夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第三章

隠れ家 4.

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 エリックに案内されるままに豪奢なアパートメントの入り口をくぐり、直通のエレベーターを降りて、赤毛の所有するペントハウスに足を踏みいれた。

 無駄に広い――。

 エリックが躊躇なくドアを開けた先は、テラスを挟んでハイドパークを見下ろす窓が広がるリビングだ。景色を眺めるためにコの字型に設置された白いソファー。黒塗りの棚にモノトーンの写真の額。その横には白の胡蝶蘭。チョコレート色に塗装されたウォルナットの床に敷かれたラグも白だ。

 とても赤毛の趣味とは思えない。本当に、言われるままここをまるごと買った、ということだろうか。
 半ば呆れ返りながらぐるりと見回し、ふと天井に目をやった。

 ああ、やはり奴はコウと一緒に、ここに住んでいる。

 白い天井いっぱいに、焼け焦げたような燻ぶった黒い線で訳の分からない図形が描かれている。アーノルドの日記帳や、彼の人形のボディに描かれていたような――、魔法陣。おそらくは。

 
「おーい、ドラコ!」

 ぼんやりしていた僕を尻目に、エリックが大声で奴を呼んだ。

「お前に客だぞ!」

 招かれざる、ね。

 気を引き締めて奴が現れるのを待ったのに、コトリともしない。それにコウも――。どうも人の気配すらしないのが気にかかる。スマートフォンには、確かにコウはここにいると表示されているのに。


 エリックは赤毛を呼びながら、次々と部屋を覗いていった。当然、僕もその後に続く。ひと部屋が広いだけじゃない。いったい何部屋あるんだ? 使われている形跡のない幾つもの寝室を通りすぎ、キッチンや浴室も覗いていく。設備の揃ったジムまである。でも、肝心の彼らがいないなんて。

「豪華なモデルハウスを案内してもらって恐縮だけどね、僕にはこんな分不相応な物件は買えないよ。欲しいとも思わないしね」

 苛立たしさをたっぷりと皮肉に込めてエリックを睨むと、彼は軽く肩をすくめて、「ということは、テラスだな」、と今いる部屋のガラス戸を開けた。どうやら室内はすべて見終えたらしい。


 夕暮れにはまだ早い。けれど風は冷たい。開かれた窓から吹き込んでくる風に、ぶるりと身震いする。エリックはぐるりと巡らされたテラスの角に消え、すぐに戻ってきた。
「ここにはいないな。きっとメインテラスの方だな」と、くいと廊下を顎で示す。

 いくら広いといったって、たかだかアパートメントのペントハウスじゃないか。それが、こうも見つからないなんて――。
 コウがわざと僕から逃げているような気がして、堪らない。そんなはずないのに。現にスマートフォンの地図には、ちゃんと彼の現在地が表示されているのだから。
 苛立ちを隠せないまま、黙ってエリックの後に続いた。彼は、僕の焦りを楽しんでいるようだ。いるはずの彼らがいない、こんな状況に驚くこともなく――。そんなエリックもまた不可解だ。彼はこんな不条理な状況はとても嫌がる性質たちだったのに。


 振り出しのリビングに戻って、そこからまたテラスに出た。ウッドデッキで敷き詰められたテラスには、ところどころに丸や四角の形状に刈り込まれた植物の鉢やガーデンテーブルが置かれていて、ぱっと見、コウや赤毛がいるかどうかが判らない。それに、このテラスに面した別の部屋に続くタープテントの下は、陰になっていてここからはとりわけ見えづらい。だからだろうか。引き寄せられるようにそこへ足が向いた。


 当たりだ。

 タープの下のダイニングテーブルの向こう側に、隠れるようにベンチが置かれ、コウが横たわっていた。

 可哀想に――。

 彼の傍に膝をつき、そっと頬にかかる髪を掻きあげて、手のひらを当てて彼の温もりを確かめた。息をしていないんじゃないか、などとあり得ない想像をしてしまったほど、彼は憔悴していたのだ。
 想像すらしなかった。
 僕はただ――。
 コウが時間が欲しいと言ったから、僕はただ待つしかないのだ、と思っていた。彼がどんな状態でいるかなんて、思い遣ることもしないで。

「コウ、帰ろう」
 
 血の気のない、冷たい頬を緩く擦った。コウの瞳は、僕を見ているのに見ていない。コウの瞳に映っている自分が、ただの影のようで怖かった。

「きみは、いつだって僕を見つけてくれるんだね」

 コウは軽く目を細めたけれど、わずかな仕草はまだ夢のなかにいるみたいに儚くて虚ろで。これが僕に向けられた言葉なのか、僕には確信が持てなかった。

「コウ、一緒に帰ろう」

 じっと身じろぎもせず、僕を琥珀色の瞳に映すコウ。その首筋に手を差し入れて、頭を持ちあげた。ぐったりと重い。自分ではまるで力を入れることができないように。その重みに、腹の底から怒りが湧いていた。

 コウがこんな状態にいることに――。

 僕のせいだ。コウが僕から逃げていたのではない。僕がコウとの間にあった扉を閉めていたのだ。僕に怒っているコウを見たくなかったのは僕の方。こんな薄情な僕のところへ、コウが戻ってこれるはずがなかったのに。

 だけど、僕だけのせいじゃないはずだ。たった一週間のことでコウがここまでやつれ果てるなんて。
 赤毛はいったいコウに何をさせているんだ? どうしてこんな病的な状態にいるコウをほったらかしている? こんな――、まるで精気を吸い取られてしまったみたいになるまで。


「そいつに触るな」

 低く、重たい声が背後で響いた。
 振り向くまで、それが赤毛だとは判らなかったほどの――。





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