夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
109 / 219
第四章

此岸 3

しおりを挟む
 ――僕を喰べ尽くしてもいいよ、アルビー。

 コウ――。
 
 ――それくらいには、僕はきみを愛している。
 
 コウ――、僕を抱きしめてくれているんだね。




「コウ――」

 鳥のさえずりが煩い。よく聞こえない。
 コウの声が聞こえたのに。目が覚めたのだと思ったのに。

 僕の腕のなかにいるコウは、やはり眠ったままだ。
 僕はまた、吐息をついてキスを落とすより仕方ないのか。



 昨夜、僕は、なにをした――。

 真夏の日射しの下に、雪かと見紛う花群はなむらが広がる。カーテンを開けて外を見下ろした瞬間、自分自身に愕然とした。ここがどこだか、ようやく現実として認識できたらしい。どこか夢のなかにいるような気分だったのだ。今もまだ、夢の続きを見ているような。



 悪夢のように咲き誇る白薔薇アイスバーグ

 ――お前が死ねばよかったのに。

 アーノルドの声が叫んでいる。
 赤ん坊だった僕が覚えているはずがないのに。
 声は、いつからか僕に沁みついて、繰り返し、繰り返し、僕を脅しつけてくる。


 どうして僕はここにいるんだ。
 ここにさえ来なければ、こんな声、すぐに忘れてしまえるのに。
 もうここへは来ないと決めたはずだ。
 それなのにコウを連れて来るなんて――。
 二度とここへは来ないと決めたじゃないか。
 たとえスティーブを裏切ることになっても、僕は、かれを棄てるのだ、と。

 コウのために――。

 もう二度とコウを悲しませないために。コウを傷つけないために。

 アーノルドにはアビーがいる。妄想だろうとなんだろうと、彼は愛するアビーと共にいる。だから、もういいんだ。

 僕は存在しなくても。

 スティーブにそう話した。アーノルドをこちら側に呼び戻す方法を、コウが見つけてくれたときに。僕には彼からアビーを奪うことはできない、と。
 僕はスティーブの気持ちを知っていた。彼はアビーからアーノルドを取り返したいのだ。ただそれだけが彼の願いなのだ。彼は、死んでしまった彼女が彼の大切な親友の魂を道連れにしたことを、どうしたって認められないでいるのだ。
 どう考えたって、それは死よりも酷い仕打ちじゃないか。
 スティーブはずっと彼らの味方だったのに。アビーの味方だったのに。彼にはアビーの裏切りが許せない。

 だからスティーブはずっと探し続けていたんだ。アーノルドの心を呼び戻す方法を。アビーから彼を取り戻す方法を。

 アーノルドのように、魔術の儀式を――。

 そうして彼の見つけた魔術師が、アーノルドの主治医だったのだ。彼は、魔術ではなく医学を信奉していたからだ。スティーブは彼を信じてその助言に従った。僕をここへ連れてきたのだ。ただ、アーノルドの心に働きかけるためだけに。

 13歳の誕生日を目前にした夏の日だった。



「坊ちゃん、お食事はどうなさいますか?」
 僕はゆっくりと振り返った。スミス夫人がドアから顔を覗かせている。
「彼は?」
「まだお休みですよ。ご挨拶はお昼になさればよろしいですよ。坊ちゃんもまだお疲れでしょう? 旦那様にはお伝えしていますから、坊っちゃん、もう少し休まれてからでよろしいですよ」
「ありがとう」
「朝食、お持ちしましょうか?」
「いや、いいよ。下でいただく」

 ぼさぼさの髪をかきあげて、愛想笑いで応えていた。
 少し、冷静にならなければ。彼に逢う前に、シャワーを浴びて、身なりを整えて、それから――。

 部屋を出る前に、コウをもう一度抱きしめた。「すぐに戻ってくるから」と髪を撫でて。身体に問題がなくても、このままではコウは衰弱してしまう。スミス夫人に医者の往診が頼めるか尋ねなければ。それから、バニーにも。それから、それから――。




 一階のサンルームで朝食を摂った。広い窓から波が押し寄せるように咲いている白薔薇アイスバーグが見渡せる。まるでいばら姫の御伽噺に閉じこめられているみたいじゃないか。この花が、コウの眠りを守って咲いているように思えてやるせない。

 不思議なものだな、と思う。こんなときでも、僕は目玉焼きとベーコンののったトーストをカトラリーで切り分け、機械的にでも口に運んで咀嚼しているのだ。喉に通らない、などということはない。昨夜だってよく眠っていた。摂食や睡眠トラブルの症状がでたって不思議じゃないほど、心は重く落ち込んでいるのに――。

 きっと、アンナのおかげだ。食べることや、しっかり休むことを彼女が大切にしていたからだ。それに、コウも同じことを言っていた。食べることは生きる基本だって。アンナやコウが、僕に食事の大切さと楽しむことを教えてくれた。

 けれど、大学進学時にジャンセン家を出てからコウに逢うまで、僕はずっとそのことを忘れていた。食事も睡眠もどうでもよくて、いい加減で――。生活は乱れてむちゃくちゃだった。

 だけど今は――、たとえ一人で食べる味気ない食事であっても、ちゃんと食べなければ、と思う自分がいる。いつも僕を気づかい、心配してくれていたコウを裏切りたくないからだ。

 僕のなかにコウがいる。

 今もこうして、僕を支えてくれている。だから僕は生きていられる。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

成り行き番の溺愛生活

アオ
BL
タイトルそのままです 成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です 始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください オメガバースで独自の設定があるかもです 27歳×16歳のカップルです この小説の世界では法律上大丈夫です  オメガバの世界だからね それでもよければ読んでくださるとうれしいです

当たって砕けていたら彼氏ができました

ちとせあき
BL
毎月24日は覚悟の日だ。 学校で少し浮いてる三倉莉緒は王子様のような同級生、寺田紘に恋をしている。 教室で意図せず公開告白をしてしまって以来、欠かさずしている月に1度の告白だが、19回目の告白でやっと心が砕けた。 諦めようとする莉緒に突っかかってくるのはあれ程告白を拒否してきた紘で…。 寺田絋 自分と同じくらいモテる莉緒がムカついたのでちょっかいをかけたら好かれた残念男子 × 三倉莉緒 クールイケメン男子と思われているただの陰キャ そういうシーンはありませんが一応R15にしておきました。 お気に入り登録ありがとうございます。なんだか嬉しいので載せるか迷った紘視点を追加で投稿します。ただ紘は残念な子過ぎるので莉緒視点と印象が変わると思います。ご注意ください。 お気に入り登録100ありがとうございます。お付き合いに浮かれている二人の小話投稿しました。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

ゆい
BL
涙が落ちる。 涙は彼に届くことはない。 彼を想うことは、これでやめよう。 何をどうしても、彼の気持ちは僕に向くことはない。 僕は、その場から音を立てずに立ち去った。 僕はアシェル=オルスト。 侯爵家の嫡男として生まれ、10歳の時にエドガー=ハルミトンと婚約した。 彼には、他に愛する人がいた。 世界観は、【夜空と暁と】と同じです。 アルサス達がでます。 【夜空と暁と】を知らなくても、これだけで読めます。 随時更新です。

処理中です...