83 / 219
第三章
エリック
しおりを挟む
コウのいる部屋とほとんど同じ白の空間のベッドの上に、エリックはあぐらをかいて座っていた。まるで、部屋中に糸を張り巡らせ息をひそめて獲物を待っている蜘蛛のようだと思った。簡単に踏みつぶせてしまえるほど小さくてとても弱い生き物のくせに、粘着性の細い糸で僕を絡み取れると思っている。
カチャッ、とドアの開く音は聞こえているはずなのに、彼は僕に顔を向けることなくゆっくりと小首を傾げただけだった。僕は彼の傍に近寄るのは止めにして、すぐにこの場から出ていけるように後ろ手に閉めたドアに背中を預ける。
「アル、今日の夕陽は、ロンドンに火を放ったみたいだった」
唐突な言葉。エリックは思いだしたように恍惚とした表情をみせ、薄く微笑んだ。
つい釣られて彼の正面の窓に目をやった。外はすでに闇に沈んでいると解っているのに。僕がテラスでコウを見つけたころ、彼は室内に戻って西側にあるこの部屋で夕陽を見ていたとでも言いたいのだろうか。あの場所で僕たちの様子を伺っていたのではなく――。
「坊やが赤毛を怒らせた日には、太陽が呼応するように膨張して輝きを増すんだ。湿気を蒸発させ、雲を薙ぎ払い、湿った僕までカラカラに乾かしてくれる。いささか、乾きすぎたくらいだな」
喉を鳴らして笑いながら、エリックはベッドを下りて僕に歩み寄る。
「そうなると、今度は湿り気のあるきみが恋しくなるんだよ」
なんの衒いもなく、僕の首に腕を回して抱きしめる。当たり前にキスしてくる。僕が拒むなど、はなから認める気はなさそうだ。
「エリック」
彼を宥めるために軽くハグして、努めて優しく呼びかけた。
「僕はここへきみの話を聴きにきたんだ。さぁ」
上質なスーツの上から手のひらを滑らせる。思った通り、彼はギシギシに強張っている。打算と思惑から赤毛に取り入っているにしろ、彼の内側はそんな彼自身に納得しているわけではないのだ。
僕の気を引くことと、怒らせることは常に紙一重。それくらいのことは、重々承知しているのだから。
散々駄々を捏ねて、やっとバニーの面接に同意したと思ったらこれだもの。
そんなに僕に手を放されるのが怖いの、エリック?
彼の唇に応えてやりながら、考えていた。無意味なキス。深く貪れば貪るほど、冷めていく身体。貪欲なエリックは、僕の何を食べているのか――。
孤独なエリック。僕を求めているつもりでも、彼の世界にいるのは僕の形をした妄想でしかない。僕は、彼がバリバリと僕の影を貪り喰らうのを冷めた想いで眺めるだけ。
それでも、そんな彼を憐れんでいたのに――。せめてその際限なく満腹することのない妄想世界につきあってあげよう、くらいには思っていたのに。
愚かな彼は嫌いだ。
たかだか僕の気を引くために、コウを利用した。赤毛に関わった。わざと僕を怒らせた。
僕はきみの母親じゃない。僕の憐憫には限度があり、それはとっくに底をついてしまっているんだ。
「エリック、さぁ、話して」
きみはここで何を見たんだ?
