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第四章
大地 7
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「それで僕たちはどこへ向かっているの?」
裏庭へ続く戸口へ出たところでコウに訊ねた。
「裏山の妖精の環のあった空き地だよ。あの下に火の精霊の力が埋まってるんだ。そこでこの人形を壊すのが、一番周囲に与える影響が少なくてすむんだ」
「でも、」と僕は空を見上げた。
ホリゾントの青空はもうかなり剥がれ落ちてきているのだ。その後ろから抜けるように美しい蒼穹が迫っている。キラキラと光る陶片は、霧雨というよりも風に巻きあげられる濃い霧となって、僕たちの視界を遮るほどになっている。
「うん。急がないとね」
コウは表情を引きしめて速度を上げる。コウの腕にいる赤毛の人形は、わざとらしくコウの首に腕を回してしがみつき、「ほら、急げ、急げ!」などと言いながら、ガラスの目玉で僕を見てニヤニヤ笑っている。人形になってさえも嫌味な奴だ。もう壊さなくても、ずっとここに閉じ込めておけばいいんじゃないのかという気さえする。その方が世界の平和は保たれるだろ。僕はコウと二人、虹のたもとで暮らすことになったって別にかまやしないのだ。
「アル――。自暴自棄にならないで」
コウが唇を尖らせて僕を見ている。
「心が筒抜けっていうのもけっこう楽なものだね。いちいち口に出さなくてもいいし、嘘も必要ない。こんな渇望も隠しようがないしね」
引きだしてきたなまめかしい記憶に、コウがぼっと火がついたように赤くなる。
「おまえ! こいつに無駄なエネルギー消費させるんじゃない! どういう状況にいるのかまだ判ってないのか、この抜け作!」
人形がきゃんきゃんわめいている。
「だ・ま・れ。恋人同士の会話に割り込むんじゃないよ」
この世界が崩れかけているとはいえ、まだ地の精霊の抑止力は効果があるらしい。奴はしばらくはせいぜい舌打ちするのが関の山だ。
裏山のあの空き地には、妖精の環も魔法陣もない。苔むした地面の中央に、ぽっかりと剥きだした黒土が丸く残っているだけだった。
「ここにいて」とコウは僕を樹々の陰に残し、人形を抱いてその円の中心に進んでいった。
コウの喉から、彼の声とは思えない、いやそれよりも人間の声とは思えないような霊妙な音が流れだす。これは呪文なのだろうか――。空気を振るわすその音律は、透明な粒子を虹色に輝かせながら渦を巻き、螺旋に彼を取り巻いていく。その螺旋が空に突き抜ける一本の柱となったとき、コウは人形を高く掲げ持ち、力を込めてその足元の大地へと叩きつけた。
焔が、虹色の螺旋を駆け昇る。突風が吹きあがり、樹々の梢を打ち鳴らす。枝葉は騒めきたて千切り取られて旋回を描く。僕は樹の陰に半ば身を隠して防ぎながら、螺旋のなかにいるコウを見守っていた。
強風がコウの髪を逆立て、シャツを煽りはためかせている。これだけ離れていてさえ感じる灼熱のなかで、コウは空高く片腕を伸ばしたままじっと動かない。
だがやがて、コウを中心にして渦巻き昇った焔の螺旋は、空から逆流し始め、高く掲げられた彼の指先へと収まっていった。
ふっと力が抜けたように、コウがくずおれる。
「コウ!」
急ぎ駆け寄って抱きおこす。火照ったなどという程度じゃない。コウの身体はまるで焔の塊だ。
「大丈夫だよ。ほっとしただけ」
起き上がることもできないくせに――。
薄く目を開けたコウは、それでも僕を安心させようと笑みを作る。
「それより急いで――。ここはもうすぐ崩れるから」
「どこに向かえばいい?」
「館の――、鏡。大きな鏡のある部屋へ」
「それならアビーの浴室だ」
コウを抱きあげて、山道を急ぎ下った。
ゴゴゴゴゴッ――、と地鳴りが鳴り響き、地面が小刻みに揺れ始めていた。樹々のそこかしこから鳥たちが一斉に飛びたち、悲鳴に似た鋭い声をあげている。空の亀裂だけじゃない。大地の中心に在った火の精霊を解き放ったことでできた空洞のために、内側からも崩壊が始まったのだ。
煉瓦塀へたどり着き、ようやく扉をくぐり抜けると、一面の白薔薇が透き通る青い焔のなかで、身もだえするように揺れ、燃えていた。堅牢な灰色の石造りの館は、まるで砂糖菓子でできてでもいるように溶け、崩れ始めている。
風が焔を噴きあげ、宙にはパチパチと音を立てながら焔と化した花々が舞っている。これも幻想の焔に違いないのに、これまでとは違う息苦しいほどの熱が空気を焼いている。さすがにコウを庇いながら、このなかをくぐり抜けていけるのかと躊躇する。
「シルフ、僕たちを通して!」
コウが叫び、中空に向かって高々と手を差しのべた。その指先から小さな渦が生まれ、周囲の熱気を薙ぎ払う。その渦の先導する螺旋に守れた道を走り抜けた。
だが、たどり着いた建物のなかもすでに火が回り、壁や天井を溶かし始めていた。そのあまりの熱に、コウが息苦しそうに呼吸を荒げた。
「これは火の精霊の焔じゃないの?」
