夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
164 / 219
第四章

虹のたもと 2.

しおりを挟む
「どうでしょうね。僕は、あまり詳しいことを聞いていなくて」

 柔らかな微笑みを受けべ、おっとりと応える。彼は待ちきれないとばかりに、大きくため息をついている。

 警戒心の強い彼は、裏を返せばとても臆病で、依存心が強い。彼がこの期に及んで儀式を行う決心をつけたのは、ショーンという来訪者を偶然得たからだった。コウが彼にとって僕の連れてきた魔術師であったのなら、ショーンもまたそうなのだ。僕たちは初めから、彼の世界を保つための道具に過ぎないのだから。

 かつてアーノルドは魔術師に頼り、アビーの生と彼らの日常の継続を願った。そして、その願いは叶えられた。だがそこにいる彼の妻アビーは、かつてのアビーその人ではなく、子どもを喪い狂ったアビーだ。彼の無意識の防衛機制は、この歪みの理由を考えた。そしてそれを、魔術師のせいにした。彼らの、あるいは最初の儀式を仕切ったアーノルド自身の能力が足りなかったからだ、と。そしてショーンを利用することを思いついた。


 ショーンは実に見事にやってくれた。彼に取り入り信頼を得て、彼の望みを代行した。

 そうだね。ただ、行われる儀式の内容が、若干すり替わっているだけのこと。


「でも少し遅すぎるんじゃないかな。様子を見にいった方がいいかな」
「待ちましょう。邪魔をしてはいけない。たとえ依頼主であっても、儀式の場を外から見られてはならないのでしょう?」

 ふぅ、と彼は不満そうに息をつく。この儀式のかなめは、終盤の精霊の人形の破壊なのだ。それが無事終わるまでは、彼にはここにいてもらわなければならない。

 今、ショーンは彼に代って、精霊使役の儀式を取り仕切っている。精霊の力を人形に封じ込めるまでが彼の役目。そこまですれば、満月の夜に魔術師たちがやって来て異界の扉を開く儀式を取り仕切ってくれるはずなのだ。その儀式で、今はまだ影のように実体のないアーノルドの妄想のコウに身体を与えてくれるのだ。かつて、死んだアビーに妄想の実体を与えたように。
 魔術師たちを呼ぶための、今日がぎりぎりの最終日だった。これを逃せば、また次の満月まで待たなくてはならなくなる。

 無意識のなかにある常若の国ティル・ナ・ノーグ、それが、虹のたもとと呼ばれる場所――。


「ショーンが言っていましたよ。世界を構成する四大元素の精霊の力はとても巨大だから魔法陣の外でそれに触れるようなことがあると、命の保証はできないって」
「ああ、知っている。知っているよ」

 彼は大仰に何度も頷きながら、忙しなく視線を彷徨わせている。「でもね、」とか、「しかし、」とか、口のなかでブツブツと呟きながら、腰を浮かせてはまた座り直す。

「ああ、どうも落ち着かんよ」
「お気持ちは解ります」

 僕だって、できることならコウの許へ駆けつけたい。ショーン一人にこの大役を任せっきりになどしたくない。朗報を待っているのは彼と変わりないだろう。そして僕にとっての朗報は、彼の失望を招くものでもあるのだ。これが、僕がここにいるもう一つの理由だ。

 だが、懸念はそれだけではない。火を使う儀式の再現。これはコウの精神的外傷トラウマへの、より直接的なエクスポージャー法になる。その結果、より彼の傷を深めてしまう可能性だって充分に考えられる。

 これまでずっと最悪の事態を様々にシミュレーションしてきたのだ。その対応策は、思いつく限り講じてきている。それでも――、不安がつきることはなく、今この時の1分1秒がもどかしく、やるせない。




「坊ちゃん!」

 スミス夫人?

 大きく息を弾ませながら駆け込んできたのだ。目を剥きだし、手をあたふたと動かして、口をパクパクさせながら僕に訴えかけている。彼の前では言えないことなのだろうか。僕は椅子を跳ねるように立ち上がり、彼に黙礼してテーブルを離れた。

 廊下に出てドアを閉めるなり、夫人は震える両手を擦り合わせ、揉み合わせながら、「お山がね、火事なんですよ!」と小さな声で囁いた。

 失敗――。

 その瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、この二文字だ。

「コウは、ショーンは無事なの?」
「今、うちの人が向かっています」
「消防には?」
「連絡しました」

 それだけ聴くと駆けだしていた。だが玄関へ向かう前に、二階の僕の部屋へと向かっていた。

 儀式が失敗したのなら、失敗したのなら――。僕は赤毛にコウを渡さなければならなくなる! 

 嫌だった。それだけは、どうしたって嫌だった。まだでき得る手段をすべて講じて万策尽きた、というわけではない。

 残る最後の希望のしまってあるキャリーバッグを掴んで、また階段を駆け下りる。そして今度こそ裏庭の白薔薇アイスバーグの垣根に挟まれた小径を、走りに走った。塀の向こうに広がる緑の連なりから、白い煙がもくもくと上がっている。

 裏木戸の鍵は外され、扉は大きく開け放たれていた。その扉をくぐりぬけ、霧のように煙が白く立ち込めるなかを、コウと、ショーンの名を呼びながら分け入った。

 
 予測できなかったわけじゃない。もともと儀式のために開かれ、周囲の樹々は伐採されているとはいうものの、森のなかで火を焚くのだ。コウのハムステッドヒースの失敗の先例もある。それなりの危険を伴うのは解っていた。だから周囲に、消火器や水をあらかじめ備えておいた。それなのに――。

 あれだけの空間があって、樹に燃え広がるなんてことが――。


 樹々がきれ、あの空き地に出た。黄昏時の残照が、白い煙に覆われているこの空間をぼんやり浮かびあがらせていた。


 
 

しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

恋人が出て行った

すずかけあおい
BL
同棲している恋人が書き置きを残して出て行った?話です。 ハッピーエンドです。 〔攻め〕素史(もとし)25歳 〔受け〕千温(ちはる)24歳

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

【完結】悪役令息の従者に転職しました

  *  
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。 依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。 皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ! 本編完結しました! 『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー! 他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。

処理中です...