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第三章
迷路 7.
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コーヒーの香りがする。
ベランダに面した窓のカーテンが半分だけ開けられている。差しこむ日差しのなかで、ティーテーブルにいるコウは、朝食を前にしてぼんやりとしている。
「おはよう」
僕の声にコウはゆっくりと顔をあげ、それから、「おはよう」と微笑んでくれた。いつものように――。
コウの向かいに座る。僕の皿も用意されている。コウは僕が起きるのを待っていてくれたらしい。まだ温かい料理が、そんなに待たせたわけじゃないよと湯気をたてていて、幾分ほっとする。もうとくになにも考えずに食べた。コウと一緒なら、これを作ったのが誰かなんてこと、どうだっていい。
「アル、ドラコはもうじき戻ってくるはずだから、ちゃんと話をするよ。そうしたら出発しようか」
穏やかな声音でコウが言う。
「どこに行くんだっけ?」
「ワイト島だよ。知人の別荘を借りたんだ」
「そう。楽しみだね。ワイト島って、リゾート地だよね。そういうところ、行ったことがないんだ。人がたくさんいるのかな?」
「そうだね、でもロンドンほどじゃないと思うよ」
ふふっとコウが笑う。夏のロンドンの観光客の多さには辟易する、前にそう言っていたものね。
「のんびりできると思う」
「うん」
僕たちは、そんなたわいのない話をしていたんだ。ごく普通の朝食を食べながら。
それからコウは、あのガマガエル兄弟、じゃなくて、ブラウン兄弟と話があるからここで待っていて、と言って部屋を出ていった。僕は暇を持てあまして携帯をいじっていた。
コウは、なかなか戻ってこなかった。無意味な時間が僕を不安にさせる。
コウは本当にここにいるのだろうか。
また僕から逃げだして、どこかへ行ってしまったんじゃないだろうか。
あり得ない妄想ばかりが浮かんでくる。たった今、一緒にここを出る約束をしたばかりじゃないか。
何もすることがないのが問題なんだ。考えなくていいことを考えてしまう。
気分を変えるためにテラスへ出た。雲ひとつない蒼空だ。だけど風がきつい。居間に面した方と違って、こちら側のテラスはたいして広くない。いく部屋か分つながっているだけで、すぐに行きどまり。景色を見ていても、べつに面白いわけでもない。引き返そうと踵を返したとき、ふと、部屋につづくフランス窓が開いているのに気がついた。閉めきられたカーテンが、風になびいていたのだ。
そのカーテンが、僕の気を引いた。ブリックピンクのカーテン。あんなものがかかった部屋があっただろうか? 僕は全部屋を見て回ったはずなのに。見落としていたのだろうか。それとも、廊下側からは入れないのかもしれない。ここに来たとき、コウを見つけられなかったのはそういう理由か、と思ったのだ。
なんの気なしにその部屋に入った。揺れるカーテンに誘われて――。
既視感に鳥肌がたった。
厚手の生地のドレープをたっぷりとったブリックピンクのカーテンのこちら側は、薄暗い室内の、サーモンピンクを基調にした小花模様の壁紙。薄緑の蔦模様の絨毯。白大理石の嵌めこまれた暖炉の上には金の置時計。そんなところまでが同じだった、あの家と――。
中央のティーテーブルで、「どうぞ、どうぞ、アルバート様」とガマガエルが椅子を引いて僕を待っていた。
「これはいったいなんの冗談だ?」
不快感から、とげとげしい気持ちそのままの声がでていた。それにこの男、今はコウと話しているんじゃなかったのか?