「違う。誰かが精霊の人形を焚きあげているんだ。急がないと。すべての人形が壊され精霊の加護がなくなると、この世界は消滅してしまう」
裏庭へ続く戸口へ出たところでコウに訊ねた。
「裏山の妖精の環のあった空き地だよ。あの下に火の精霊の力が埋まってるんだ。そこでこの人形を壊すのが、一番周囲に与える影響が少なくてすむんだ」
「でも、」と僕は空を見上げた。
ホリゾントの青空はもうかなり剥がれ落ちてきているのだ。その後ろから抜けるように美しい蒼穹が迫っている。キラキラと光る陶片は、霧雨というよりも風に巻きあげられる濃い霧となって、僕たちの視界を遮るほどになっている。
「うん。急がないとね」
コウは表情を引きしめて速度を上げる。コウの腕にいる赤毛の人形は、わざとらしくコウの首に腕を回してしがみつき、「ほら、急げ、急げ!」などと言いながら、ガラスの目玉で僕を見てニヤニヤ笑っている。人形になってさえも嫌味な奴だ。もう壊さなくても、ずっとここに閉じ込めておけばいいんじゃないのかという気さえする。その方が世界の平和は保たれるだろ。僕はコウと二人、虹のたもとで暮らすことになったって別にかまやしないのだ。
「アル――。自暴自棄にならないで」
コウが唇を尖らせて僕を見ている。
「心が筒抜けっていうのもけっこう楽なものだね。いちいち口に出さなくてもいいし、嘘も必要ない。こんな渇望も隠しようがないしね」
引きだしてきたなまめかしい記憶に、コウがぼっと火がついたように赤くなる。
「おまえ! こいつに無駄なエネルギー消費させるんじゃない! どういう状況にいるのかまだ判ってないのか、この抜け作!」
人形がきゃんきゃんわめいている。
「だ・ま・れ。恋人同士の会話に割り込むんじゃないよ」
この世界が崩れかけているとはいえ、まだ地の精霊の抑止力は効果があるらしい。奴はしばらくはせいぜい舌打ちするのが関の山だ。
裏山のあの空き地には、妖精の環も魔法陣もない。苔むした地面の中央に、ぽっかりと剥きだした黒土が丸く残っているだけだった。
「ここにいて」とコウは僕を樹々の陰に残し、人形を抱いてその円の中心に進んでいった。
コウの喉から、彼の声とは思えない、いやそれよりも人間の声とは思えないような霊妙な音が流れだす。これは呪文なのだろうか――。空気を振るわすその音律は、透明な粒子を虹色に輝かせながら渦を巻き、螺旋に彼を取り巻いていく。その螺旋が空に突き抜ける一本の柱となったとき、コウは人形を高く掲げ持ち、力を込めてその足元の大地へと叩きつけた。
焔が、虹色の螺旋を駆け昇る。突風が吹きあがり、樹々の梢を打ち鳴らす。枝葉は騒めきたて千切り取られて旋回を描く。僕は樹の陰に半ば身を隠して防ぎながら、螺旋のなかにいるコウを見守っていた。
強風がコウの髪を逆立て、シャツを煽りはためかせている。これだけ離れていてさえ感じる灼熱のなかで、コウは空高く片腕を伸ばしたままじっと動かない。
だがやがて、コウを中心にして渦巻き昇った焔の螺旋は、空から逆流し始め、高く掲げられた彼の指先へと収まっていった。
ふっと力が抜けたように、コウがくずおれる。
「コウ!」
急ぎ駆け寄って抱きおこす。火照ったなどという程度じゃない。コウの身体はまるで焔の塊だ。
「大丈夫だよ。ほっとしただけ」
起き上がることもできないくせに――。
薄く目を開けたコウは、それでも僕を安心させようと笑みを作る。
「それより急いで――。ここはもうすぐ崩れるから」
「どこに向かえばいい?」
「館の――、鏡。大きな鏡のある部屋へ」
「それならアビーの浴室だ」
コウを抱きあげて、山道を急ぎ下った。
ゴゴゴゴゴッ――、と地鳴りが鳴り響き、地面が小刻みに揺れ始めていた。樹々のそこかしこから鳥たちが一斉に飛びたち、悲鳴に似た鋭い声をあげている。空の亀裂だけじゃない。大地の中心に在った火の精霊を解き放ったことでできた空洞のために、内側からも崩壊が始まったのだ。
煉瓦塀へたどり着き、ようやく扉をくぐり抜けると、一面の白薔薇が透き通る青い焔のなかで、身もだえするように揺れ、燃えていた。堅牢な灰色の石造りの館は、まるで砂糖菓子でできてでもいるように溶け、崩れ始めている。
風が焔を噴きあげ、宙にはパチパチと音を立てながら焔と化した花々が舞っている。これも幻想の焔に違いないのに、これまでとは違う息苦しいほどの熱が空気を焼いている。さすがにコウを庇いながら、このなかをくぐり抜けていけるのかと躊躇する。
「シルフ、僕たちを通して!」
コウが叫び、中空に向かって高々と手を差しのべた。その指先から小さな渦が生まれ、周囲の熱気を薙ぎ払う。その渦の先導する螺旋に守れた道を走り抜けた。
だが、たどり着いた建物のなかもすでに火が回り、壁や天井を溶かし始めていた。そのあまりの熱に、コウが息苦しそうに呼吸を荒げた。
「これは火の精霊の焔じゃないの?」
「違う。誰かが精霊の人形を焚きあげているんだ。急がないと。すべての人形が壊され精霊の加護がなくなると、この世界は消滅してしまう」
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