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第五章
鎖 4
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コウが目覚めてから初めて、彼の部屋で夜を過ごした。自分でも驚くほどの期間を禁欲していたのは、なによりもまず、彼の体力がかなり落ちていたからだった。身体に負担がかかるといけない、との彼への配慮だ。
表向きは。本当はそれ以上に、僕はまだ怖かったのだと思う。
コウに触れることが――。
現実世界は内的世界のように欲動が筒抜けになることはない。溢れかえる想いも柔らかな抱擁に変換できるし、優しいキスでとどめて労わることだってできる。その方が、コウが安心できるだろうと思ったのだ。それに僕は僕の衝動を抑えることができる、と自分自身に証明したかったのかもしれない。
もっともコウには、僕のこんな見え透いた我慢なんて通じなかったのだが――。
「アル、僕にだって欲望はあるんだ」
額におやすみのキスをして部屋へ戻ろうとしたら、そう言われて抱きすくめられた。
「本気にするよ」
「嘘なわけないだろ」
確かに誤魔化しようがない。触れれば解る。
嬉しくて仕方がないのに、僕はまだ頭の隅で疑っている。コウは僕のために、僕の欲しい言葉を言ってくれているだけじゃないのか。必死で探って、確かめて、そんな自分がどうしようもなくみっともなく思えて堪らない。コウの愛は信じているのに、彼の素直な欲望も反応も信じられないなんて、自分自身がどうかしているとしか思えない。
ああ、違う、そうじゃない。僕は受けとめるのが怖いのだ。僕自身が、求められるということを――。僕がこれまでしてきたように、コウが、僕を消費するだけなんじゃないかって、そんな不安にすり替えて。彼はそんなことはしないと知っているのに。コウは僕じゃない。それなのに、まだ僕はコウを僕にしたいのだ。信じられないのは僕自身。
「コウ」
「なに」
「名前を呼んで」
「アル。アルビー。好きだよ。――アル」
僕を抱きしめてコウが囁く。
「アル、好きだよ」
コウの声が、言葉が、細胞の一つ一つに沁みていく。僕に溶けて、僕を形作り、僕になる。
「好きだよ――」
幸せな夢を抱えているみたいだ。透明な儚い夢を。
明日、コウの手を離して僕はここへ残り、彼はロンドンへ帰る。大学の入学式にはまだ間があるけれど、俗世間から隔絶されているこの館から雑多なロンドンへ帰って生活を切り替えていくのは大変だろう、と日にちに余裕を持たせて決めた。
ショーンに彼のことを頼み、そして、決して信用しているわけではないブラウン兄弟の出入りも正式に許可した。今はそうするしかない。コウの魔術的世界の僕の許容が、彼の心の安定を大きく左右するのだから。
安らかな寝息をたてているコウの寝顔を眺めていると、幸福な安堵と不安が、幾重にも重なる波のように互い違いに寄せては返す。生きることは、選択の連続だ。今のこの決意が正しいか、間違っているのか、どんな未来を形作るのか――。欲しい未来にたどり着くように選んだつもりでも、そうはならないかもしれない。けれど僕はもう、いつかのための努力よりも、今目の前にいるきみに心を注ぎたい。
何が一番きみのためになるのか、僕にはまだ見極められないけれど。
バニーにきみを託すことがいいことなのかどうかも、正直自信がない。けれど、きみが眠り続けていたとき以上に、僕は不安で堪らないのだ。きみの心に重なることができたからこそ、僕の心は、この現実でこうして二つに裂かれていることに不満を覚えている。きみの心に僕を重ねて征服してしまいたくなる。そんなことをすれば、きみは消えてしまうのに。そして実際、きみはどんどん朧に輪郭が薄れていっているのだ。
判らないんだ。僕のなかのコウはこんなにはっきりしているのに。
きみは僕を拒んでいるわけじゃない。自分を手放してしまっているわけでもない。それなのに、僕の目に映るきみは、まるで風景のようにここにいるだけだなんて――。
きみはきみの現実を手放して、あそこに置いてきてしまったんじゃないのかい? きみの実在はまだ虹のたもとに囚われたままで、僕の腕のなかにいるのは、きみの形だけなんじゃないの――。
そんな不安が、酸を垂らすように落ちてくる。シュワシュワと音を立てて、心が溶けて穴が開く。
――アーノルドの子どもは御伽噺を現実にして、彼を見いだしてくれた最高の伴侶と末永くハッピーエンドを生きるんだ。それがこの物語の結末だ。
僕がきみに告げたこんな決意が、新たな枷にきみを繋ぎ留めてしまったのではないだろうか。そんな疑念が頭に食いついて離れないんだ。
――誓願を立てたね。
きみは苦しげにそう言ったね。僕の想いを真っ直ぐに受け止めて。
きみの心を読み解くのは決して難しくはなかった。けれど、ここからきみを連れだすことができないなんて――。
きみを脅かすものが、きみを安心させるもの。きみが親しんできたもの。その柔らかな心に、きみが受け入れてきたもの。
