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第四章
虹のたもと 2.
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「どうでしょうね。僕は、あまり詳しいことを聞いていなくて」
柔らかな微笑みを受けべ、おっとりと応える。彼は待ちきれないとばかりに、大きくため息をついている。
警戒心の強い彼は、裏を返せばとても臆病で、依存心が強い。彼がこの期に及んで儀式を行う決心をつけたのは、ショーンという来訪者を偶然得たからだった。コウが彼にとって僕の連れてきた魔術師であったのなら、ショーンもまたそうなのだ。僕たちは初めから、彼の世界を保つための道具に過ぎないのだから。
かつてアーノルドは魔術師に頼り、アビーの生と彼らの日常の継続を願った。そして、その願いは叶えられた。だがそこにいる彼の妻は、かつてのアビーその人ではなく、子どもを喪い狂ったアビーだ。彼の無意識の防衛機制は、この歪みの理由を考えた。そしてそれを、魔術師のせいにした。彼らの、あるいは最初の儀式を仕切った彼自身の能力が足りなかったからだ、と。そしてショーンを利用することを思いついた。
ショーンは実に見事にやってくれた。彼に取り入り信頼を得て、彼の望みを代行した。
そうだね。ただ、行われる儀式の内容が、若干すり替わっているだけのこと。
「でも少し遅すぎるんじゃないかな。様子を見にいった方がいいかな」
「待ちましょう。邪魔をしてはいけない。たとえ依頼主であっても、儀式の場を外から見られてはならないのでしょう?」
ふぅ、と彼は不満そうに息をつく。この儀式の要は、終盤の精霊の人形の破壊なのだ。それが無事終わるまでは、彼にはここにいてもらわなければならない。
今、ショーンは彼に代って、精霊使役の儀式を取り仕切っている。精霊の力を人形に封じ込めるまでが彼の役目。そこまですれば、満月の夜に魔術師たちがやって来て異界の扉を開く儀式を取り仕切ってくれるはずなのだ。その儀式で、今はまだ影のように実体のない彼の妄想のコウに身体を与えてくれるのだ。かつて、死んだアビーに妄想の実体を与えたように。
魔術師たちを呼ぶための、今日がぎりぎりの最終日だった。これを逃せば、また次の満月まで待たなくてはならなくなる。
無意識のなかにある常若の国、それが、虹のたもとと呼ばれる場所――。
「ショーンが言っていましたよ。世界を構成する四大元素の精霊の力はとても巨大だから魔法陣の外でそれに触れるようなことがあると、命の保証はできないって」
「ああ、知っている。知っているよ」
彼は大仰に何度も頷きながら、忙しなく視線を彷徨わせている。「でもね、」とか、「しかし、」とか、口のなかでブツブツと呟きながら、腰を浮かせてはまた座り直す。
「ああ、どうも落ち着かんよ」
「お気持ちは解ります」
僕だって、できることならコウの許へ駆けつけたい。ショーン一人にこの大役を任せっきりになどしたくない。朗報を待っているのは彼と変わりないだろう。そして僕にとっての朗報は、彼の失望を招くものでもあるのだ。これが、僕がここにいるもう一つの理由だ。
だが、懸念はそれだけではない。火を使う儀式の再現。これはコウの精神的外傷への、より直接的なエクスポージャー法になる。その結果、より彼の傷を深めてしまう可能性だって充分に考えられる。
これまでずっと最悪の事態を様々にシミュレーションしてきたのだ。その対応策は、思いつく限り講じてきている。それでも――、不安がつきることはなく、今この時の1分1秒がもどかしく、やるせない。
「坊ちゃん!」
スミス夫人?
大きく息を弾ませながら駆け込んできたのだ。目を剥きだし、手をあたふたと動かして、口をパクパクさせながら僕に訴えかけている。彼の前では言えないことなのだろうか。僕は椅子を跳ねるように立ち上がり、彼に黙礼してテーブルを離れた。
廊下に出てドアを閉めるなり、夫人は震える両手を擦り合わせ、揉み合わせながら、「お山がね、火事なんですよ!」と小さな声で囁いた。
失敗――。
その瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、この二文字だ。
「コウは、ショーンは無事なの?」
「今、うちの人が向かっています」
「消防には?」
「連絡しました」
それだけ聴くと駆けだしていた。だが玄関へ向かう前に、二階の僕の部屋へと向かっていた。
儀式が失敗したのなら、失敗したのなら――。僕は赤毛にコウを渡さなければならなくなる!
