夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

エリック

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 コウのいる部屋とほとんど同じ白の空間のベッドの上に、エリックはあぐらをかいて座っていた。まるで、部屋中に糸を張り巡らせ息をひそめて獲物を待っている蜘蛛のようだと思った。簡単に踏みつぶせてしまえるほど小さくてとても弱い生き物のくせに、粘着性の細い糸で僕を絡み取れると思っている。

 カチャッ、とドアの開く音は聞こえているはずなのに、彼は僕に顔を向けることなくゆっくりと小首を傾げただけだった。僕は彼の傍に近寄るのは止めにして、すぐにこの場から出ていけるように後ろ手に閉めたドアに背中を預ける。


「アル、今日の夕陽は、ロンドンに火を放ったみたいだった」

 唐突な言葉。エリックは思いだしたように恍惚とした表情をみせ、薄く微笑んだ。
 つい釣られて彼の正面の窓に目をやった。外はすでに闇に沈んでいると解っているのに。僕がテラスでコウを見つけたころ、彼は室内に戻って西側にあるこの部屋で夕陽を見ていたとでも言いたいのだろうか。あの場所で僕たちの様子を伺っていたのではなく――。

「坊やが赤毛ジンジャーを怒らせた日には、太陽が呼応するように膨張して輝きを増すんだ。湿気を蒸発させ、雲を薙ぎ払い、湿った僕までカラカラに乾かしてくれる。いささか、乾きすぎたくらいだな」

 喉を鳴らして笑いながら、エリックはベッドを下りて僕に歩み寄る。
「そうなると、今度は湿り気のあるきみが恋しくなるんだよ」
 なんのてらいもなく、僕の首に腕を回して抱きしめる。当たり前にキスしてくる。僕が拒むなど、はなから認める気はなさそうだ。

「エリック」
 彼を宥めるために軽くハグして、努めて優しく呼びかけた。
「僕はここへきみの話を聴きにきたんだ。さぁ」
 上質なスーツの上から手のひらを滑らせる。思った通り、彼はギシギシに強張っている。打算と思惑から赤毛に取り入っているにしろ、彼の内側はそんな彼自身に納得しているわけではないのだ。
 僕の気を引くことと、怒らせることは常に紙一重。それくらいのことは、重々承知しているのだから。

 散々駄々を捏ねて、やっとバニーの面接に同意したと思ったらこれだもの。 
 そんなに僕に手を放されるのが怖いの、エリック?


 彼の唇に応えてやりながら、考えていた。無意味なキス。深く貪れば貪るほど、冷めていく身体。貪欲なエリックは、僕の何を食べているのか――。

 孤独なエリック。僕を求めているつもりでも、彼の世界にいるのは僕の形をした妄想でしかない。僕は、彼がバリバリと僕の影を貪り喰らうのを冷めた想いで眺めるだけ。
 それでも、そんな彼を憐れんでいたのに――。せめてその際限なく満腹することのない妄想世界につきあってあげよう、くらいには思っていたのに。

 愚かな彼は嫌いだ。

 たかだか僕の気を引くために、コウを利用した。赤毛に関わった。わざと僕を怒らせた。
 僕はきみの母親じゃない。僕の憐憫には限度があり、それはとっくに底をついてしまっているんだ。


「エリック、さぁ、話して」

 きみはここで何を見たんだ?



 彼の唇が、手のひらが、僕の形を確かめる。僕の内側に彼の妄想を注ぎ込む。
 エリックが満足して果てるまで、平坦な白い天井を眺めていた。ここのインテリアコーディネーターには創造性がない。同じ白でもバニーの部屋には温かみがあるのに。この部屋はただの入れ物だ。だから売れなかったんじゃないのか。ばか高いだけでなく――。

 綺麗な星の見える所に行きたいな。
 無機質な天井の向こう側を思い描いたところで、このロンドンで満天の星空なんて望めないもの。コウと一緒にのんびりできるところに行こう。田舎に行って何もかも忘れて寛いでいれば、コウもきっと回復する。

「アル――」
「ん?」
「僕はきみのなんなんだ?」
「友人で、クライアント」

 そして、具象化されたきみの妄想。
 きみが誰よりも愛し怖れているきみの母親のように、愛を振りかざしてきみを支配したりしない安全な環境。きみは赤ん坊が母親の乳房にむさぶりつくように貪欲に僕を貪っても、僕なら許してもらえると思っている。
 でも本当はそんなことじゃない。きみにとって僕が特別なのは、きみを気に掛けないからだ。きみの母親や父親が、きみを支配しても、気に掛けることはなかったのと同じ――。
 決して愛を返すことのない僕だから、きみは安心を見出すんだ。

「エリック、」

 僕の受容は初めから治療セラピーの一環にすぎない。そして、それはもう終わったんだ。これからはバニーがきみの環境。

「コウに話したの?」
「何を?」
「今、きみが僕にしているようなことだよ」
「彼は知ってたよ」


 可哀想に――。
 推察と、当事者の口から聞かされる事実ではまるで違う。コウは傷ついただろう。

「でも、そうだな、そのせいもあるのかな。確かに彼は不安定で――。だから墜ちたんだ」
「墜ちた?」
「そう、空から」

 ひゅ――、とエリックは僕の耳に、細く長い息を吐きかけた。そのまま肩を掴んで、僕の身体を反転させる。

「あの銀髪の子がすんでのところで捉まえて、坊やの可愛い顔が地面に叩きつけられずに済んだんだ」

 どんな顔をしてそんな絵空事を言っているのかと振り返ろうとした僕の頭を、エリックはドアに押しつけた。

「声をあげろよ、アル。隣に聴こえるくらいにさ」
「アルコールは止めて、クスリに変えたってことかい?」
「ここじゃ、そんなものは要らない。なんでも在りだからな。そうだな、後はきみさえいれば完璧だよ」


 さすがにこの言い分は想定外だ。彼の薬物検査をするようにバニーに伝えなければ。

「放せよ、エリック。まさかそんな戯言で僕が納得するなんて思っているわけじゃないだろうね」


 彼の手首を掴んで退け、今一度彼に向き合った。

「このままこの馬鹿話が続くのならここで終わりだよ、エリック。さぁ、話すんだ、きみが知っていることを全部」





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