれている。と同時に、彼のこの率直さは、これまでいかに彼が僕を甘やかしてくれていたかということを、僕に如実に知らしめた。

 これから新しい関係性を築いていかなければならない、ということなのだ。
 バニーと僕との間に。そして、僕とコウとの間にも――。

 バニーは言葉よりも雄弁に、その眼差しで僕に教えてくれている。


「本当のコウに逢いたい。そのために、彼が自分自身に立ち返るための手助けをしてほしい。この望みに嘘偽りはないよ、バニー」

 僕はまっ直ぐに彼を見つめてはっきりと告げた。駆け引きも何も必要のない友人としての彼に、誠実に答えたのだ。


 僕はもう充分にコウとの合一を味わった。あの歓喜に満ちた恍惚とした時を――。あれを反芻し続ける、なんてことを望んでいたら現実世界で生きていけなくなる。だからいいのだ。奇跡の瞬間を懐かしみながら、物足りなさを抱えながら補いあって生きていくくらいがちょうどいい。
 あれはこの現実世界ではなく、いつか還る場所にこそ相応しい感覚なのだから。


 ふわりと、バニーの表情が緩む。なんともいえない優しげな笑みを浮かべて、目を細めている。

「僕が一生をかけて抱えるつもりだったクライエントが、魔術で以て癒されるなんてね。商売あがったりだな。もっとも、僕はきみの魔術師がどんな魔力を持っているのか調査する権限を与えられたわけだ。きみの喪失は、これから得られる知的な満足で埋められることになると期待することにするよ」

 それからほんの少しの間、彼は目を瞑って脱力していた。

「タクシーを呼ぶといい。送っていけなくて申し訳ないが、明日、きみの魔術師に逢うのに寝不足で疲れたさまを見せたくないからね」


 笑みを結んだままの彼に、ズキリと心が痛んだ。
 僕は確かに彼を愛していたのだ、と、この時、初めて自覚したのだと思う。この感覚は、恋愛感情にはなり得なかったとしても確かに愛で、僕は今、それを手放したのだ。

 もうこれまでのように彼に甘えることはできないのだ。

 バニーの感じている喪失を、僕もまた、同じように感じていた。




*******


【精神分析用語】

・個性化……個人が自分自身というかけがえのない個別存在となっていくこと。(分析心理学)




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