夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
162 / 219
第四章

儀式 8

しおりを挟む
 彼とは、ほんの数日逢わなかっただけ――、だろうか。もっと長い間、逢っていなかったような気もする。毎日同じことが繰り返されるだけの時間の止まったようなこの館にいると、日にちも、曜日も、時間の感覚もまるで夢のなかのことのようで、上手く思いだせなくなってしまう。

 霧に包まれているような意識のまま、眼前に座るアーノルドを眺めていた。外界を映す視界すらも、紗の下りた先を見ているようではっきりしない。僕は彼の中間領域にいるのではなく、彼の内的世界そのものを膜を通して覗きこんでいるのだろうか。

 初めて彼に会った日から、彼は時の止まった内側にいる。十数年の年月は彼に変化を与えはしなかった。
 それだけの年月を先に使いこんでしまったかのように、彼はその年齢にはそぐわないほど老け込んでいた。これが自分の父親なのかと驚いたほどだ。若々しいスティーブと比べて、余計にそう感じてしまったのかもしれない。あるいはスティーブから聞かされていた彼が、永遠の少年を思わせるような純粋な魂の持ち主だと、僕には映っていたからだろうか。

 そんな日々一日のごとく定められた習慣の上を、ゼンマイ仕掛けの人形のようにただ巡るだけだった彼が、目に見て判るほど変化しているのだ。頬は削げ落ち、肌は青白く生気を失っている。禍々しい水銀鏡の瞳だけが変わりなく、鋭い光を放っている。


「お疲れのようですね。奥様の具合がよくないのでは?」と、僕は穏やかに聴こえるように心掛けて声音を落とす。
「そうなんだよ。さすがだね、先生。妻のうつが酷いんだ。食事もろくに取ろうとしない。先生に相談してごらん、と言ってはみたんだがね。私も仕事の手が離せなくて、ずっとついていてやるわけにもいかなくてね」

 コウは? コウへの執着はどうなっている?

 内心の苛立ちを晒すことがないよう努めてゆっくりと呼吸する。吐息交じりに話す彼に気づかうような眼差しを向け、神妙な面持ちで相槌を打つ。

「それはご心配ですね。僕でお力になれればいいのですが。それは例の、彼女の夢中になっていた対象――、少年の妄想のせいでしょうか?」

 彼はカトラリーを動かす手を止め、伏せていた面から目だけをぎょろりと僕に向けた。手首を返した拍子に立ちあげられたナイフが間接照明の光を跳ね、そこだけが妙に浮きあがって現実感を醸しだす。まるでこれからあのナイフを振るって、妻の妄想を切り出すかのようだ。

「ああ、そうなんだよ。あの子がね、家に帰りたいって駄々を捏ねるんだ。ここが彼の家なのにね」

 その静かな声音に、背筋が凍りつくようだった。彼はもう、コウを自分の子どもとして内的世界に取り入れてしまっているのだろうか。

「でも、もう大丈夫だ。彼は今日からちゃんと人間の世界に留まれるようになるんだよ。妻の妄想ではなくなるんだ」と、彼はまたカトラリーを操り、妄想ではなく、現実の鴨肉のローストを切り分けながら、無邪気な笑みを浮かべている。

 彼は今日、肉を食べるのか――。


 今夜、コウを彼の世界に具現化するための儀式を取り仕切るのに――。

 彼が潔斎儀礼をせず、肉食していることが気にかかった。そう、そしていつも以上にゆっくりと進むこの食卓の違和も。以前行ったことがあるとはいえ、ショーンがあれほど頭を悩ますほど複雑な手順の儀式なのだ。その直前によそ者である僕を招いて悠長に食事なんて、不自然ではないだろうか?

