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第四章
夢の跡 8.
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夢というものは、どうしてこうも無茶苦茶なんだろう。
コウと連れ立って山道を上りながら、彼が説明してくれたアーノルドの世界でのことをずっと考えていたのだ。
コウの心と、僕を想うコウの心、そして囚われていたコウの魂。一人の人間がいくつもの形に分裂している。これはコウ自身が、統合された人格をもつ自分というものをイメージすることができないからだろう、と。
それに、僕の知る現実でのアーノルドと、コウの見た彼の内的世界の落差についても。
妄想のアビーと、魂のアビー。ここでも分裂している二つの人格。
魂のアビー、コウは彼の内的世界で自分を良心的に守ってくれていた彼女が本当の彼女で、アーノルドを傷つける彼女は妄想、とみているようだった。だが僕は、魂の彼女はアーノルドの信じる彼女の愛で、妄想のアビーは、彼の超自我ではないかと考えている。
僕を知ることで崩れ始めたという彼の内的世界のアビー。表層の意識でどれほど否認してみても、無意識は僕を認識したことで、彼の罪を断罪し責め苛んだのではないだろうか。彼女の想いを知りながら、彼女の大切な赤ん坊を、彼は殺して奪ったのだから。
むしろ魂のアビーという彼女の愛の形が、それでも彼の内側に残り続けていた方が奇跡のように思える。それほどに、彼は彼女に愛されていたのだろうか。まごうことなく信じられるほどに――。
それとも本当に、彼のそばに魂のアビーがいたのなら――。
ふと浮かんだその考えに、僕は苦笑って首を振った。
常若の国というものが本当に在って、僕たちはそこへ行ってきた、ということになり兼ねない気がして。明快な理解よりも、むしろあやふやでいい加減な夢のすること、としておいた方がいいような気がする。
「どうしたの?」
コウがおっとりと僕を見あげる。
「疲れない?」と僕は尋ねた。「こんなに歩くのは、まだきついんじゃないの?」
「大丈夫だよ」
そう言いながらも、コウの呼吸は少し早くなっている。歩くペースを落として「捉まって」と僕は腕を差しだした。
「アルは、今でもやっぱり、こうして一緒に歩いているときが一番幸せを感じるの?」
コウは僕の腕をとって、ペースを整えていく。
「そうだね。今は、息が合ってるって感じられるときだけじゃなくて、いつでもだよ。コウが同じ世界にいてくれているだけで幸せだよ」
「それでアルが幸せを感じてくれるなら、僕も頑張れる」
コウは微笑んで、さらにしっかり腕を絡ませてくる。だが、この言葉に僕の心臓はドクンと跳ねあがっていた。
頑張るって、何を?
毎日を、日常を――。そんな単語が浮かんだ想像を打ち消している。脳裏に浮かべることすら、僕は拒んでいる。考えたくない。
「アル、着いたよ」
コウが軽く首を傾げて僕を見ている。気がつくと、柔らかな茜色に包まれた木立ちの前で立ち止まっていた。「ああ」と生返事をして、反対の手に持っていた袋から箱を取りだし、彼に渡した。
僕はここに留まり、コウは一人で何もない空き地のなかへと進んでいく。円形の黒土の中央に佇むと、両掌に正方形の箱をのせてゆっくりと頭上に捧げ持つ。目を瞑り、口のなかでなにかを唱えているけれど、僕には聴き取れない。
コウの声に応えるように、風が、ざわざわと重たげな葉を茂らせた枝を揺する。数多の葉を落とし巻き込みながら、辺りの樹々を駆け巡っている。やがてその風は中心に集まりコウの髪をかき散らし、彼のシャツをバタバタと煽り始める。
ブォッと巻きあげた一陣に箱の蓋が飛ばされ、内から粒子が舞いあがる。樹々の狭間から差し込む金色の陽射しを浴びて螺旋に光る粒子の渦のなかに、一瞬、虹色に煌めいた人影が見えた。だが、風を防いでいた腕をおろして、すがめていた眼を開けたときにはもう、そこにはコウがひとり、ほっとしたように笑っているだけだ。
「戻ろうか」
コウは空の箱を袋に戻すと、僕の手をとった。「うん」と返事して歩きだす。
「今回は火で焼かなかったんだね」
「アル、気が気じゃなかったんだろ? 火あぶりにされるー、ってさ」
「内心ね」
冗談めかして笑うコウに、肩をすくめてみせる。
コウは人形を壊すところも僕には見せなかったのだ。自分にそっくりの形代の破壊が、陰惨なイメージとして僕の心に取り込まれ、影を落としてしまってはいけないからだという。
「虹のたもとにちゃんと届くように、風に託したよ」
「戻らないアーノルドの心は、今はそこにいるの?」