「コウ様はお話し中でございますとも! さぁ、アルバート様、どうぞおかけになってください!」
僕は声に出して言っただろうか? どうでもいいか。どうせすることもないのだし、と仕方なしに腰をおろした。それよりもとにかく尋ねたかったのだと思う。どうしてこんな部屋を設えているのか、ということを。
この内装は、彼の館の、彼女のティールームそのままなのだ。時代がかった色褪せ方までもが。冗談にしては悪質すぎる。
尋ねたいのに、あまりの不快さから言葉がでてこない。気持ちを落ち着けようと、勧められるままにグラスワインをひと息に煽っていた。
喉が焼ける。焔を飲みこんだみたいな、赤――。くらりと頭が傾いでいた。
見下ろしたさきに、ティーテーブルに肘をついて組んだ両手に額をつけた彼がいた。ときどき小刻みに頭を振っている。横で彼の肩を抱き、熱心に話しているのは――、スティーブか。説得しているのだ。彼女の意志を尊重するように、と。子どもを産むからといって、彼女が助からなくなるわけじゃないって。
そうじゃない。彼は正しかったのだ。
彼女のこの決意が、治療を遅らせ命を奪った。僕を諦めさえすれば、彼女はきっと死なずにすんだのに。彼の言う通りに、眼前の彼女をこそ尊重すべきだったのだ。
僕なんて、生まれてこなくてよかったのに。
ここで間違えさえしなければ、彼も、彼女も幸せな暮らしが続いてめでたしめでたし。御伽噺のようなハッピーエンドで終われたに違いないのだ。
人生の選択にやり直しはきかない。
魔術で事実を変えることなどできはしない。
彼は彼女を失ってしまったのだ。
永遠に――。
だから、間違えてはいけない。
僕は、棄てられてしかるべき存在だ。
この事実もまた、変えることのできない真実なのだから。
ほら、彼は決して納得しない。涙を流してスティーブにくってかかっている。彼は彼女を失うかもしれない、ほんのわずかな可能性にだって耐えられはしないのだ。
興奮した彼の拳がテーブルをドンと強く叩く。そこに置かれたグラスを薙ぎ払う。なかに入っていた金色の液体が飛沫となって、カシャンと砕けたガラスと交じりあいながら辺りに飛び散る。
耳の横で、真鍮のシャンデリアのガラス飾りが、シャラリと音をたてて揺れた。
ベランダに面した窓のカーテンが半分だけ開けられている。差しこむ日差しのなかで、ティーテーブルにいるコウは、朝食を前にしてぼんやりとしている。
「おはよう」
僕の声にコウはゆっくりと顔をあげ、それから、「おはよう」と微笑んでくれた。いつものように――。
コウの向かいに座る。僕の皿も用意されている。コウは僕が起きるのを待っていてくれたらしい。まだ温かい料理が、そんなに待たせたわけじゃないよと湯気をたてていて、幾分ほっとする。もうとくになにも考えずに食べた。コウと一緒なら、これを作ったのが誰かなんてこと、どうだっていい。
「アル、ドラコはもうじき戻ってくるはずだから、ちゃんと話をするよ。そうしたら出発しようか」
穏やかな声音でコウが言う。
「どこに行くんだっけ?」
「ワイト島だよ。知人の別荘を借りたんだ」
「そう。楽しみだね。ワイト島って、リゾート地だよね。そういうところ、行ったことがないんだ。人がたくさんいるのかな?」
「そうだね、でもロンドンほどじゃないと思うよ」
ふふっとコウが笑う。夏のロンドンの観光客の多さには辟易する、前にそう言っていたものね。
「のんびりできると思う」
「うん」
僕たちは、そんなたわいのない話をしていたんだ。ごく普通の朝食を食べながら。
それからコウは、あのガマガエル兄弟、じゃなくて、ブラウン兄弟と話があるからここで待っていて、と言って部屋を出ていった。僕は暇を持てあまして携帯をいじっていた。
コウは、なかなか戻ってこなかった。無意味な時間が僕を不安にさせる。
コウは本当にここにいるのだろうか。
また僕から逃げだして、どこかへ行ってしまったんじゃないだろうか。
あり得ない妄想ばかりが浮かんでくる。たった今、一緒にここを出る約束をしたばかりじゃないか。
何もすることがないのが問題なんだ。考えなくていいことを考えてしまう。
気分を変えるためにテラスへ出た。雲ひとつない蒼空だ。だけど風がきつい。居間に面した方と違って、こちら側のテラスはたいして広くない。いく部屋か分つながっているだけで、すぐに行きどまり。景色を見ていても、べつに面白いわけでもない。引き返そうと踵を返したとき、ふと、部屋につづくフランス窓が開いているのに気がついた。閉めきられたカーテンが、風になびいていたのだ。
そのカーテンが、僕の気を引いた。ブリックピンクのカーテン。あんなものがかかった部屋があっただろうか? 僕は全部屋を見て回ったはずなのに。見落としていたのだろうか。それとも、廊下側からは入れないのかもしれない。ここに来たとき、コウを見つけられなかったのはそういう理由か、と思ったのだ。
なんの気なしにその部屋に入った。揺れるカーテンに誘われて――。
既視感に鳥肌がたった。
厚手の生地のドレープをたっぷりとったブリックピンクのカーテンのこちら側は、薄暗い室内の、サーモンピンクを基調にした小花模様の壁紙。薄緑の蔦模様の絨毯。白大理石の嵌めこまれた暖炉の上には金の置時計。そんなところまでが同じだった、あの家と――。
中央のティーテーブルで、「どうぞ、どうぞ、アルバート様」とガマガエルが椅子を引いて僕を待っていた。
「これはいったいなんの冗談だ?」
不快感から、とげとげしい気持ちそのままの声がでていた。それにこの男、今はコウと話しているんじゃなかったのか?
「コウ様はお話し中でございますとも! さぁ、アルバート様、どうぞおかけになってください!」
僕は声に出して言っただろうか? どうでもいいか。どうせすることもないのだし、と仕方なしに腰をおろした。それよりもとにかく尋ねたかったのだと思う。どうしてこんな部屋を設えているのか、ということを。
この内装は、彼の館の、彼女のティールームそのままなのだ。時代がかった色褪せ方までもが。冗談にしては悪質すぎる。
尋ねたいのに、あまりの不快さから言葉がでてこない。気持ちを落ち着けようと、勧められるままにグラスワインをひと息に煽っていた。
喉が焼ける。焔を飲みこんだみたいな、赤――。くらりと頭が傾いでいた。
見下ろしたさきに、ティーテーブルに肘をついて組んだ両手に額をつけた彼がいた。ときどき小刻みに頭を振っている。横で彼の肩を抱き、熱心に話しているのは――、スティーブか。説得しているのだ。彼女の意志を尊重するように、と。子どもを産むからといって、彼女が助からなくなるわけじゃないって。
そうじゃない。彼は正しかったのだ。
彼女のこの決意が、治療を遅らせ命を奪った。僕を諦めさえすれば、彼女はきっと死なずにすんだのに。彼の言う通りに、眼前の彼女をこそ尊重すべきだったのだ。
僕なんて、生まれてこなくてよかったのに。
ここで間違えさえしなければ、彼も、彼女も幸せな暮らしが続いてめでたしめでたし。御伽噺のようなハッピーエンドで終われたに違いないのだ。
人生の選択にやり直しはきかない。
魔術で事実を変えることなどできはしない。
彼は彼女を失ってしまったのだ。
永遠に――。
だから、間違えてはいけない。
僕は、棄てられてしかるべき存在だ。
この事実もまた、変えることのできない真実なのだから。
ほら、彼は決して納得しない。涙を流してスティーブにくってかかっている。彼は彼女を失うかもしれない、ほんのわずかな可能性にだって耐えられはしないのだ。
興奮した彼の拳がテーブルをドンと強く叩く。そこに置かれたグラスを薙ぎ払う。なかに入っていた金色の液体が飛沫となって、カシャンと砕けたガラスと交じりあいながら辺りに飛び散る。
耳の横で、真鍮のシャンデリアのガラス飾りが、シャラリと音をたてて揺れた。
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