 彼はいつもと変わりなく饒舌に喋っている。いや、それ以上に機嫌がいいといえるかもしれない。話題はやはり彼の妻アビーのこと。そして、彼女の可愛がっている少年のことだ。
 彼を見出してから彼女がいかに元気に快活になったのかということ、けれど最近になって彼を喪うことを恐れるあまり、抑鬱的に塞ぎこむようになってしまったこと。

「だからね、私も彼女の想いを尊重してやることにしたんだよ。べつに私にその子が見えなくったっていいじゃないか。妻は病気なんだから。彼女がその少年相手のごっこ遊びで心穏やかでいられるなら、それでいいと思うことにしたんだよ」
「それで、お寂しくはありませんか?」

 つい、そんなことを尋ねてしまっていた。片時も彼女を傍から離すことのなかった彼が、今は僕とだけ向かい合っているのだ。人として認識されているかも判らない記号でしかない僕と――。

「彼女のためだからね。だがそれも、もう終わるんだよ。妖精のかけた魔法が解けて、私にもあの子が見えるようになるんだ。だから今日はそのお祝いだ。どうだね、先生も一緒に祝ってくれるだろう?」

 彼は僕を凝視して微笑み、高々とグラスを掲げた。

「乾杯! 私たち、幸せな家族に!」

 吐き気がしそうだ――。

 そんな想いを押し殺し、僕も赤ワインの揺れるグラスを持ちあげる。

「乾杯! あなたの美しい世界に――」


 永遠に、終わることのない茶番劇に――。


 


しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。 そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー ------------------------------- 松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳 カフェ・ルーシェのオーナー 横家大輝(よこやだいき) 27歳 サッカー選手 吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳 ファッションデザイナー ------------------------------- 2024.12.21~

胸キュンシチュの相手はおれじゃないだろ?

一ノ瀬麻紀
BL
今まで好きな人どころか、女の子にも興味をしめさなかった幼馴染の東雲律 (しののめりつ)から、恋愛相談を受けた月島湊 (つきしま みなと)と弟の月島湧 (つきしまゆう) 湊が提案したのは「少女漫画みたいな胸キュンシチュで、あの子のハートをGETしちゃおう作戦!」 なのに、なぜか律は湊の前にばかり現れる。 そして湊のまわりに起こるのは、湊の提案した「胸キュンシチュエーション」 え?ちょっとまって?実践する相手、間違ってないか? 戸惑う湊に打ち明けられた真実とは……。 DKの青春BL✨️ 2万弱の短編です。よろしくお願いします。 ノベマさん、エブリスタさんにも投稿しています。

【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします

  *  
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!? しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です! めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので! 本編完結しました! 『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく舞踏会編をはじめましたー! 他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。

俺、転生したら社畜メンタルのまま超絶イケメンになってた件~転生したのに、恋愛難易度はなぜかハードモード

中岡 始
BL
ブラック企業の激務で過労死した40歳の社畜・藤堂悠真。 目を覚ますと、高校2年生の自分に転生していた。 しかも、鏡に映ったのは芸能人レベルの超絶イケメン。 転入初日から女子たちに囲まれ、学園中の話題の的に。 だが、社畜思考が抜けず**「これはマーケティング施策か?」**と疑うばかり。 そして、モテすぎて業務過多状態に陥る。 弁当争奪戦、放課後のデート攻勢…悠真の平穏は完全に崩壊。 そんな中、唯一冷静な男・藤崎颯斗の存在に救われる。 颯斗はやたらと落ち着いていて、悠真をさりげなくフォローする。 「お前といると、楽だ」 次第に悠真の中で、彼の存在が大きくなっていき――。 「お前、俺から逃げるな」 颯斗の言葉に、悠真の心は大きく揺れ動く。 転生×学園ラブコメ×じわじわ迫る恋。 これは、悠真が「本当に選ぶべきもの」を見つける物語。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

いつかコントローラーを投げ出して

せんぷう
BL
 オメガバース。世界で男女以外に、アルファ・ベータ・オメガと性別が枝分かれした世界で新たにもう一つの性が発見された。  世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。  バランサー。  アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。  これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。  裏社会のトップにして最強のアルファ攻め  ×  最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け ※オメガバース特殊設定、追加性別有り .

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

処理中です...