「ううん」とコウは残念そうに首を振る。
「目を瞑ったままなんだと思う」
「現実の身体のなかで?」
「うん」
「じゃ、あの人形は?」
「アビーに」
「アーノルドは、いつかアビーの魂に逢えるのかな――」
「大丈夫」
彼の魂はいつまでもアビーを求めたまま彷徨い続けるのではないか、と脳裏を過った僕の不安に対して、コウは自信ありげに微笑んで強く頷いた。
「ほら、きみの渡してくれたキノコの菌糸の玉、あれをアビーに預けてあるからね。廃墟になってしまったけれど、あれはアーノルドの心の世界と繋がっているんだ。糸を手繰って、彼はアビーの許へたどり着けるよ。――いつか」
きっとそう遠くない、いつか――。
押し黙ったコウの肩に、腕を回した。
コウが今考えていることに、心が痛んだ。誰が悪いんじゃない。コウのせいなんかではもちろんない。きみは気づいただけ。本当に、それだけだ。
彼の創り上げた世界を無に帰すこと――。
僕に強く絡みついていた過去を断ち切るために、本当は、僕がすべきことだったのだろう。けれどスティーブは、僕を父を殺すオイディプス王にしたくはなかったのだと思う。僕がその罪を背負って生きていくことを嘆いてくれたのだ。それもまた、養父としての、僕という息子への愛なのだと思う。
「きみが魔法は嫌いだと言った理由が、解ったような気がするよ」
ふと思いだした記憶の欠片が、口を突いてでていた。
「うん」と小さな声でコウは答えた。
自然の摂理に反した人の願いが、人の運命を歪ませる。たったひとつの歪みが、やがて連鎖して大きな歪みの鎖となって、時空間までも軋ませていく。その歪みを探しだし正していくのがコウの枷――。
そんな願い、初めから持たなければいいのだ。
――と、解っていても、人は願わずにはいられないのだろう。
この幸せの永続を求めずにはいられない。
コウの手に深く指を絡ませ、握りしめる。
今、この瞬間、僕の手のひらに握りこむ。
永遠を包含する玉響の時を――。
*****
超自我……自我と無意識をまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我と無意識に伝える機能を持つ。
コウと連れ立って山道を上りながら、彼が説明してくれたアーノルドの世界でのことをずっと考えていたのだ。
コウの心と、僕を想うコウの心、そして囚われていたコウの魂。一人の人間がいくつもの形に分裂している。これはコウ自身が、統合された人格をもつ自分というものをイメージすることができないからだろう、と。
それに、僕の知る現実でのアーノルドと、コウの見た彼の内的世界の落差についても。
妄想のアビーと、魂のアビー。ここでも分裂している二つの人格。
魂のアビー、コウは彼の内的世界で自分を良心的に守ってくれていた彼女が本当の彼女で、アーノルドを傷つける彼女は妄想、とみているようだった。だが僕は、魂の彼女はアーノルドの信じる彼女の愛で、妄想のアビーは、彼の超自我ではないかと考えている。
僕を知ることで崩れ始めたという彼の内的世界のアビー。表層の意識でどれほど否認してみても、無意識は僕を認識したことで、彼の罪を断罪し責め苛んだのではないだろうか。彼女の想いを知りながら、彼女の大切な赤ん坊を、彼は殺して奪ったのだから。
むしろ魂のアビーという彼女の愛の形が、それでも彼の内側に残り続けていた方が奇跡のように思える。それほどに、彼は彼女に愛されていたのだろうか。まごうことなく信じられるほどに――。
それとも本当に、彼のそばに魂のアビーがいたのなら――。
ふと浮かんだその考えに、僕は苦笑って首を振った。
常若の国というものが本当に在って、僕たちはそこへ行ってきた、ということになり兼ねない気がして。明快な理解よりも、むしろあやふやでいい加減な夢のすること、としておいた方がいいような気がする。
「どうしたの?」
コウがおっとりと僕を見あげる。
「疲れない?」と僕は尋ねた。「こんなに歩くのは、まだきついんじゃないの?」
「大丈夫だよ」
そう言いながらも、コウの呼吸は少し早くなっている。歩くペースを落として「捉まって」と僕は腕を差しだした。
「アルは、今でもやっぱり、こうして一緒に歩いているときが一番幸せを感じるの?」
コウは僕の腕をとって、ペースを整えていく。
「そうだね。今は、息が合ってるって感じられるときだけじゃなくて、いつでもだよ。コウが同じ世界にいてくれているだけで幸せだよ」
「それでアルが幸せを感じてくれるなら、僕も頑張れる」
コウは微笑んで、さらにしっかり腕を絡ませてくる。だが、この言葉に僕の心臓はドクンと跳ねあがっていた。
頑張るって、何を?
