夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第四章

夢の跡 6.

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 アビーの人形のなかに夢の世界を築いていたアーノルドは、砕け散った人形とともに、自身の心も失ってしまった。コウの目覚めと引き換えたように、意識を失ったまま目を覚まさない。医者からは、心臓がかなり弱っているので長くはもたないだろうと言われた。今は病院にいるが回復の見込みもないので、もう数日もすれば、ここへ帰されることになっている。

 そんな彼の世話をするのに高齢のスミス夫人だけでは大変だろうと、アンナが住み込みの看護師が見つかるまでここに残ろうか、と言ってくれた。僕はそれを断り、僕が残って父の世話をするつもりだと伝えた。

 彼女は反対した。これまでも、スティーブとアンナは、大学へ入ってから僕がアーノルドのもとへ通うのを、心を痛めながら見守ってくれていたのだそうだ。僕がそうすることを望んだから、僕が「諦めない」と言ったから、僕の意志を尊重していたのだという。
 だからこそスティーブはアーノルドの妄想世界を終わらせ、彼を目覚めさせるために火の精霊サラマンダーの人形を探し続けていたのだ。彼のためというよりも、むしろ僕のためだったのだ。僕が父のために僕自身を犠牲にするのをやめ、自分の人生を生きられるようにするためだった。

 そしてまたもや、アーノルドを理由に僕が立ち止まり、僕自身の人生を回避することになるのを、彼らは憂いている。




 白薔薇の垣根の向こうから戻ってくるスティーブに気づき、ショーンとの会話を中断して彼を追った。アンナを通じて僕の意志は伝えてもらっている。だがやはり、これは直接話すべきことだ。長い間彼の想いを誤解し、心配かけてきたことを謝り、僕はもう大丈夫だと伝えたい。

 僕の大切なあなたに――。


「僕は自分を犠牲にしているわけじゃないよ。ようやく、父と向き合える心境になれた気がするんだ。ここで後悔したくない。それだけだよ」
「アル、私はこれまできみの意志を尊重してきたつもりだ。だけど、それが正しかったのかどうか、今以てして判らないよ。幼かったきみにもっと適切な助言ができたのではないかと、ずっと後悔してきた」
「あなたは間違っていないよ、スティーブ」

 あの日から憂いに沈んだまま晴れることのない彼の瞳を、僕は真っ直ぐに見つめて言った。

 あなたは間違ってなんかいない。僕は確かに、この瞳に守られはぐくまれてきたのだ。こんなにもしっかりと抱えてもらえながら、僕は目を瞑ったまま何も見ようとしていなかった。内側に映る漠とした恐怖に怯えてあなたにしがみつき、あなたがくれる愛を、もっと、もっと、とねだるばかりだったのだ。


「僕は、ずっとあなたに感謝してるよ。これまでも、これからも――」
「きみはまた、私たちの家へ帰ってきてくれるかい? 私たちが、もう一つのきみの家族だということを、忘れないでいてくれるかい?」

 スティーブは僕を抱きしめて、声を震わせてそう言ってくれた。

「あなたとアンナが僕の理想だ。僕を育んでくれた僕の愛する家族だよ」
「アーノルドを求めてやまないきみに、私は嫉妬を覚えるほどだったよ。私と彼の愚かさの罪にも拘わらず、きみはこんなにも素晴らしい息子に育ってくれた。私は――」

 スティーブに映る僕は、アーノルドを求めている? そんなこと、一度も思ったことはなかったのに。彼が見ているのは、僕のなかの彼の願望。僕が叶えようと躍起になっていた彼の願いだ。
 
「きみは子どものいなかった私たちの、初めての子どもだった。私もアンナも、試行錯誤の子育てだったんだ。それでも、きみという息子を託されたことは、私たちの何よりの歓びだった。私は、きみを誇りに思っているよ」

 そうか――。やっと腑に落ちた。彼らは僕の理想であって、対象ではなかったのだ。僕はアビーに同一化し、彼女の対象であるアーノルドを渇望していたのか。美しい星に憧れながら、遠い彼方の手の届かないもの、と最初から諦め自らの内側に取り込もうとはせず、僕はひたすらアビーの人形を抱きしめ、握りしめ、自分自身を慰めていた。スティーブもアンナも、いつだって惜しみなく本物の温もりをくれていたのに。僕は自分自身で心を凍らせ、その冷ややかな僕の本性を彼らに知られることのないように、偽りの仮面をかぶり続けていたのだ。

 こんなにも、僕は、なにを怖れていたのだろう?

 僕自身に流れるのアーノルドの血を? 狂気の血を? 
 父と同じように彼らを苦しめることになるかもしれない、僕自身の渇望リビドーを――。

 それとも、アビーがアーノルドも僕をも棄てて一人で旅立ったように、彼らに置いていかれることを怖れたのだろうか――。

 だが、こうしてそれぞれの想いが解き明かされてみれば、僕の不安も、僕の恐怖も、幼い僕が紡ぎあげた妄想の物語でしかなかったのだ。


 ずっと僕が渇望していた愛に育まれて、僕は過ごしていたのだ。


「アル、これを。本音を言うと、私はこれを私のものにしてしまいたかったよ。でもきみは、それを望まないだろう」

 スティーブはゆったりとした足取りで、キャビネットの前で膝をつくと、ポケットから取り出した鍵で下段の扉を開けた。彼の広い背中が翻り、僕に再び向けられたとき、彼は腕のなかに一体の人形を抱えていた。

「作業小屋を整理していて出てきたんだ。ここに、制作年度が入っている」と、彼は自分の後頭部に触れてみせ、その人形を僕に手渡してくれた。


 紺のブレザーに縞模様のネクタイ。黒髪で緑のガラスの瞳。この服装に覚えがあった。髪の毛をはぐって見た制作年度は、僕が、13の年――。

 この男の子の人形は――、僕?

 問い質す思いで、スティーブを見つめた。彼は悲し気に微笑んで頷いた。継いで「きみの好きにするといい」と囁くように言い、僕を軽くハグして肩をぐっと握って励ましてくれ、静かにこの部屋を後にした。
 



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