嫌だった。それだけは、どうしたって嫌だった。まだでき得る手段をすべて講じて万策尽きた、というわけではない。
残る最後の希望のしまってあるキャリーバッグを掴んで、また階段を駆け下りる。そして今度こそ裏庭の白薔薇の垣根に挟まれた小径を、走りに走った。塀の向こうに広がる緑の連なりから、白い煙がもくもくと上がっている。
裏木戸の鍵は外され、扉は大きく開け放たれていた。その扉をくぐりぬけ、霧のように煙が白く立ち込めるなかを、コウと、ショーンの名を呼びながら分け入った。
予測できなかったわけじゃない。もともと儀式のために開かれ、周囲の樹々は伐採されているとはいうものの、森のなかで火を焚くのだ。コウのハムステッドヒースの失敗の先例もある。それなりの危険を伴うのは解っていた。だから周囲に、消火器や水をあらかじめ備えておいた。それなのに――。
あれだけの空間があって、樹に燃え広がるなんてことが――。
樹々がきれ、あの空き地に出た。黄昏時の残照が、白い煙に覆われているこの空間をぼんやり浮かびあがらせていた。
柔らかな微笑みを受けべ、おっとりと応える。彼は待ちきれないとばかりに、大きくため息をついている。
警戒心の強い彼は、裏を返せばとても臆病で、依存心が強い。彼がこの期に及んで儀式を行う決心をつけたのは、ショーンという来訪者を偶然得たからだった。コウが彼にとって僕の連れてきた魔術師であったのなら、ショーンもまたそうなのだ。僕たちは初めから、彼の世界を保つための道具に過ぎないのだから。
かつてアーノルドは魔術師に頼り、アビーの生と彼らの日常の継続を願った。そして、その願いは叶えられた。だがそこにいる彼の妻は、かつてのアビーその人ではなく、子どもを喪い狂ったアビーだ。彼の無意識の防衛機制は、この歪みの理由を考えた。そしてそれを、魔術師のせいにした。彼らの、あるいは最初の儀式を仕切った彼自身の能力が足りなかったからだ、と。そしてショーンを利用することを思いついた。
ショーンは実に見事にやってくれた。彼に取り入り信頼を得て、彼の望みを代行した。
そうだね。ただ、行われる儀式の内容が、若干すり替わっているだけのこと。
「でも少し遅すぎるんじゃないかな。様子を見にいった方がいいかな」
「待ちましょう。邪魔をしてはいけない。たとえ依頼主であっても、儀式の場を外から見られてはならないのでしょう?」
ふぅ、と彼は不満そうに息をつく。この儀式の要は、終盤の精霊の人形の破壊なのだ。それが無事終わるまでは、彼にはここにいてもらわなければならない。
今、ショーンは彼に代って、精霊使役の儀式を取り仕切っている。精霊の力を人形に封じ込めるまでが彼の役目。そこまですれば、満月の夜に魔術師たちがやって来て異界の扉を開く儀式を取り仕切ってくれるはずなのだ。その儀式で、今はまだ影のように実体のない彼の妄想のコウに身体を与えてくれるのだ。かつて、死んだアビーに妄想の実体を与えたように。
魔術師たちを呼ぶための、今日がぎりぎりの最終日だった。これを逃せば、また次の満月まで待たなくてはならなくなる。
無意識のなかにある常若の国、それが、虹のたもとと呼ばれる場所――。
「ショーンが言っていましたよ。世界を構成する四大元素の精霊の力はとても巨大だから魔法陣の外でそれに触れるようなことがあると、命の保証はできないって」
「ああ、知っている。知っているよ」
彼は大仰に何度も頷きながら、忙しなく視線を彷徨わせている。「でもね、」とか、「しかし、」とか、口のなかでブツブツと呟きながら、腰を浮かせてはまた座り直す。
「ああ、どうも落ち着かんよ」
「お気持ちは解ります」
僕だって、できることならコウの許へ駆けつけたい。ショーン一人にこの大役を任せっきりになどしたくない。朗報を待っているのは彼と変わりないだろう。そして僕にとっての朗報は、彼の失望を招くものでもあるのだ。これが、僕がここにいるもう一つの理由だ。
だが、懸念はそれだけではない。火を使う儀式の再現。これはコウの精神的外傷への、より直接的なエクスポージャー法になる。その結果、より彼の傷を深めてしまう可能性だって充分に考えられる。
これまでずっと最悪の事態を様々にシミュレーションしてきたのだ。その対応策は、思いつく限り講じてきている。それでも――、不安がつきることはなく、今この時の1分1秒がもどかしく、やるせない。
「坊ちゃん!」
スミス夫人?
大きく息を弾ませながら駆け込んできたのだ。目を剥きだし、手をあたふたと動かして、口をパクパクさせながら僕に訴えかけている。彼の前では言えないことなのだろうか。僕は椅子を跳ねるように立ち上がり、彼に黙礼してテーブルを離れた。
廊下に出てドアを閉めるなり、夫人は震える両手を擦り合わせ、揉み合わせながら、「お山がね、火事なんですよ!」と小さな声で囁いた。
失敗――。
その瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、この二文字だ。
「コウは、ショーンは無事なの?」
「今、うちの人が向かっています」
「消防には?」
「連絡しました」
それだけ聴くと駆けだしていた。だが玄関へ向かう前に、二階の僕の部屋へと向かっていた。
儀式が失敗したのなら、失敗したのなら――。僕は赤毛にコウを渡さなければならなくなる!
嫌だった。それだけは、どうしたって嫌だった。まだでき得る手段をすべて講じて万策尽きた、というわけではない。
残る最後の希望のしまってあるキャリーバッグを掴んで、また階段を駆け下りる。そして今度こそ裏庭の白薔薇の垣根に挟まれた小径を、走りに走った。塀の向こうに広がる緑の連なりから、白い煙がもくもくと上がっている。
裏木戸の鍵は外され、扉は大きく開け放たれていた。その扉をくぐりぬけ、霧のように煙が白く立ち込めるなかを、コウと、ショーンの名を呼びながら分け入った。
予測できなかったわけじゃない。もともと儀式のために開かれ、周囲の樹々は伐採されているとはいうものの、森のなかで火を焚くのだ。コウのハムステッドヒースの失敗の先例もある。それなりの危険を伴うのは解っていた。だから周囲に、消火器や水をあらかじめ備えておいた。それなのに――。
あれだけの空間があって、樹に燃え広がるなんてことが――。
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