彼の唇が、手のひらが、僕の形を確かめる。僕の内側に彼の妄想を注ぎ込む。
エリックが満足して果てるまで、平坦な白い天井を眺めていた。ここのインテリアコーディネーターには創造性がない。同じ白でもバニーの部屋には温かみがあるのに。この部屋はただの入れ物だ。だから売れなかったんじゃないのか。ばか高いだけでなく――。
綺麗な星の見える所に行きたいな。
無機質な天井の向こう側を思い描いたところで、このロンドンで満天の星空なんて望めないもの。コウと一緒にのんびりできるところに行こう。田舎に行って何もかも忘れて寛いでいれば、コウもきっと回復する。
「アル――」
「ん?」
「僕はきみのなんなんだ?」
「友人で、クライアント」
そして、具象化されたきみの妄想。
きみが誰よりも愛し怖れているきみの母親のように、愛を振りかざしてきみを支配したりしない安全な環境。きみは赤ん坊が母親の乳房にむさぶりつくように貪欲に僕を貪っても、僕なら許してもらえると思っている。
でも本当はそんなことじゃない。きみにとって僕が特別なのは、きみを気に掛けないからだ。きみの母親や父親が、きみを支配しても、気に掛けることはなかったのと同じ――。
決して愛を返すことのない僕だから、きみは安心を見出すんだ。
「エリック、」
僕の受容は初めから治療の一環にすぎない。そして、それはもう終わったんだ。これからはバニーがきみの環境。
「コウに話したの?」
「何を?」
「今、きみが僕にしているようなことだよ」
「彼は知ってたよ」
可哀想に――。
推察と、当事者の口から聞かされる事実ではまるで違う。コウは傷ついただろう。
「でも、そうだな、そのせいもあるのかな。確かに彼は不安定で――。だから墜ちたんだ」
「墜ちた?」
「そう、空から」
ひゅ――、とエリックは僕の耳に、細く長い息を吐きかけた。そのまま肩を掴んで、僕の身体を反転させる。
「あの銀髪の子がすんでのところで捉まえて、坊やの可愛い顔が地面に叩きつけられずに済んだんだ」
どんな顔をしてそんな絵空事を言っているのかと振り返ろうとした僕の頭を、エリックはドアに押しつけた。
「声をあげろよ、アル。隣に聴こえるくらいにさ」
「アルコールは止めて、クスリに変えたってことかい?」
「ここじゃ、そんなものは要らない。なんでも在りだからな。そうだな、後はきみさえいれば完璧だよ」
さすがにこの言い分は想定外だ。彼の薬物検査をするようにバニーに伝えなければ。
「放せよ、エリック。まさかそんな戯言で僕が納得するなんて思っているわけじゃないだろうね」
彼の手首を掴んで退け、今一度彼に向き合った。
「このままこの馬鹿話が続くのならここで終わりだよ、エリック。さぁ、話すんだ、きみが知っていることを全部」
カチャッ、とドアの開く音は聞こえているはずなのに、彼は僕に顔を向けることなくゆっくりと小首を傾げただけだった。僕は彼の傍に近寄るのは止めにして、すぐにこの場から出ていけるように後ろ手に閉めたドアに背中を預ける。
「アル、今日の夕陽は、ロンドンに火を放ったみたいだった」
唐突な言葉。エリックは思いだしたように恍惚とした表情をみせ、薄く微笑んだ。
つい釣られて彼の正面の窓に目をやった。外はすでに闇に沈んでいると解っているのに。僕がテラスでコウを見つけたころ、彼は室内に戻って西側にあるこの部屋で夕陽を見ていたとでも言いたいのだろうか。あの場所で僕たちの様子を伺っていたのではなく――。
「坊やが赤毛を怒らせた日には、太陽が呼応するように膨張して輝きを増すんだ。湿気を蒸発させ、雲を薙ぎ払い、湿った僕までカラカラに乾かしてくれる。いささか、乾きすぎたくらいだな」
喉を鳴らして笑いながら、エリックはベッドを下りて僕に歩み寄る。
「そうなると、今度は湿り気のあるきみが恋しくなるんだよ」
なんの衒いもなく、僕の首に腕を回して抱きしめる。当たり前にキスしてくる。僕が拒むなど、はなから認める気はなさそうだ。
「エリック」
彼を宥めるために軽くハグして、努めて優しく呼びかけた。
「僕はここへきみの話を聴きにきたんだ。さぁ」
上質なスーツの上から手のひらを滑らせる。思った通り、彼はギシギシに強張っている。打算と思惑から赤毛に取り入っているにしろ、彼の内側はそんな彼自身に納得しているわけではないのだ。
僕の気を引くことと、怒らせることは常に紙一重。それくらいのことは、重々承知しているのだから。
散々駄々を捏ねて、やっとバニーの面接に同意したと思ったらこれだもの。
そんなに僕に手を放されるのが怖いの、エリック?
