夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

隠れ家 8.

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 結局、エリックの進言を聞き入れることにした。事情の判らないまま病院に、というのもコウが嫌がるのではと危惧したのだ。

  コウ――。

 確かに顔色は悪いけれど、呼吸は穏やかだし、ただ眠っているようにも見える。エリックの言うように疲れているだけかもしれない。僕がここへ迎えにきた安心感で、糸が切れたように脱力してしまっているだけだ、と僕の方こそが、思いたかったのかもしれない。

 エリックに案内されて、いくつもある寝室の一つに移った。白い壁に白のキングサイズのベッドがあり、その上には生成りのクッションが山と置かれている。その中に埋もれるようにコウを横たえた。
 モノトーンの額に、家具の一部にだけアクセント的に黒の使われた、小奇麗なだけで面白みのない、生活感のまったくない部屋だけれど、彼の顔色の変化を見極めるには適している。

「ありがとう」と、コウが小声で呟く。「今、お茶を淹れてくれているからね」と言うと、小さく頷く。「気分が悪いわけではないんだね?」色の悪い唇が、大丈夫だと形作る。

 どうすればこの唇は、いつもの健康な色合いを取りもどせるのだろう、と見つめていた。無意識のうちに親指で、継いで人差し指で、中指で、五本の指すべてを使って順繰りにやんわりと、コウの唇を擦っていた。
 可愛い。こんなときでさえ、僕はコウに欲情してしまう。彼の意思も、心も、体調も、まるでおかまいなしで――。衝動に突き動かされ、抑えられなくなりそうになる。まるで獣だ。コウは、いつだってこんな僕の衝動を受け止めてくれていたなんて。僕は、コウの魂を喰べ尽くしてしまったのだろうか。だからコウは……。

 まさか――。

 あり得ない。僕はコウとこの五日間、ほとんど顔すら合わせていなかった。僕のせいでコウが神経衰弱に陥っているなど、あるはずがない。コウは僕たちのことを考えたい、そう言って距離を取っていたにすぎない。今しがたこの話をしたばかりなのに、赤毛の言い分が、「お前のせいだ」という脅し文句が心に貼り付いてしまい、僕はそれを削ぎ落すことができないのだ。


「アル、坊やを起こして食べさせてやれよ」
 エリックが静かにドアを開け、小声で呼んでくれた。

 入り口でトレイを受け取る。サンドイッチの横にあるティーカップの紅茶からブランデーの芳醇な香りが立ち昇っている。「彼は、」と説明しようとした僕を遮って、エリックは、「ティー・ロワイヤル。もちろんアルコール分は飛ばしてある」と、にやりと笑う。

 こういうところ、彼は繊細な気遣いを見せてくれるのだ。それに彼は、自分がコウを脅かしていることも、ちゃんと認識している。だからずかずかと部屋に入ってくることもない。本来の彼は分をわきまえた、僕の私生活プライベートを脅かす存在ではなかった。
 現状のちぐはぐな掛け違いは、多分にコウの誤解によるもの。エリックがコウを追い詰めるようなことを言ったのでは、と疑ってしまったのは、僕の疑心暗鬼のなせる業だったのかもしれない。

「ここの連中のことが知りたいんだろ? あの坊やがどうしてあんなになったのかも」
 僕のそれまでの緊張が少しほぐれてきているのを察したのか、エリックは顔を近づけ、こそりと耳許に囁いた。そして「隣の部屋にいるから」と言い残して軽く僕の肩を握ると、すいっと踵を返しドアを閉めた。


 ここの連中――。新参者がまた一人。僕の知らないコウの背景。銀髪の少女の印象的な瞳が脳裏をよぎる。その瞳が、アーノルドの瞳に重なる。なぜだか今日は、いやに彼のことを思いだす。
 軽く頭を振って、それらの残像を振り払った。

「コウ、食べれるようなら」と声をかける。だがそれ以前から彼は目を開けて僕を見ていたようだった。ベッドまでトレイを運ぶ僕を、切なげな瞳が迎えてくれていたのだ。

 どこから気づいていたの? エリックの声に反応したの――。

 可哀想なコウ。きみは、なぜ僕にどうして欲しいか言ってくれないの。僕はいつでもきみを一番に選んで、なんでもきみの望み通りにしてあげるのに。

 サイドボードにトレイを置いて、コウを抱え起こしてベッドヘッドにもたせかけた。背中にクッションを詰めてあげて。

「まるでお人形のようだね」
 コウが、ぎこちなく微笑んで言う。
「この陶器の肌が体温を取り戻すには、少しでも食べた方がいいそうだよ」
 彼の横に腰を下ろし、ベッドに伸ばした脚の上にトレイを置いた。

 コウは、支えていないとすぐにまた寝入ってしまいそうになる。継続して目を開けていることができず、すぐに瞼を閉じてしまう。
 左腕で彼を支え、反対の手で軽く開いた唇へ紅茶を注ぎ、ハムとチーズのサンドイッチを運んで少しづつ食べさせた。いつもの彼なら、こんなふうに世話されるのは嫌がりそうなものなのに、今は何も言わずに黙々とされるがまま。ゆっくりでも、食べてくれるだけで安心する。

 やはり、彼のこの状態は心因性の病状なのではないか、という気がしてならない。今の生活に馴染んでいるように見えても、コウにとってここは異国なのだ。彼の几帳面な性格では、ずっと気が張っていたとしてもおかしくはない。その中で、赤毛の巻き起こす騒動にせよ、コウに甘えるショーンやマリーのことにせよ、そして僕との関係のことにしても――。彼はいっぱい、いっぱいだったのかもしれない。

 僕は彼に食事させながら、頭の中で、症例パターンを目まぐるしく追っていた。そして並行して、最近のコウの変調ぶりを思い返し当てはめて。

 だがやはり、時間が欲しいと言ったコウを自由にさせ、僕が干渉することのなかった空白の時間が、こうまで彼を消耗させ生命力を削いだとしか考えられない。


 ここで何があったのか、エリックに聴かなければ――。
 彼が見返りなしで教えてくれるような、そんな甘い状況ではないということは、想像に難くないけれど。

 コウは、僕には教えてくれない。これまでそうであったように。けれど、僕の方から踏み込んでいくことを、彼は拒まない。

 僕はもう、待つのは嫌なんだよ、コウ。


 サンドイッチの最後の一片を頬ばらせ、ティーカップに残っていた紅茶をこくりと飲ませて終わらせた。

「もう少しここで休んでいるといいよ。僕がそばにいるから。そうして、ひと眠りしてから一緒に家に戻ろう。そうすれば、きみの体力ももう少し回復するだろうし」
「うん」

 素直に頷いた、少しだけ元気を取り戻したように見えるコウを、もう一度ベッドに横たえて軽く手を握る。だがやはり、彼はさっきまでと同じように、最速で眠りに落ちていく。うつらうつらとした眠気に襲われ、長く意識を保っていられないのだ。

 バニーに相談してみよう。だが、その前にエリックだ。

 
 そっと衣擦れの音さえ立てないようにベッドから下りて、コウを残して僕はこの部屋を後にし、隣の部屋をノックした。




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