192 / 219
第四章
夢の跡 6.
しおりを挟む
アビーの人形のなかに夢の世界を築いていたアーノルドは、砕け散った人形とともに、自身の心も失ってしまった。コウの目覚めと引き換えたように、意識を失ったまま目を覚まさない。医者からは、心臓がかなり弱っているので長くはもたないだろうと言われた。今は病院にいるが回復の見込みもないので、もう数日もすれば、ここへ帰されることになっている。
そんな彼の世話をするのに高齢のスミス夫人だけでは大変だろうと、アンナが住み込みの看護師が見つかるまでここに残ろうか、と言ってくれた。僕はそれを断り、僕が残って父の世話をするつもりだと伝えた。
彼女は反対した。これまでも、スティーブとアンナは、大学へ入ってから僕がアーノルドのもとへ通うのを、心を痛めながら見守ってくれていたのだそうだ。僕がそうすることを望んだから、僕が「諦めない」と言ったから、僕の意志を尊重していたのだという。
だからこそスティーブはアーノルドの妄想世界を終わらせ、彼を目覚めさせるために火の精霊の人形を探し続けていたのだ。彼のためというよりも、むしろ僕のためだったのだ。僕が父のために僕自身を犠牲にするのをやめ、自分の人生を生きられるようにするためだった。
そしてまたもや、父を理由に僕が立ち止まり、僕自身の人生を回避することになるのを、彼らは憂いている。
白薔薇の垣根の向こうから戻ってくるスティーブに気づき、ショーンとの会話を中断して彼を追った。アンナを通じて僕の意志は伝えてもらっている。だがやはり、これは直接話すべきことだ。長い間彼の想いを誤解し、心配かけてきたことを謝り、僕はもう大丈夫だと伝えたい。
僕の大切なあなたに――。
「僕は自分を犠牲にしているわけじゃないよ。ようやく、父と向き合える心境になれた気がするんだ。ここで後悔したくない。それだけだよ」
「アル、私はこれまできみの意志を尊重してきたつもりだ。だけど、それが正しかったのかどうか、今以てして判らないよ。幼かったきみにもっと適切な助言ができたのではないかと、ずっと後悔してきた」
「あなたは間違っていないよ、スティーブ」
あの日から憂いに沈んだまま晴れることのない彼の瞳を、僕は真っ直ぐに見つめて言った。
あなたは間違ってなんかいない。僕は確かに、この瞳に守られ育まれてきたのだ。こんなにもしっかりと抱えてもらえながら、僕は目を瞑ったまま何も見ようとしていなかった。内側に映る漠とした恐怖に怯えてあなたにしがみつき、あなたがくれる愛を、もっと、もっと、とねだるばかりだったのだ。
「僕は、ずっとあなたに感謝してるよ。これまでも、これからも――」
「きみはまた、私たちの家へ帰ってきてくれるかい? 私たちが、もう一つのきみの家族だということを、忘れないでいてくれるかい?」
スティーブは僕を抱きしめて、声を震わせてそう言ってくれた。
「あなたとアンナが僕の理想だ。僕を育んでくれた僕の愛する家族だよ」
「アーノルドを求めてやまないきみに、私は嫉妬を覚えるほどだったよ。私と彼の愚かさの罪にも拘わらず、きみはこんなにも素晴らしい息子に育ってくれた。私は――」
スティーブに映る僕は、アーノルドを求めている? そんなこと、一度も思ったことはなかったのに。彼が見ているのは、僕のなかの彼の願望。僕が叶えようと躍起になっていた彼の願いだ。
「きみは子どものいなかった私たちの、初めての子どもだった。私もアンナも、試行錯誤の子育てだったんだ。それでも、きみという息子を託されたことは、私たちの何よりの歓びだった。私は、きみを誇りに思っているよ」
そうか――。やっと腑に落ちた。彼らは僕の理想であって、対象ではなかったのだ。僕はアビーに同一化し、彼女の対象であるアーノルドを渇望していたのか。美しい星に憧れながら、遠い彼方の手の届かないもの、と最初から諦め自らの内側に取り込もうとはせず、僕はひたすらアビーの人形を抱きしめ、握りしめ、自分自身を慰めていた。スティーブもアンナも、いつだって惜しみなく本物の温もりをくれていたのに。僕は自分自身で心を凍らせ、その冷ややかな僕の本性を彼らに知られることのないように、偽りの仮面をかぶり続けていたのだ。
こんなにも、僕は、なにを怖れていたのだろう?
僕自身に流れるのアーノルドの血を? 狂気の血を?
父と同じように彼らを苦しめることになるかもしれない、僕自身の渇望を――。
それとも、アビーがアーノルドも僕をも棄てて一人で旅立ったように、彼らに置いていかれることを怖れたのだろうか――。
だが、こうしてそれぞれの想いが解き明かされてみれば、僕の不安も、僕の恐怖も、幼い僕が紡ぎあげた妄想の物語でしかなかったのだ。
ずっと僕が渇望していた愛に育まれて、僕は過ごしていたのだ。
「アル、これを。本音を言うと、私はこれを私のものにしてしまいたかったよ。でもきみは、それを望まないだろう」
スティーブはゆったりとした足取りで、キャビネットの前で膝をつくと、ポケットから取り出した鍵で下段の扉を開けた。彼の広い背中が翻り、僕に再び向けられたとき、彼は腕のなかに一体の人形を抱えていた。
「作業小屋を整理していて出てきたんだ。ここに、制作年度が入っている」と、彼は自分の後頭部に触れてみせ、その人形を僕に手渡してくれた。
紺のブレザーに縞模様のネクタイ。黒髪で緑のガラスの瞳。この服装に覚えがあった。髪の毛をはぐって見た制作年度は、僕が、13の年――。
この男の子の人形は――、僕?
問い質す思いで、スティーブを見つめた。彼は悲し気に微笑んで頷いた。継いで「きみの好きにするといい」と囁くように言い、僕を軽くハグして肩をぐっと握って励ましてくれ、静かにこの部屋を後にした。
そんな彼の世話をするのに高齢のスミス夫人だけでは大変だろうと、アンナが住み込みの看護師が見つかるまでここに残ろうか、と言ってくれた。僕はそれを断り、僕が残って父の世話をするつもりだと伝えた。
彼女は反対した。これまでも、スティーブとアンナは、大学へ入ってから僕がアーノルドのもとへ通うのを、心を痛めながら見守ってくれていたのだそうだ。僕がそうすることを望んだから、僕が「諦めない」と言ったから、僕の意志を尊重していたのだという。
だからこそスティーブはアーノルドの妄想世界を終わらせ、彼を目覚めさせるために火の精霊の人形を探し続けていたのだ。彼のためというよりも、むしろ僕のためだったのだ。僕が父のために僕自身を犠牲にするのをやめ、自分の人生を生きられるようにするためだった。
そしてまたもや、父を理由に僕が立ち止まり、僕自身の人生を回避することになるのを、彼らは憂いている。
白薔薇の垣根の向こうから戻ってくるスティーブに気づき、ショーンとの会話を中断して彼を追った。アンナを通じて僕の意志は伝えてもらっている。だがやはり、これは直接話すべきことだ。長い間彼の想いを誤解し、心配かけてきたことを謝り、僕はもう大丈夫だと伝えたい。
僕の大切なあなたに――。
「僕は自分を犠牲にしているわけじゃないよ。ようやく、父と向き合える心境になれた気がするんだ。ここで後悔したくない。それだけだよ」
「アル、私はこれまできみの意志を尊重してきたつもりだ。だけど、それが正しかったのかどうか、今以てして判らないよ。幼かったきみにもっと適切な助言ができたのではないかと、ずっと後悔してきた」
「あなたは間違っていないよ、スティーブ」
あの日から憂いに沈んだまま晴れることのない彼の瞳を、僕は真っ直ぐに見つめて言った。
あなたは間違ってなんかいない。僕は確かに、この瞳に守られ育まれてきたのだ。こんなにもしっかりと抱えてもらえながら、僕は目を瞑ったまま何も見ようとしていなかった。内側に映る漠とした恐怖に怯えてあなたにしがみつき、あなたがくれる愛を、もっと、もっと、とねだるばかりだったのだ。
