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第四章
此岸 3
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――僕を喰べ尽くしてもいいよ、アルビー。
コウ――。
――それくらいには、僕はきみを愛している。
コウ――、僕を抱きしめてくれているんだね。
「コウ――」
鳥の囀りが煩い。よく聞こえない。
コウの声が聞こえたのに。目が覚めたのだと思ったのに。
僕の腕のなかにいるコウは、やはり眠ったままだ。
僕はまた、吐息をついてキスを落とすより仕方ないのか。
昨夜、僕は、なにをした――。
真夏の日射しの下に、雪かと見紛う花群が広がる。カーテンを開けて外を見下ろした瞬間、自分自身に愕然とした。ここがどこだか、ようやく現実として認識できたらしい。どこか夢のなかにいるような気分だったのだ。今もまだ、夢の続きを見ているような。
悪夢のように咲き誇る白薔薇。
――お前が死ねばよかったのに。
彼の声が叫んでいる。
赤ん坊だった僕が覚えているはずがないのに。
声は、いつからか僕に沁みついて、繰り返し、繰り返し、僕を脅しつけてくる。
どうして僕はここにいるんだ。
ここにさえ来なければ、こんな声、すぐに忘れてしまえるのに。
もうここへは来ないと決めたはずだ。
それなのにコウを連れて来るなんて――。
二度とここへは来ないと決めたじゃないか。
たとえスティーブを裏切ることになっても、僕は、父を棄てるのだ、と。
コウのために――。
もう二度とコウを悲しませないために。コウを傷つけないために。
アーノルドにはアビーがいる。妄想だろうとなんだろうと、彼は愛するアビーと共にいる。だから、もういいんだ。
僕は存在しなくても。
スティーブにそう話した。彼をこちら側に呼び戻す方法を、コウが見つけてくれたときに。僕には彼からアビーを奪うことはできない、と。
僕はスティーブの気持ちを知っていた。彼はアビーからアーノルドを取り返したいのだ。ただそれだけが彼の願いなのだ。彼は、死んでしまった彼女が彼の大切な親友の魂を道連れにしたことを、どうしたって認められないでいるのだ。
どう考えたって、それは死よりも酷い仕打ちじゃないか。
スティーブはずっと彼らの味方だったのに。アビーの味方だったのに。彼にはアビーの裏切りが許せない。
だからスティーブはずっと探し続けていたんだ。アーノルドの心を呼び戻す方法を。アビーから彼を取り戻す方法を。
彼のように、魔術の儀式を――。
そうして彼の見つけた魔術師が、アーノルドの主治医だったのだ。彼は、魔術ではなく医学を信奉していたからだ。スティーブは彼を信じてその助言に従った。僕をここへ連れてきたのだ。ただ、彼の心に働きかけるためだけに。
13歳の誕生日を目前にした夏の日だった。
「坊ちゃん、お食事はどうなさいますか?」
僕はゆっくりと振り返った。スミス夫人がドアから顔を覗かせている。
「彼は?」
「まだお休みですよ。ご挨拶はお昼になさればよろしいですよ。坊ちゃんもまだお疲れでしょう? 旦那様にはお伝えしていますから、坊っちゃん、もう少し休まれてからでよろしいですよ」
「ありがとう」
「朝食、お持ちしましょうか?」
「いや、いいよ。下でいただく」
ぼさぼさの髪をかきあげて、愛想笑いで応えていた。
少し、冷静にならなければ。彼に逢う前に、シャワーを浴びて、身なりを整えて、それから――。
部屋を出る前に、コウをもう一度抱きしめた。「すぐに戻ってくるから」と髪を撫でて。身体に問題がなくても、このままではコウは衰弱してしまう。スミス夫人に医者の往診が頼めるか尋ねなければ。それから、バニーにも。それから、それから――。
一階のサンルームで朝食を摂った。広い窓から波が押し寄せるように咲いている白薔薇が見渡せる。まるでいばら姫の御伽噺に閉じこめられているみたいじゃないか。この花が、コウの眠りを守って咲いているように思えてやるせない。
不思議なものだな、と思う。こんなときでも、僕は目玉焼きとベーコンののったトーストをカトラリーで切り分け、機械的にでも口に運んで咀嚼しているのだ。喉に通らない、などということはない。昨夜だってよく眠っていた。摂食や睡眠トラブルの症状がでたって不思議じゃないほど、心は重く落ち込んでいるのに――。
きっと、アンナのおかげだ。食べることや、しっかり休むことを彼女が大切にしていたからだ。それに、コウも同じことを言っていた。食べることは生きる基本だって。アンナやコウが、僕に食事の大切さと楽しむことを教えてくれた。
けれど、大学進学時にジャンセン家を出てからコウに逢うまで、僕はずっとそのことを忘れていた。食事も睡眠もどうでもよくて、いい加減で――。生活は乱れてむちゃくちゃだった。
だけど今は――、たとえ一人で食べる味気ない食事であっても、ちゃんと食べなければ、と思う自分がいる。いつも僕を気づかい、心配してくれていたコウを裏切りたくないからだ。
僕のなかにコウがいる。
今もこうして、僕を支えてくれている。だから僕は生きていられる。
コウ――。
――それくらいには、僕はきみを愛している。
コウ――、僕を抱きしめてくれているんだね。
「コウ――」
鳥の囀りが煩い。よく聞こえない。
コウの声が聞こえたのに。目が覚めたのだと思ったのに。
僕の腕のなかにいるコウは、やはり眠ったままだ。
僕はまた、吐息をついてキスを落とすより仕方ないのか。
昨夜、僕は、なにをした――。
真夏の日射しの下に、雪かと見紛う花群が広がる。カーテンを開けて外を見下ろした瞬間、自分自身に愕然とした。ここがどこだか、ようやく現実として認識できたらしい。どこか夢のなかにいるような気分だったのだ。今もまだ、夢の続きを見ているような。
悪夢のように咲き誇る白薔薇。
――お前が死ねばよかったのに。
彼の声が叫んでいる。
赤ん坊だった僕が覚えているはずがないのに。
声は、いつからか僕に沁みついて、繰り返し、繰り返し、僕を脅しつけてくる。
どうして僕はここにいるんだ。
ここにさえ来なければ、こんな声、すぐに忘れてしまえるのに。
もうここへは来ないと決めたはずだ。
それなのにコウを連れて来るなんて――。
二度とここへは来ないと決めたじゃないか。
たとえスティーブを裏切ることになっても、僕は、父を棄てるのだ、と。
コウのために――。
もう二度とコウを悲しませないために。コウを傷つけないために。
アーノルドにはアビーがいる。妄想だろうとなんだろうと、彼は愛するアビーと共にいる。だから、もういいんだ。
僕は存在しなくても。
スティーブにそう話した。彼をこちら側に呼び戻す方法を、コウが見つけてくれたときに。僕には彼からアビーを奪うことはできない、と。
僕はスティーブの気持ちを知っていた。彼はアビーからアーノルドを取り返したいのだ。ただそれだけが彼の願いなのだ。彼は、死んでしまった彼女が彼の大切な親友の魂を道連れにしたことを、どうしたって認められないでいるのだ。
どう考えたって、それは死よりも酷い仕打ちじゃないか。
スティーブはずっと彼らの味方だったのに。アビーの味方だったのに。彼にはアビーの裏切りが許せない。
だからスティーブはずっと探し続けていたんだ。アーノルドの心を呼び戻す方法を。アビーから彼を取り戻す方法を。
彼のように、魔術の儀式を――。
そうして彼の見つけた魔術師が、アーノルドの主治医だったのだ。彼は、魔術ではなく医学を信奉していたからだ。スティーブは彼を信じてその助言に従った。僕をここへ連れてきたのだ。ただ、彼の心に働きかけるためだけに。
13歳の誕生日を目前にした夏の日だった。
「坊ちゃん、お食事はどうなさいますか?」
僕はゆっくりと振り返った。スミス夫人がドアから顔を覗かせている。
「彼は?」
「まだお休みですよ。ご挨拶はお昼になさればよろしいですよ。坊ちゃんもまだお疲れでしょう? 旦那様にはお伝えしていますから、坊っちゃん、もう少し休まれてからでよろしいですよ」
「ありがとう」
「朝食、お持ちしましょうか?」
「いや、いいよ。下でいただく」
ぼさぼさの髪をかきあげて、愛想笑いで応えていた。
少し、冷静にならなければ。彼に逢う前に、シャワーを浴びて、身なりを整えて、それから――。
部屋を出る前に、コウをもう一度抱きしめた。「すぐに戻ってくるから」と髪を撫でて。身体に問題がなくても、このままではコウは衰弱してしまう。スミス夫人に医者の往診が頼めるか尋ねなければ。それから、バニーにも。それから、それから――。
一階のサンルームで朝食を摂った。広い窓から波が押し寄せるように咲いている白薔薇が見渡せる。まるでいばら姫の御伽噺に閉じこめられているみたいじゃないか。この花が、コウの眠りを守って咲いているように思えてやるせない。
不思議なものだな、と思う。こんなときでも、僕は目玉焼きとベーコンののったトーストをカトラリーで切り分け、機械的にでも口に運んで咀嚼しているのだ。喉に通らない、などということはない。昨夜だってよく眠っていた。摂食や睡眠トラブルの症状がでたって不思議じゃないほど、心は重く落ち込んでいるのに――。
きっと、アンナのおかげだ。食べることや、しっかり休むことを彼女が大切にしていたからだ。それに、コウも同じことを言っていた。食べることは生きる基本だって。アンナやコウが、僕に食事の大切さと楽しむことを教えてくれた。
けれど、大学進学時にジャンセン家を出てからコウに逢うまで、僕はずっとそのことを忘れていた。食事も睡眠もどうでもよくて、いい加減で――。生活は乱れてむちゃくちゃだった。
だけど今は――、たとえ一人で食べる味気ない食事であっても、ちゃんと食べなければ、と思う自分がいる。いつも僕を気づかい、心配してくれていたコウを裏切りたくないからだ。
僕のなかにコウがいる。
今もこうして、僕を支えてくれている。だから僕は生きていられる。
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