彼の唇に応えてやりながら、考えていた。無意味なキス。深く貪れば貪るほど、冷めていく身体。貪欲なエリックは、僕の何を食べているのか――。
孤独なエリック。僕を求めているつもりでも、彼の世界にいるのは僕の形をした妄想でしかない。僕は、彼がバリバリと僕の影を貪り喰らうのを冷めた想いで眺めるだけ。
それでも、そんな彼を憐れんでいたのに――。せめてその際限なく満腹することのない妄想世界につきあってあげよう、くらいには思っていたのに。
愚かな彼は嫌いだ。
たかだか僕の気を引くために、コウを利用した。赤毛に関わった。わざと僕を怒らせた。
僕はきみの母親じゃない。僕の憐憫には限度があり、それはとっくに底をついてしまっているんだ。
「エリック、さぁ、話して」
きみはここで何を見たんだ?
彼の唇が、手のひらが、僕の形を確かめる。僕の内側に彼の妄想を注ぎ込む。
エリックが満足して果てるまで、平坦な白い天井を眺めていた。ここのインテリアコーディネーターには創造性がない。同じ白でもバニーの部屋には温かみがあるのに。この部屋はただの入れ物だ。だから売れなかったんじゃないのか。ばか高いだけでなく――。
綺麗な星の見える所に行きたいな。
無機質な天井の向こう側を思い描いたところで、このロンドンで満天の星空なんて望めないもの。コウと一緒にのんびりできるところに行こう。田舎に行って何もかも忘れて寛いでいれば、コウもきっと回復する。
「アル――」
「ん?」
「僕はきみのなんなんだ?」
「友人で、クライアント」
そして、具象化されたきみの妄想。
きみが誰よりも愛し怖れているきみの母親のように、愛を振りかざしてきみを支配したりしない安全な環境。きみは赤ん坊が母親の乳房にむさぶりつくように貪欲に僕を貪っても、僕なら許してもらえると思っている。
でも本当はそんなことじゃない。きみにとって僕が特別なのは、きみを気に掛けないからだ。きみの母親や父親が、きみを支配しても、気に掛けることはなかったのと同じ――。
決して愛を返すことのない僕だから、きみは安心を見出すんだ。
「エリック、」
僕の受容は初めから治療の一環にすぎない。そして、それはもう終わったんだ。これからはバニーがきみの環境。
「コウに話したの?」
「何を?」
「今、きみが僕にしているようなことだよ」
「彼は知ってたよ」
可哀想に――。
推察と、当事者の口から聞かされる事実ではまるで違う。コウは傷ついただろう。
「でも、そうだな、そのせいもあるのかな。確かに彼は不安定で――。だから墜ちたんだ」
「墜ちた?」
「そう、空から」
ひゅ――、とエリックは僕の耳に、細く長い息を吐きかけた。そのまま肩を掴んで、僕の身体を反転させる。
「あの銀髪の子がすんでのところで捉まえて、坊やの可愛い顔が地面に叩きつけられずに済んだんだ」
どんな顔をしてそんな絵空事を言っているのかと振り返ろうとした僕の頭を、エリックはドアに押しつけた。
「声をあげろよ、アル。隣に聴こえるくらいにさ」
「アルコールは止めて、クスリに変えたってことかい?」
「ここじゃ、そんなものは要らない。なんでも在りだからな。そうだな、後はきみさえいれば完璧だよ」
さすがにこの言い分は想定外だ。彼の薬物検査をするようにバニーに伝えなければ。
「放せよ、エリック。まさかそんな戯言で僕が納得するなんて思っているわけじゃないだろうね」
彼の手首を掴んで退け、今一度彼に向き合った。
「このままこの馬鹿話が続くのならここで終わりだよ、エリック。さぁ、話すんだ、きみが知っていることを全部」
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる