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第四章
此岸
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遠くロンドンを離れ、車でひた走っていた。左右に流れる夜陰に呑み込まれた牧草地は、大地というよりもむしろ凪いだ黒い海のようだ。ヘッドライトの照らすのは、コウがかつて話してくれた水面に生じる此岸から彼岸に架かる一筋の白い道そのもので、その先の見えない幻想の中を、僕は衝動のままに突き進んでいた。
あの時のコウは、日没の陽光を全身に浴びて暖かく輝いていたのに。
今、助手席にぐったりともたれているコウは、意識があるのかさえ定かではない。半開きの虚ろな瞳はどんな感情をも映しはしないし、力なくだらりと置かれた腕は生気すら感じさせない。
それなのに僕はコウを、そんな彼を顧みることもできないほど――、怒っているのだ。彼に対してこれまで感じたことがないほどに。
ハムステッドでタクシーを捉まえ赤毛の家に乗り込んだときには、まさかこんな想いを抱えることになるなんて思ってもみなかった。自分がこんな行動をとることも。コウのことが信じられない以上に、僕は、自分というものが信じられない。
黒々とした闇を映す湖畔を離れ、いっそう暗い山のなかへと分けいって。ようやく高くそびえる壁にぐるりと囲まれた黒い鉄柵門が見えてきた。ちらりと確認した時刻は午前3時半だ。
門の前に大柄な人影があった。スミスさんだ。彼は車のヘッドライトに目を眇めながら僕の顔を確かめると、すぐに門を大きく開けてくれた。
「ありがとう。夜分にすみません、スミスさん」
「なあに、いいんですよ、坊ちゃん。それより、」
車を降りた僕に、しわがれた、けれど温かみのある声音で応えると、彼はさっそく心配そうな眼差しを助手席にいるコウに投げかけている。
「僕が運びますから、車をお願いします」
ドアを開け、ぐったりとしているコウを抱えあげる。入れ替わりにスミスさんが、運転席へと乗りこむ。
開け放たれた玄関の前で、スミス夫人も僕たちを待ってくれていた。
「さあさあ、お部屋をご用意しておきましたから」
声をひくめ、痛ましいものでも見るような同情的な一瞥をコウにくれると、彼女は先にたって案内してくれた。
長い間使われることのなかった客間は、しんとした空気に包まれている。だが、眠ったままだった部屋のもつかび臭さはない。連絡を入れたのはすでに夜半前だったのに、夫人は空気を入れ替え部屋を整えてくれたのだろう。
とりどりの野草の刺繍されたベッドカバーをはぐり、薄緑のシーツのうえにコウを横たえた。布団とカバーを丁寧に直すと、まるで野原に横たわる白雪姫のように思える。キスで目覚めさせることができるなら、どんなにいいか。
「坊ちゃん、お食事は? まだおすみじゃないんでしょう! ご心配なのは解りますけどね、こんなときこそちゃんと食べなきゃだめですよ!」
いつの間にか、スミス夫人がトレーを抱えて戻ってきていた。窓の横にある机に静かに皿を並べてくれている。
「ありがとう」
素直に彼女に感謝した。その率直な親切に。
振り向いた彼女はとうとつに腕を広げて、「ああ、坊ちゃん、大丈夫ですよ。大丈夫ですとも!」と、おおらかに僕を抱きしめた。彼女のふくよかな掌が、僕の背中をトントンとリズミカルに叩き、優しく擦ってくれている。
僕は、自分でも気づいていなかったのだ。まさか泣いているだなんて。涙がとめどなく溢れているのに、なぜ自分が泣いているのか判らない。彼女の存在に安心したのだろうか。一人ではない、ということに。
僕は間違えたのだ。何かを。だけど、何をどう間違えたのか、皆目解らない。
コウが、僕を裏切っていた。
コウは誤解だと言った。真っ蒼な顔をして言い訳を並べて。でも、どんな言葉も耳に入らなかった。彼を詰った。信じられなかった。こんな酷い裏切りを許せるはずがないじゃないか。
僕はその場で、彼を思いきるべきだったのだろうか。
一人になって、頭を冷やして、友人に電話して車を借りて――、居間に一人でいたコウの腕を掴んで、あの家を出た。
ガマガエルたちが大慌てでひきとめていた。あの不快な甲高い声が耳について離れない。何度も何度も僕のなかで木霊している。
――いけません、アルバート様!
