夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
175 / 219
第四章

化身 5

しおりを挟む
「なんとも壮大な話だね」

 僕に言えるのはそんなことくらいか。
 誇大妄想――。コウの内的世界で生きていくのは、思ったよりも大変かもしれない。ある意味、命がけだ。でもだからといって、コウへの想いが冷めてしまったわけじゃない。こんな大ごとな使命を負って、外的現実を生きていくのは困難が伴うだろうな、と思うだけで。むしろそこは僕が支えてあげればいいのだ、とかえって気が楽になったかもしれない。――もっとも、現実に戻ることができれば、の話だが。

 
「よいしょ」と、コウが立ちあがる。「なんだかすっきりしたよ。僕はもうほとんど諦めていたんだ」

 僕を見て、とろけるような笑みを浮かべる。差し伸べられたその手を掴んで、僕も遅れて腰をあげた。
「これは、きみが持っておく?」と例のキノコを差しだした。コウは首を振って、「持っていて。ここを抜けるには、きみの手が道しるべを握っている方がいい」と、またよく判らないことを口にする。

 まだまだ聴きたいことはあるのだが――。なんだか、それほど大切なことでもないような気がしてきた。コウは僕を想ってくれている。コウのなかにちゃんと僕がいる。それが解っただけで充分だ。



 それから道々話したことから解ってきたのは、アーノルドの妄想世界の「虹のたもと」と、本当の冥界の入り口にあたる「虹のたもと」とは別だということ。生きている彼の出入りできる中間領域としての「虹のたもと」でありながら、同時に赤毛――、火の精霊サラマンダーを封じるための閉じられた世界でもあることから、本来の「虹のたもと」と重なっていながらズレが生じているらしいのだ。そしてそのズレが、彼の妻アビーのうえに現れていた綻び、ということだった。

火の精霊サラマンダーを封じたといっても、彼の本体は大地の内側にあって、外に現れる現象の過剰分を封じたに過ぎないんだ。だけど、彼にしてみれば自由を奪われ、水の精霊ウンディーネには好き勝手に世界を荒らされ、たまったものじゃない。だからこの封印を解くために、そのわずかなズレから彼の卵をマグマにのせて地表に流したんだ。それがドラコだよ」
「つまり彼は、火の精霊サラマンダーの子どもみたいなものなの?」
「ちょっと違うかな。強いて例えると――、分身。あるいは影かな」

 僕たちに見える赤毛は実体のある人間ではないらしい。本来現象である火の精霊サラマンダーは、形を持たない。コウが初めて赤毛に出逢ったときの姿は、僕のあげた蜥蜴とかげの指輪に似た、火蜥蜴ひとかげだったそうだ。その蜥蜴の姿にせよ、アーノルドの人形をかたどった姿にせよ、外見だけでなく彼のあの性格にせよ、人間の投影した火のイメージを凝固したものにすぎないのだという。

「そしてきみは地の精霊グノームの性質を有しているわけだから――」

 僕が赤毛を憎み嫌うほどに、彼を大地に封じる精霊の力が増して、コウの意識ごとこの結界内に引き寄せ、封じ込める力として働いてしまったということらしい。異界の扉となってコウを巻き込むきっかけとなったのが、トリスケルの渦なのだそうだ。僕は僕の上に、コウのなかの火の精霊サラマンダーを封じる作用を無意識のうちに具現化してしまっていたのだ。さもありなんだ。僕はやつを地中深く埋めてしまいたい気持ちでいっぱいだったもの。



 コウが、きゅっと僕の手を握る指先に力を込める。歩調が乱れる。呼吸が浅くなっている。

「僕は、イギリスに着いてすぐに、地の精霊グノームの宝を探すように言われて――。サラマンダーの封印を解くには、地の精霊グノームの赦しと加護がどうしても必要だったんだ。だから、その宝を盾にして、地の精霊グノームの庇護を――」
 
 声を詰まらせたコウの肩を、しっかりと抱いた。
 大丈夫だよ。コウ、不安に思わなくてもいいんだ。
 
「きみは知らなかったんだね。僕をここへ呼び寄せることになるのを恐れて、目覚めることさえも拒んでしまっていたんだね」
「――精霊の血を継いでいるといっても、きみは現実世界でちゃんと生きている人だもの」
「きみだってそうじゃないか」
「僕は――、もうほとんどこっちの世界の住人だよ――」

 足を止めて、コウと向き合った。コウは僕から顔を逸らしていた。片手にはキノコの繭玉を握ったまま、コウの両頬を掬いあげてのぞきこんだ。

「そうじゃない。コウ、きみだけじゃないんだよ。人は誰でも、内的現実と外的現実、この二つの世界に住んでいるんだ。けれど普通は、その二つの世界に架ける橋を持っているってだけなんだよ」

 じっと彼の目を見つめて、言い聞かせるように言葉を継いだ。

「ぼくの専攻する分野では、夢がその橋の役割をすると教わったよ。僕の夢のなかで、きみは何度も僕を呼んでくれていた。僕に向かって橋を架けてくれていたじゃないか」

 コウは泣きそうな顔をして、僕から目を逸らそうとする。僕はますます彼に顔を寄せて囁くような小声で続けた。

「コウ、もう僕から逃げないで。きみの内的現実と外的現実の間には、おそらく大きな乖離があるんだ。でもどちらも、きみにとって大切な現実なんだよ。僕には一方が正しくて、もう一方は間違っているとも、一方を棄ててもう一方のみを選んでくれ、なんて言うこともできないよ。そんなことを言う気もない」

 ああ、またコウを泣かせてしまった。彼の顔を支えたまま、この涙を唇で拭いとる。コウは喉をひくつかせて嗚咽を殺し、深い吐息を漏らしている。

「どちらの世界にいるきみも、きみだってことは変わらない。僕の住む世界ではきみは生きづらく、この内的世界の方が、きみにとって生きやすいのであればそれでいいんだ。僕はきみといっしょにいたいだけ。きみがここに留まりたいのなら、僕も――。コウ、僕もここにいていいって言って」


「できないよ。きみは、きみの世界に、帰らないと――」
「コウ、」
「いっしょに。アル、いっしょに帰ろう」

 コウがコツンと僕の肩に頬を当てる。僕に甘えるときの彼の癖。

「もしもきみが、外的世界がどうしようもなく怖いのなら、僕がきみの橋になる」

 コウを抱きしめて、耳許で囁いた。

 怖いのも、つらいのも、我慢しなくていい。
 僕たちは支えあって生きていけばいいのだから――。



 


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

何故か正妻になった男の僕。

selen
BL
『側妻になった男の僕。』の続きです(⌒▽⌒) blさいこう✩.*˚主従らぶさいこう✩.*˚✩.*˚

嫌われ者の長男

りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

悪役令息の兄には全てが視えている

翡翠飾
BL
「そういえば、この間臣麗くんにお兄さんが居るって聞きました!意外です、てっきり臣麗くんは一人っ子だと思っていたので」 駄目だ、それを言っては。それを言ったら君は───。 大企業の御曹司で跡取りである美少年高校生、神水流皇麗。彼はある日、噂の編入生と自身の弟である神水流臣麗がもめているのを止めてほしいと頼まれ、そちらへ向かう。けれどそこで聞いた編入生の言葉に、酷い頭痛を覚え前世の記憶を思い出す。 そして彼は気付いた、現代学園もののファンタジー乙女ゲームに転生していた事に。そして自身の弟は悪役令息。自殺したり、家が没落したり、殺人鬼として少年院に入れられたり、父に勘当されキャラ全員を皆殺しにしたり───?!?!しかもそんな中、皇麗はことごとく死亡し臣麗の闇堕ちに体よく使われる?! 絶対死んでたまるか、臣麗も死なせないし人も殺させない。臣麗は僕の弟、だから僕の使命として彼を幸せにする。 僕の持っている予知能力で、全てを見透してみせるから───。 けれど見えてくるのは、乙女ゲームの暗い闇で?! これは人が能力を使う世界での、予知能力を持った秀才美少年のお話。

処理中です...