僕のそばには、きみの安心はないのだろうか――。きみを支配し、振り回す赤毛を受け入れるしか、きみの実在を保つ方法はないのだろうか。
コウ、きみは御伽噺なんかじゃない。生きた人間なんだよ――。
表向きは。本当はそれ以上に、僕はまだ怖かったのだと思う。
コウに触れることが――。
現実世界は内的世界のように欲動が筒抜けになることはない。溢れかえる想いも柔らかな抱擁に変換できるし、優しいキスでとどめて労わることだってできる。その方が、コウが安心できるだろうと思ったのだ。それに僕は僕の衝動を抑えることができる、と自分自身に証明したかったのかもしれない。
もっともコウには、僕のこんな見え透いた我慢なんて通じなかったのだが――。
「アル、僕にだって欲望はあるんだ」
額におやすみのキスをして部屋へ戻ろうとしたら、そう言われて抱きすくめられた。
「本気にするよ」
「嘘なわけないだろ」
確かに誤魔化しようがない。触れれば解る。
嬉しくて仕方がないのに、僕はまだ頭の隅で疑っている。コウは僕のために、僕の欲しい言葉を言ってくれているだけじゃないのか。必死で探って、確かめて、そんな自分がどうしようもなくみっともなく思えて堪らない。コウの愛は信じているのに、彼の素直な欲望も反応も信じられないなんて、自分自身がどうかしているとしか思えない。
ああ、違う、そうじゃない。僕は受けとめるのが怖いのだ。僕自身が、求められるということを――。僕がこれまでしてきたように、コウが、僕を消費するだけなんじゃないかって、そんな不安にすり替えて。彼はそんなことはしないと知っているのに。コウは僕じゃない。それなのに、まだ僕はコウを僕にしたいのだ。信じられないのは僕自身。
「コウ」
「なに」
「名前を呼んで」
「アル。アルビー。好きだよ。――アル」
僕を抱きしめてコウが囁く。
「アル、好きだよ」
コウの声が、言葉が、細胞の一つ一つに沁みていく。僕に溶けて、僕を形作り、僕になる。
「好きだよ――」
幸せな夢を抱えているみたいだ。透明な儚い夢を。
明日、コウの手を離して僕はここへ残り、彼はロンドンへ帰る。大学の入学式にはまだ間があるけれど、俗世間から隔絶されているこの館から雑多なロンドンへ帰って生活を切り替えていくのは大変だろう、と日にちに余裕を持たせて決めた。
ショーンに彼のことを頼み、そして、決して信用しているわけではないブラウン兄弟の出入りも正式に許可した。今はそうするしかない。コウの魔術的世界の僕の許容が、彼の心の安定を大きく左右するのだから。
安らかな寝息をたてているコウの寝顔を眺めていると、幸福な安堵と不安が、幾重にも重なる波のように互い違いに寄せては返す。生きることは、選択の連続だ。今のこの決意が正しいか、間違っているのか、どんな未来を形作るのか――。欲しい未来にたどり着くように選んだつもりでも、そうはならないかもしれない。けれど僕はもう、いつかのための努力よりも、今目の前にいるきみに心を注ぎたい。
何が一番きみのためになるのか、僕にはまだ見極められないけれど。
バニーにきみを託すことがいいことなのかどうかも、正直自信がない。けれど、きみが眠り続けていたとき以上に、僕は不安で堪らないのだ。きみの心に重なることができたからこそ、僕の心は、この現実でこうして二つに裂かれていることに不満を覚えている。きみの心に僕を重ねて征服してしまいたくなる。そんなことをすれば、きみは消えてしまうのに。そして実際、きみはどんどん朧に輪郭が薄れていっているのだ。
判らないんだ。僕のなかのコウはこんなにはっきりしているのに。
きみは僕を拒んでいるわけじゃない。自分を手放してしまっているわけでもない。それなのに、僕の目に映るきみは、まるで風景のようにここにいるだけだなんて――。
きみはきみの現実を手放して、あそこに置いてきてしまったんじゃないのかい? きみの実在はまだ虹のたもとに囚われたままで、僕の腕のなかにいるのは、きみの形だけなんじゃないの――。
そんな不安が、酸を垂らすように落ちてくる。シュワシュワと音を立てて、心が溶けて穴が開く。
――アーノルドの子どもは御伽噺を現実にして、彼を見いだしてくれた最高の伴侶と末永くハッピーエンドを生きるんだ。それがこの物語の結末だ。
僕がきみに告げたこんな決意が、新たな枷にきみを繋ぎ留めてしまったのではないだろうか。そんな疑念が頭に食いついて離れないんだ。
――誓願を立てたね。
きみは苦しげにそう言ったね。僕の想いを真っ直ぐに受け止めて。
きみの心を読み解くのは決して難しくはなかった。けれど、ここからきみを連れだすことができないなんて――。
きみを脅かすものが、きみを安心させるもの。きみが親しんできたもの。その柔らかな心に、きみが受け入れてきたもの。
僕のそばには、きみの安心はないのだろうか――。きみを支配し、振り回す赤毛を受け入れるしか、きみの実在を保つ方法はないのだろうか。
コウ、きみは御伽噺なんかじゃない。生きた人間なんだよ――。
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