――いけませんとも、アルバート様
――コウ様は、まだここから出られてはいけませんとも!
――まだまだ、いけませんとも!
――コウ様は、重く、重く、なってしまわれますとも!
――おやめになってくださいませ、アルバート様!
何がいけないのか判らなかった。コウは何も言わなかったのだ。あのトパーズの瞳を大きく見開いたまま、僕を怖れて震えるだけで。そんなコウの態度が、ますます僕を苛立たせた。
赤毛にだけは渡さない。絶対に許さない。
そんな想いに駆り立てられて、コウを引きずるようにしてあそこを出た。
そして、あの建物を一歩出るなり――、コウはくずおれたのだ。昏倒して。それなのに僕は彼を病院に連れていくこともせず、ここまで逃げてきたのだ。赤毛から、少しでも遠く離れたくて。
赤毛と親しくしていたエリックの別荘になぞ、行く気になれなかった。すぐに赤毛は連れ戻しにくるに違いない。どこでもいい。どこか遠くへ行きたかった。コウが逃げだせないところへ。
考えるまでもなく、北へ向かっていた。休むことなく車を走らせた。途中でスミスさんに電話を入れて。
けれどまさか、いまだにコウが目覚めないなんて。
赤毛はコウに何をしたんだ?
おそらく何かの暗示、催眠術か。それしか考えられない。それで辻褄が合う。コウのあの不安定さ。自分の意志とは裏腹の、赤毛に逆らえない歯がゆさ。そして何よりも、自分でも把握できていない漠然とした内的恐怖。コウはあのペテン師に騙されているんだ。
僕を愛しているのに。
その想いがコウを引き裂く。分裂させる。それは赤毛に施された洗脳に逆らうことだから。
ああ、僕はまだ信じている。やはり信じているのだ。
コウは、僕を愛してくれていると。
あの時のコウは、日没の陽光を全身に浴びて暖かく輝いていたのに。
今、助手席にぐったりともたれているコウは、意識があるのかさえ定かではない。半開きの虚ろな瞳はどんな感情をも映しはしないし、力なくだらりと置かれた腕は生気すら感じさせない。
それなのに僕はコウを、そんな彼を顧みることもできないほど――、怒っているのだ。彼に対してこれまで感じたことがないほどに。
ハムステッドでタクシーを捉まえ赤毛の家に乗り込んだときには、まさかこんな想いを抱えることになるなんて思ってもみなかった。自分がこんな行動をとることも。コウのことが信じられない以上に、僕は、自分というものが信じられない。
黒々とした闇を映す湖畔を離れ、いっそう暗い山のなかへと分けいって。ようやく高くそびえる壁にぐるりと囲まれた黒い鉄柵門が見えてきた。ちらりと確認した時刻は午前3時半だ。
門の前に大柄な人影があった。スミスさんだ。彼は車のヘッドライトに目を眇めながら僕の顔を確かめると、すぐに門を大きく開けてくれた。
「ありがとう。夜分にすみません、スミスさん」
「なあに、いいんですよ、坊ちゃん。それより、」
車を降りた僕に、しわがれた、けれど温かみのある声音で応えると、彼はさっそく心配そうな眼差しを助手席にいるコウに投げかけている。
「僕が運びますから、車をお願いします」
ドアを開け、ぐったりとしているコウを抱えあげる。入れ替わりにスミスさんが、運転席へと乗りこむ。
開け放たれた玄関の前で、スミス夫人も僕たちを待ってくれていた。
「さあさあ、お部屋をご用意しておきましたから」
声をひくめ、痛ましいものでも見るような同情的な一瞥をコウにくれると、彼女は先にたって案内してくれた。
長い間使われることのなかった客間は、しんとした空気に包まれている。だが、眠ったままだった部屋のもつかび臭さはない。連絡を入れたのはすでに夜半前だったのに、夫人は空気を入れ替え部屋を整えてくれたのだろう。
とりどりの野草の刺繍されたベッドカバーをはぐり、薄緑のシーツのうえにコウを横たえた。布団とカバーを丁寧に直すと、まるで野原に横たわる白雪姫のように思える。キスで目覚めさせることができるなら、どんなにいいか。
「坊ちゃん、お食事は? まだおすみじゃないんでしょう! ご心配なのは解りますけどね、こんなときこそちゃんと食べなきゃだめですよ!」
いつの間にか、スミス夫人がトレーを抱えて戻ってきていた。窓の横にある机に静かに皿を並べてくれている。
「ありがとう」
素直に彼女に感謝した。その率直な親切に。
振り向いた彼女はとうとつに腕を広げて、「ああ、坊ちゃん、大丈夫ですよ。大丈夫ですとも!」と、おおらかに僕を抱きしめた。彼女のふくよかな掌が、僕の背中をトントンとリズミカルに叩き、優しく擦ってくれている。
僕は、自分でも気づいていなかったのだ。まさか泣いているだなんて。涙がとめどなく溢れているのに、なぜ自分が泣いているのか判らない。彼女の存在に安心したのだろうか。一人ではない、ということに。
僕は間違えたのだ。何かを。だけど、何をどう間違えたのか、皆目解らない。
コウが、僕を裏切っていた。
コウは誤解だと言った。真っ蒼な顔をして言い訳を並べて。でも、どんな言葉も耳に入らなかった。彼を詰った。信じられなかった。こんな酷い裏切りを許せるはずがないじゃないか。
僕はその場で、彼を思いきるべきだったのだろうか。
一人になって、頭を冷やして、友人に電話して車を借りて――、居間に一人でいたコウの腕を掴んで、あの家を出た。
ガマガエルたちが大慌てでひきとめていた。あの不快な甲高い声が耳について離れない。何度も何度も僕のなかで木霊している。
――いけません、アルバート様!
――いけませんとも、アルバート様
――コウ様は、まだここから出られてはいけませんとも!
――まだまだ、いけませんとも!
――コウ様は、重く、重く、なってしまわれますとも!
――おやめになってくださいませ、アルバート様!
何がいけないのか判らなかった。コウは何も言わなかったのだ。あのトパーズの瞳を大きく見開いたまま、僕を怖れて震えるだけで。そんなコウの態度が、ますます僕を苛立たせた。
赤毛にだけは渡さない。絶対に許さない。
そんな想いに駆り立てられて、コウを引きずるようにしてあそこを出た。
そして、あの建物を一歩出るなり――、コウはくずおれたのだ。昏倒して。それなのに僕は彼を病院に連れていくこともせず、ここまで逃げてきたのだ。赤毛から、少しでも遠く離れたくて。
赤毛と親しくしていたエリックの別荘になぞ、行く気になれなかった。すぐに赤毛は連れ戻しにくるに違いない。どこでもいい。どこか遠くへ行きたかった。コウが逃げだせないところへ。
考えるまでもなく、北へ向かっていた。休むことなく車を走らせた。途中でスミスさんに電話を入れて。
けれどまさか、いまだにコウが目覚めないなんて。
赤毛はコウに何をしたんだ?
おそらく何かの暗示、催眠術か。それしか考えられない。それで辻褄が合う。コウのあの不安定さ。自分の意志とは裏腹の、赤毛に逆らえない歯がゆさ。そして何よりも、自分でも把握できていない漠然とした内的恐怖。コウはあのペテン師に騙されているんだ。
僕を愛しているのに。
その想いがコウを引き裂く。分裂させる。それは赤毛に施された洗脳に逆らうことだから。
ああ、僕はまだ信じている。やはり信じているのだ。
コウは、僕を愛してくれていると。
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