夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
200 / 219
第五章

鎖 6

しおりを挟む
 僕の恋人は嘘つきだ。

 足下からいっせいに波が引いていく。周囲の景色から色彩のいっさいを奪い、僕の想いをその波間に絡めとって。
 
 遠ざかる車を見送りながらとうとつに浮かんできたのは、そんな想いだった。僕は間違いなく、彼に騙されているに違いない、と。コウが僕から離れて、物理的な距離が空くにつれて疑念が確信に変わっていく。
 

 ガシャンと、僕とコウを繋ぐ道を断ち切るように、重い鉄柵門がスミスさんの手で再び閉ざされる。

 あまりの息苦しさに、圧しかかる空気を無理に肺に押し込めるように吸いこんだ。コウの替わりに、僕がアーノルドの世界に閉じられたような心持ちがしていた。

 何のことはない。僕も僕の日常に還ったのだ。生れたときから変わらずに、これが僕の毎日だった。今さら、どうということもないじゃないか。



 いつまでも玄関先に佇んで、ぼんやり感傷に浸っていてもしかたない。コウが戻ってくるわけでもなし。彼は現実に還っていき、僕だけが、また、一人残されただけのこと。そうなることを望んだのは僕だ。

 コウのいない現実に、安寧する自分がいる。すべてが夢で、僕は初めから一人。僕の世界にいるのは、僕を認識できないアーノルドだけ。この当然すぎる現実に慣れ親しんだ自分に安堵する。僕を意識しないでいい僕に安らぐ。いないことに。空気のような自由に――。



 機械的に階段を上がり、アーノルドの部屋へ入った。ノックも何も必要ない。風景の一部になっている彼は、つい先日までのコウのように、ベッドに寝たまま微動だすることもないのだから。
 そして僕も、これまでコウにしていたように、彼のベッドサイドに置いた椅子に腰かけ彼を眺める。

 僕の視界に確かに彼は映っているのに、コウとは違って心が動かされることは何もない。彼も、僕をこんなふうに認知していたのだろうか。目に映っているだけ。その辺の石ころと変わらない。

 それでも以前は、彼に対して、もう少しいろんな想いを抱えていたような気がするのだ。怒りや、憎しみ、そして、あり得ない奇跡のような夢を――。アビーの人形と一緒に、僕のそんな想いも、壊れてしまったのだろうか。

 コウは、彼の心は頑なに目を瞑っているだけで、ちゃんとこの身体のなかにいる、と言っていたけれど、とてもそんな気がしない。彼はここにはいないから、僕は何も感じないのではないかと思うのだ。

 夜の闇に似た濃紺のシーツに呑みこまれているような、眼前に横たわるアーノルド
 すっかり白く、薄く成り果てた髪は、かつては蜂蜜色だったそうだ。蝋人形のような温もりを感じさせない肌、苦悩を忍ばせる深い皺が額に刻まれる以前の彼は、どんな容貌だったのだろう。
 アビーの愛した彼の姿を僕は知らない。僕の知るアーノルドは、初めて逢ったときからこの姿だった。スティーブの愛してやまない親友になど、僕は逢ったこともない。そしてもはやこの彼でさえ――。酷薄な唇が再び言葉を結ぶことも、閉じられた瞼が持ちあがり、水銀鏡の瞳が僕を映すこともないのだろう。

 眠り続けていたときのコウは、それでもちゃんと生きていると感じさせてくれていた。けれど彼は違う。起きて、歩いて、喋っていたときでさえ、僕には銅像のように見えていた。生きた人間だと思えたことはなかった。そのくせ、狂暴に空気をねじ曲げ、威圧してくる。まさに魔術師さながらに。
 けれどもう僕は、彼の狂暴な攻撃性リビドーに脅かされることなく、こうして穏やかにいることができている。むしろ、このまま目覚めないでいてほしい、とすら――。

 彼のなかに僕を見ながら、目覚めるな、などと――。

 これが僕の本音なのか。

 真実を知ることも、認めることも拒んで、未来を夢見ることもなく、闇の底に安寧していたいのだ。

 僕はまるで海面に放り棄てられたビニール袋だ。ゴミを抱えて波に遊ばれ、ただ翻弄されるがままに波間を漂う。こんな楽な考えにすぐに流されてしまう。
 また、簡単にその身を喰らわせてくれる誰かと、日々を喰い潰して自分を生存させていけばいいじゃないか、と。どうしてこんなにも、僕は弱いのだろう。コウがそばにいないだけで、すべてがどうでもよくなってしまうなんて。



 けれど、この僕の逃避には理由がある。僕は過去の僕を繰り返しているわけじゃない。これはタナトスの欲動ではない。必要な、葛藤――。

 始めは、ほんのわずかなことが引っ掛かっていだけだった。その引っ掛かりが、コウの温度が消えたとたん、瞬く間に僕の妄想を喰って肥え太り、息苦しいほどに圧迫してくるのだ。

 コウ、きみの心のなかにいるときには、判らなかったんだ。これがきみの心だと感じていたし、信じられた。だけどこうして現実という外側から、もう一度きみの心を見つめ直すと、解らないことが多すぎる。
 きみに刻まれた火焔の入れ墨タトゥー。そこに絡まる緑の蔦。あれはトリスケルなんだろう? きみの入れ墨タトゥーにあの蔦が現れたのは、僕がきみの夢に、初めて取り込まれた後だった。夢のなかで、僕はきみに促されて誓いをたてた。
 あのときの幼いきみは、本当にきみだったの? そこに赤毛の介入があったんじゃないの? そして、これこそが奴の目的だったんじゃないのかい。

 僕を媒介にして、より強力にコウを操るための――。

 何よりも僕を大切に想ってくれるコウでは、アビーの人形は壊せない。奴は僕を動かすことで、自らの目的を果たそうとしたのではないだろうか。

 

「あなたの欲のうえで、魔術師たちの理解不能な争いが繰り広げられていたんだ。アーノルド、馬鹿ばかしいとしか言いようがないだろ」

 生れる前から、この馬鹿げた戯言に巻きこまれるのが決まっていた僕の生にしろ、それでも枯れることのない、コウへの渇望にしろ――。


 操っている魔術師たち、そして赤毛は、コウと僕を巻き込んで、いったい何がしたいんだ? 赤毛によって都合良く刷り込まれているコウの心だけでは、何も見えてこないということに、僕は気づいたのだ。


 コウ、きみは何を知っているの? そしてどこまで、真実を隠しているの? 僕はそれが知りたい。――けれど同じだけ、知るのが嫌なのかもしれない。

 



しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

森永くんはダース伯爵家の令息として甘々に転生する

梅春
BL
高校生の森永拓斗、江崎大翔、明治柊人は仲良し三人組。 拓斗はふたりを親友だと思っているが、完璧な大翔と柊人に憧れを抱いていた。 ある朝、目覚めると拓斗は異世界に転生していた。 そして、付き人として柊人が、フィアンセとして大翔が現れる。 戸惑いながら、甘々な生活をはじめる拓斗だが、そんな世界でも悩みは出てきて・・・

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~

柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】 人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。 その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。 完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。 ところがある日。 篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。 「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」 一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。 いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。 合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)

今日くらい泣けばいい。

亜衣藍
BL
ファッション部からBL編集部に転属された尾上は、因縁の男の担当編集になってしまう!お仕事がテーマのBLです☆('ω')☆

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

処理中です...