夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
165 / 219
第四章

虹のたもと 3.

しおりを挟む
 火が、ない。

 どういうことなのだ。息せき切ってここまで来たのに、僕は自分の目に映る景色が理解できなかった。

 視覚だけじゃない。臭い――。

 感じていたのに突き詰める余裕すらなかった違和の正体に、ようやく認識が追いついた。樹の焼ける臭いがしないのだ。

 それに、音。

 風がごうごうと吹きすさび、梢を揺するざわざわとした葉擦れの音は確かにしているのに、火が樹々を舐め、パチパチと燃やす音は聞こえない。それなのに、この視界を脅かすほどの白い煙。煙というよりも、風音さえも呑み込んでしまいそうな、細やかで濃い霧の粒子のような。
 そしてその靄を黄金色に染める残照の濃淡は、風に巻かれて大きな渦を作っているのだ。それはまるで、この決して広いとは言えない空間を巨大な蛇が、ずるり、ずるりと身体を引きずりとぐろを巻いて回っているかのようで――。

 その下方、金色の靄の湧きたつ大地に、キラキラと光を爆ぜる魔法陣が見てとれた。柔らかな地面に埋め込まれた二重の円環。その円に沿う金彩で塗られた陶器の文字群、月、太陽。それらの上に焔の形を頂きにした杖が放りだされている。香炉や蝋燭もひっくり返され、倒れて散乱しているのだ。


 いったい何が起きたんだ? 二人は無事なのか。

 間違いなくショーンはここにいたのだ。そこで儀式を中断せざるを得ない何かが生じた。火の扱いを誤りでも――。

 人形! そうだ、人形がない! 四大精霊の四体の人形が! 

 外円の四隅に置かれた焚き上げのために積まれた薪は、確かに火を点け燃やした跡がある。だがそこに人形が叩きつけられた形跡はない。生焼けのまま燻ぶって自然に消えてしまったかのような焦げ跡が、薪に残っているだけだ。



 黄昏時の金色が徐々に薄れ始め、この空間を覆う光が朧に色を消し始めている。

 それなのに、僕はこの混乱のなかから何も掴むことができないまま、呆然と立ち尽くしているだけだなんて。
 何か、何かないかと、緩慢に辺りを徘徊し見回したところで、人の気配もここで火事が発生した痕跡も何もない。二人はどこへ行ってしまったのだ?

「コウ! ショーン! どこにいるんだ? コウ! ショーン!」

 何度も、声を張りあげて呼んだ。

 コゥ――。コゥ――。

 と、僕の声だけが跳ね返ってくる。

 ――ここだよ、と応えてくれるのは、僕の心に響く声だけ。声は虚しくこの霧のなかに吸い込まれていくばかりだ。


 絶望的に見おろした地面の魔法陣。
 コウは確かにここにいたのに――。儀式のために、キノコに模した白い石は取り除かれ、代わりに埋められた魔法陣の文字列は、薄闇を湧きたたせているかのような鈍く禍々しい輝きを放っている。まるで放電しているかのように細かく震えて見えるのは、風で揺らぐ霧のせいだろうか。


「アルー! アルゥ―!」


 誰かが僕を呼んでいる。エコーがかった呼び声に、声の主が判らない。だがショーンやコウではないのは間違いない。もっと低い年齢を感じさせる声音だった。スミスさんは僕を名前で呼んだりしない。アーノルドには、先生としか呼ばれたことがない。僕の名前なんて知らないのだろう。わけの判らないまま、「はい、ここにいます!」と叫び返す。「声の方へ行く! そこから動かないでいてくれ!」と応答があった。



 やがて懐中電灯の照らすまっすぐな光が霧のなかに一筋の線を描き、木立ちの陰から二つの人影が現れた。

「スティーブ! どうしてここに!」
「帰ってきたのに、家には誰もいないじゃないか。やっと連絡の取れたマリーから、きみも、きみの友人たちもここにいると聴いてね。アンナと一緒に訪ねてきたんだ」

 スティーブの帰国予定はいつだった? 僕はそんなことさえ忘れていたのか。

 茫然と立ち尽くしていた僕を、彼は両腕を広げて抱きしめてくれた。温かい掌で背中をぽんぽんと叩いてくれる。

「どうしたんだい? 私は歓迎されていないのかな?」

 いつもしているように、彼を抱きしめ返して、旅の疲れを労って、こんなところまで来てくれたことのお礼を――。そう頭はキシキシ動いているのに、言葉がでてこない。今、溢れ返りそうになっているのは、この状況を受けとめられず混乱している自分自身だけなのだ。

「あ――、スティーブ……」

 何を言えば? 

 唇を震わせ見つめるだけの僕に、彼は優しく温かな笑みをくれ、頭をくしゃりと撫でて片腕でもう一度僕を抱きしめてくれた。


「アル、人形を持ってきたんだね。これだね?」

 耳許に寄せられた彼の口から静かな囁きが呟かれる。彼のもう一方の手は、キャリーバッグを握る僕の手の上から、持ち手を強く握りしめていた。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

ブレスレットが運んできたもの

mahiro
BL
第一王子が15歳を迎える日、お祝いとは別に未来の妃を探すことを目的としたパーティーが開催することが発表された。 そのパーティーには身分関係なく未婚である女性や歳の近い女性全員に招待状が配られたのだという。 血の繋がりはないが訳あって一緒に住むことになった妹ーーーミシェルも例外ではなく招待されていた。 これまた俺ーーーアレットとは血の繋がりのない兄ーーーベルナールは妹大好きなだけあって大いに喜んでいたのだと思う。 俺はといえば会場のウェイターが足りないため人材募集が貼り出されていたので応募してみたらたまたま通った。 そして迎えた当日、グラスを片付けるため会場から出た所、廊下のすみに光輝く何かを発見し………?

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

悪役令息の兄には全てが視えている

翡翠飾
BL
「そういえば、この間臣麗くんにお兄さんが居るって聞きました!意外です、てっきり臣麗くんは一人っ子だと思っていたので」 駄目だ、それを言っては。それを言ったら君は───。 大企業の御曹司で跡取りである美少年高校生、神水流皇麗。彼はある日、噂の編入生と自身の弟である神水流臣麗がもめているのを止めてほしいと頼まれ、そちらへ向かう。けれどそこで聞いた編入生の言葉に、酷い頭痛を覚え前世の記憶を思い出す。 そして彼は気付いた、現代学園もののファンタジー乙女ゲームに転生していた事に。そして自身の弟は悪役令息。自殺したり、家が没落したり、殺人鬼として少年院に入れられたり、父に勘当されキャラ全員を皆殺しにしたり───?!?!しかもそんな中、皇麗はことごとく死亡し臣麗の闇堕ちに体よく使われる?! 絶対死んでたまるか、臣麗も死なせないし人も殺させない。臣麗は僕の弟、だから僕の使命として彼を幸せにする。 僕の持っている予知能力で、全てを見透してみせるから───。 けれど見えてくるのは、乙女ゲームの暗い闇で?! これは人が能力を使う世界での、予知能力を持った秀才美少年のお話。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

処理中です...