毎日を、日常を――。そんな単語が浮かんだ想像を打ち消している。脳裏に浮かべることすら、僕は拒んでいる。考えたくない。
「アル、着いたよ」
コウが軽く首を傾げて僕を見ている。気がつくと、柔らかな茜色に包まれた木立ちの前で立ち止まっていた。「ああ」と生返事をして、反対の手に持っていた袋から箱を取りだし、彼に渡した。
僕はここに留まり、コウは一人で何もない空き地のなかへと進んでいく。円形の黒土の中央に佇むと、両掌に正方形の箱をのせてゆっくりと頭上に捧げ持つ。目を瞑り、口のなかでなにかを唱えているけれど、僕には聴き取れない。
コウの声に応えるように、風が、ざわざわと重たげな葉を茂らせた枝を揺する。数多の葉を落とし巻き込みながら、辺りの樹々を駆け巡っている。やがてその風は中心に集まりコウの髪をかき散らし、彼のシャツをバタバタと煽り始める。
ブォッと巻きあげた一陣に箱の蓋が飛ばされ、内から粒子が舞いあがる。樹々の狭間から差し込む金色の陽射しを浴びて螺旋に光る粒子の渦のなかに、一瞬、虹色に煌めいた人影が見えた。だが、風を防いでいた腕をおろして、すがめていた眼を開けたときにはもう、そこにはコウがひとり、ほっとしたように笑っているだけだ。
「戻ろうか」
コウは空の箱を袋に戻すと、僕の手をとった。「うん」と返事して歩きだす。
「今回は火で焼かなかったんだね」
「アル、気が気じゃなかったんだろ? 火あぶりにされるー、ってさ」
「内心ね」
冗談めかして笑うコウに、肩をすくめてみせる。
コウは人形を壊すところも僕には見せなかったのだ。自分にそっくりの形代の破壊が、陰惨なイメージとして僕の心に取り込まれ、影を落としてしまってはいけないからだという。
「虹のたもとにちゃんと届くように、風に託したよ」
「戻らないアーノルドの心は、今はそこにいるの?」
「ううん」とコウは残念そうに首を振る。
「目を瞑ったままなんだと思う」
「現実の身体のなかで?」
「うん」
「じゃ、あの人形は?」
「アビーに」
「アーノルドは、いつかアビーの魂に逢えるのかな――」
「大丈夫」
彼の魂はいつまでもアビーを求めたまま彷徨い続けるのではないか、と脳裏を過った僕の不安に対して、コウは自信ありげに微笑んで強く頷いた。
「ほら、きみの渡してくれたキノコの菌糸の玉、あれをアビーに預けてあるからね。廃墟になってしまったけれど、あれはアーノルドの心の世界と繋がっているんだ。糸を手繰って、彼はアビーの許へたどり着けるよ。――いつか」
きっとそう遠くない、いつか――。
押し黙ったコウの肩に、腕を回した。
コウが今考えていることに、心が痛んだ。誰が悪いんじゃない。コウのせいなんかではもちろんない。きみは気づいただけ。本当に、それだけだ。
彼の創り上げた世界を無に帰すこと――。
僕に強く絡みついていた過去を断ち切るために、本当は、僕がすべきことだったのだろう。けれどスティーブは、僕を父を殺すオイディプス王にしたくはなかったのだと思う。僕がその罪を背負って生きていくことを嘆いてくれたのだ。それもまた、養父としての、僕という息子への愛なのだと思う。
「きみが魔法は嫌いだと言った理由が、解ったような気がするよ」
ふと思いだした記憶の欠片が、口を突いてでていた。
「うん」と小さな声でコウは答えた。
自然の摂理に反した人の願いが、人の運命を歪ませる。たったひとつの歪みが、やがて連鎖して大きな歪みの鎖となって、時空間までも軋ませていく。その歪みを探しだし正していくのがコウの枷――。
そんな願い、初めから持たなければいいのだ。
――と、解っていても、人は願わずにはいられないのだろう。
この幸せの永続を求めずにはいられない。
コウの手に深く指を絡ませ、握りしめる。
今、この瞬間、僕の手のひらに握りこむ。
永遠を包含する玉響の時を――。
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超自我……自我と無意識をまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我と無意識に伝える機能を持つ。
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