夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

エリック 8

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 椅子の上に置いたトレイには、手がつけられていなかった。サイドチェストに置いた水も、エルダーフラワー水も――。僕の残したメモがはらりと床の上に落ちていることだけが、でかける前と違っていた。

 ベッドから離れたのは、コウの意志じゃない。彼は喉が渇いた、と僕に水を頼んだのだから。赤毛だ。赤毛がコウを連れ去ったのに違いない。着替えもせずに、コウがふらふら出かけるはずがないのだから――。
 この展開を予想しなかった自分が信じられない。充分想定できたはずだ。奴は、コウに熱があろうが寝込んでいようがおかまいなしなのだから。いつだって自分の都合しか考えない。解っていたじゃないか。


 
 ドアを開け、空っぽのベッドを目にしたとき、自分のあまりの愚かしさに思わず壁を殴りつけていた。コウをむざむざ奪われたこのベッドを切り刻んで、そこら中に白い羽毛をまき散らしてやりたくなった。

 もちろん、そんなことはしないさ。すぐにコウを取り戻して、ここに安静に休ませなければならないのだから――。行き先は解っている。ハイドパーク前の赤毛のアパートメントだ。コウの腕に僕の時計をはめたままで、本当によかった。

 スマートフォンでコウの居場所を確認し、ほっと息を継ぐとともに思案にくれる。
 コウを取り戻して、それから――。ここに戻ってくるのでは、また元の木阿弥なのではないか。コウの体調はたしかに旅行できるようなものじゃないけれど、移動さえぶじにすめば、赤毛に脅かされる不安にさいなまれながらここにいるよりは、よほどマシなのは間違いない。

 そう考えて、コウを追いかけるよりも、まず先に旅行準備をすることにした。スーツケースに僕とコウの衣類を適当に丸めてつっこんでいく。

 ふと手が止まる。
 このまま出発して、本当にいいものか――。

 ざわざわと心が波立って落ち着かない。ピリピリ尖った意識の先端から灰色の砂嵐に侵食されて、徐々に視界を狭められていっているような、そんな不安を感じていた。

 だが、こんな漠然とした何かに囚われていると、時間は無為に過ぎていくばかりだ。呑みこまれそうになる意識を奮い立たせ、すべきことに集中しなければ――。
 そして時おりスマートフォンに目を走らせ、コウの位置情報に変化はないかと確認していると、画面が震え、エリックの名前が表示された。同時に腕の時計スマートウォッチも振動する。


『アル、きみはいったい何をしてるんだ?』

 第一声から癇に障る、間延びした楽しげな口調だ。彼は僕を苛立たせたいのか。

「コウは? そこにいるんだろ? 出してくれ」
『いるには、いるけどねぇ――。こんな状態の坊やを放っぽって、デートだなんて、あまりにきみらしくてねぇ、笑わせてもらったよ。――赤毛ジンジャーはずいぶんきみにお冠だよ、アル。それでね、僕はきみを心配して、こうして』

 余計なお世話だ。
 思わず電話を切りそうになった。その衝動を必死で押し留めて、鼓膜に神経を集中する。

「コウはどうしてる? また何か危険なことをさせてるんじゃないだろうね?」

 僕の問いにスマートフォンから返ってきたのは、なんだろう――。風の音? エリックはテラスにでもいるのだろうか?

『ああ、坊やは相変わらず寝ている――。いや、起きてるか――。どっちにしろ、――は向こう側だな』

 ザラザラした雑音が混じって、酷く聞きづらい。砂嵐のような音が――。

『早く来いよ、アル。陽が落ちるまでにさ。夕暮れ時が一番見ものなんだ』

 す、と背後の音が消え、エリックの声がいきなりクリアに耳に届いた。まるで、心に直接命令されたかのように。


 なおも喋っている彼にはこれ以上かまわず、僕は家をかけ出ていた。詰めかけのスーツケースすら置いたまま――。

 夕暮れ時。この言葉に触発されて不意にコウとの会話が脳裏に蘇ったのだ。僕の知る確かなコウの精神的外傷トラウマ。赤毛と執り行ったという魔術の儀式のことが――。
 ハムステッドヒースでの火を使う儀式で、彼らはケルトの女王ブーディカの塚を焼くほどの火事を起こしかけた。おそらくそれ以降のことなのだろう。こんな晴れ渡る日の鮮やかな夕陽は、コウを不安定にする。まるで夕陽が空を赤く焼くことが、自分の責任ででもあるように、彼は――。

 それにあの部屋の天井。魔法陣。コウの神経を狂わせ、痛めつけているのは儀式の失敗の記憶、そしてその再現だ。赤毛はかつてコウと取り組んでしくじった儀式を、また執り行おうとしているのか。コウの心に、あれほどの傷を負わせておきながら――。

 一面赤に染まるブーティカの塚を仰ぎ見ながら、震えてくずおれていたコウの姿が鮮やかに浮かんでいた。僕の差しのべた手に、飛びつくようにしがみついてきたのだ。そして、心の準備もできていないまま、僕に身を任せた。

 僕はそんな彼の心の揺らぎに気づかずに――、いや、気づいていてつけ込んだのだ。彼を、赤毛から奪いとるために。僕自身の欲動を満たすために。



 ハイストリートまで出て、タクシーを拾った。

「ナイツブリッジ」
 
 行き先を告げて、車窓から西の空を確認する。

 夕暮れにはまだ間にあう。時間はあるのだ。今度こそ、赤毛がコウにやらせようとしている儀式を未然に防いで、コウの心を守らなければ――。



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