「僕は、ずっとあなたに感謝してるよ。これまでも、これからも――」
「きみはまた、私たちの家へ帰ってきてくれるかい? 私たちが、もう一つのきみの家族だということを、忘れないでいてくれるかい?」
スティーブは僕を抱きしめて、声を震わせてそう言ってくれた。
「あなたとアンナが僕の理想だ。僕を育んでくれた僕の愛する家族だよ」
「アーノルドを求めてやまないきみに、私は嫉妬を覚えるほどだったよ。私と彼の愚かさの罪にも拘わらず、きみはこんなにも素晴らしい息子に育ってくれた。私は――」
スティーブに映る僕は、アーノルドを求めている? そんなこと、一度も思ったことはなかったのに。彼が見ているのは、僕のなかの彼の願望。僕が叶えようと躍起になっていた彼の願いだ。
「きみは子どものいなかった私たちの、初めての子どもだった。私もアンナも、試行錯誤の子育てだったんだ。それでも、きみという息子を託されたことは、私たちの何よりの歓びだった。私は、きみを誇りに思っているよ」
そうか――。やっと腑に落ちた。彼らは僕の理想であって、対象ではなかったのだ。僕はアビーに同一化し、彼女の対象であるアーノルドを渇望していたのか。美しい星に憧れながら、遠い彼方の手の届かないもの、と最初から諦め自らの内側に取り込もうとはせず、僕はひたすらアビーの人形を抱きしめ、握りしめ、自分自身を慰めていた。スティーブもアンナも、いつだって惜しみなく本物の温もりをくれていたのに。僕は自分自身で心を凍らせ、その冷ややかな僕の本性を彼らに知られることのないように、偽りの仮面をかぶり続けていたのだ。
こんなにも、僕は、なにを怖れていたのだろう?
僕自身に流れるのアーノルドの血を? 狂気の血を?
父と同じように彼らを苦しめることになるかもしれない、僕自身の渇望を――。
それとも、アビーがアーノルドも僕をも棄てて一人で旅立ったように、彼らに置いていかれることを怖れたのだろうか――。
だが、こうしてそれぞれの想いが解き明かされてみれば、僕の不安も、僕の恐怖も、幼い僕が紡ぎあげた妄想の物語でしかなかったのだ。
ずっと僕が渇望していた愛に育まれて、僕は過ごしていたのだ。
「アル、これを。本音を言うと、私はこれを私のものにしてしまいたかったよ。でもきみは、それを望まないだろう」
スティーブはゆったりとした足取りで、キャビネットの前で膝をつくと、ポケットから取り出した鍵で下段の扉を開けた。彼の広い背中が翻り、僕に再び向けられたとき、彼は腕のなかに一体の人形を抱えていた。
「作業小屋を整理していて出てきたんだ。ここに、制作年度が入っている」と、彼は自分の後頭部に触れてみせ、その人形を僕に手渡してくれた。
紺のブレザーに縞模様のネクタイ。黒髪で緑のガラスの瞳。この服装に覚えがあった。髪の毛をはぐって見た制作年度は、僕が、13の年――。
この男の子の人形は――、僕?
問い質す思いで、スティーブを見つめた。彼は悲し気に微笑んで頷いた。継いで「きみの好きにするといい」と囁くように言い、僕を軽くハグして肩をぐっと握って励ましてくれ、静かにこの部屋を後にした。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる