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第三章
隠れ家
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濃い緑の葉が茂るハイドパークから道ひとつ挟んで見あげる先は、明るい赤煉瓦の外壁に白い窓が整然と並ぶ華やかなビクトリアン様式の高級アパートメントだ。
ここ、ナイツブリッジはロンドンでも有数の高級住宅街なのだ。なかでもハイドパークに面したアパートメントだなんて、いったい幾らするのやら――。
赤毛だけは、どうしたって僕の理解の範疇外だ。しようがないじゃないか。うちの庭にテントを張って住まわせろと言ってきた男の家がこんな一等地にあるなんて、いったい誰に想像できる?
これほど抜きんでて裕福な友人と一緒に日本を出てきながら、コウはうちに間借りして、あんなにも几帳面な節制した暮らしをしているのだ。家事をするぶん家賃を値切って、本代や旅行費用に充てるのだと節約して――。
少しだけ、赤毛の気持ちも解らないではない。
コウは僕に甘えるのが下手なように、きっと、赤毛に依存することもないのだろう。赤毛にしても、見ていてやきもきするに違いない。コウのあの不器用さ、必死で背伸びしているところ。頑張り過ぎて壊れてしまうんじゃないかと不安になるのは、おそらく僕と同じ。こんなところに住んでいる奴なら、金で時間や労力を買うことを当然のように考えるのも納得だ。純粋にコウを助け支えてやりたい、と思っているに違いない。それはきっと嘘じゃない。
でもそれ以上に、それだけの力があるのだ、と僕に見せつけたいんじゃないの――。
こうして毎日のようにコウを呼びだして、赤毛はいよいよ僕からコウを奪う気なのだろう。そして僕はこんな惨めに、木陰からこの豪華な建物の窓を窺っているしかないなんて――。
逆に、毎日コウがうちに帰ってきてくれていることの方が、奇跡みたいだ。ここに泊まっていかないのは、僕に操を立ててくれているからだろうか。こうして一日中、赤毛といても? 彼とは本当に何もないの?
みっともない疑惑ばかりが募っていく――。
コウたちが出てくるまで、ここで突っ立って待っているわけにもいかない。不審者すぎる。
ため息をひとつ吐いて、とりあえず近くのカフェでも探すことにした。彼らが動きだしたころを見計らって追いかけても充分間に合うはずだ。赤毛とだけ先に話をつけるなら、コウが帰ってからの方がいいかもしれない。
9月になれば大学が始まる。コウはキングズカレッジの大学生になるのだ。もうこうして赤毛の遊びにつき合ってやる暇もなくなる。彼に必要なのは、安定した生活なのだ。彼を振り回すのはやめてくれ、と。言いたいことは山とある。
そんなことばかり頭のなかでグルグルと思い巡らせながら道を渡っていると、目当ての建物からちょうど住人がでてきた。
エリック――!
なぜ彼がこんなところにいるのだ?
呆然と立ち尽くしていると、彼の方もすぐに僕に気づき、にこやかな笑みを湛えて近づいてきた。
「やぁ、アル! 奇遇だな。まぁ、偶然ってわけでもないのだろうけど、どうだい、少し早いけど夕飯でも?」
偶然じゃない――て、どういう意味だと彼を見据えた。エリックは目を細めてニヤつきながら、僕の肩に腕を回す。彼はいつもこんな思わせぶりな態度で人の気を引こうとする。悪い癖だとは解っているのだが、場所が場所だけに、彼はなにか知っているのかもしれない。この高級アパートメントに出入りしていることからして――。
「どこがいいかな? ナイツブリッジ通りまで出るかい? それとも近場がよければ、この横道に入ったところにイタリアンがある。そこにしようか」
エリックはことさら上機嫌だ。飲んでいる、というわけではなさそうなのに。
「それに、きみにプレゼントもあることだしね。お礼しなきゃいけない、って思ってたところなんだ。この辺りで逢えるだろうと思ってたけど、ああ、でもまさかこんなに早く見つかるなんて! それだけが誤算だったな。それならもっといいレストランに予約を入れておけばよかった!」
エリックは相槌さえ求めることもなく、ひとりで喋っている。だが彼の選んだレストランは、その言葉の通り目と鼻の先だった。
裏通りの細い石畳に沿った店構えは深紅の薔薇とアイビーで外壁を覆い尽くされている。それがアーノルドの家を思い起こさせ、ふっと気分が沈んだ。この位置なら僕にも申し分がないのだと、そんな気分を振り落とし、彼に続いてドアをくぐる。
店内はこじんまりとしていて、テーブル数も十に満たない。だがこの時間でもほぼ埋まっている。若いカップルが多いな。それなりに人気はあるようだ。
エリックは何度か来たことがあるようで、顔見知りらしいウェイターと気さくに話している。
雑談には加わらず、落ち着いた照明の下の壁面装飾のように置かれたワインセラーを眺めていると、ウェイターが立ち去ると同時にエリックが顔を寄せてきた。
「ここのワインはお薦めしないな。どこででも買えるような銘柄はぼったくりな値段設定の上に、ヴィンテージが記載されてない。この190ポンドのティニャネッロなんて、一昨年のものなら小売りで100ポンド以下。78年ものならその倍以上だ。ここのワインリストは雑すぎるよ」
彼は臆面もなくペリエを頼んだ。『ハウンズ』のエリックがワインを頼まないなんて、意味深に受け取られかねないのに――。
だが飲まない理由にまでうんちくを傾けるところは彼らしい。僕だって、今はそんな気分じゃないからそれでかまわない。
続いて彼はすらすらとお薦めを教えてくれた。料理には特に文句はつけなかった。
間を置かずウェイターが、籠に盛ったパンを運んできた。テーブルに置かれたバジルの鉢からチョキチョキと葉を刻み、銅製の小さなミルクパンに入れられたオリーブオイルに浸す。
「これは新鮮だね」
うちの浴室にもバジルがあったかな、と思い返してふと笑ってしまった。
これからエリックの口から飛びだすとんでもない話に翻弄されることになるなんて、思いもよらずに――。
これきり食事の間中、僕はにこりとも笑みを零す余裕などなくしてしまったのだ。
ここ、ナイツブリッジはロンドンでも有数の高級住宅街なのだ。なかでもハイドパークに面したアパートメントだなんて、いったい幾らするのやら――。
赤毛だけは、どうしたって僕の理解の範疇外だ。しようがないじゃないか。うちの庭にテントを張って住まわせろと言ってきた男の家がこんな一等地にあるなんて、いったい誰に想像できる?
これほど抜きんでて裕福な友人と一緒に日本を出てきながら、コウはうちに間借りして、あんなにも几帳面な節制した暮らしをしているのだ。家事をするぶん家賃を値切って、本代や旅行費用に充てるのだと節約して――。
少しだけ、赤毛の気持ちも解らないではない。
コウは僕に甘えるのが下手なように、きっと、赤毛に依存することもないのだろう。赤毛にしても、見ていてやきもきするに違いない。コウのあの不器用さ、必死で背伸びしているところ。頑張り過ぎて壊れてしまうんじゃないかと不安になるのは、おそらく僕と同じ。こんなところに住んでいる奴なら、金で時間や労力を買うことを当然のように考えるのも納得だ。純粋にコウを助け支えてやりたい、と思っているに違いない。それはきっと嘘じゃない。
でもそれ以上に、それだけの力があるのだ、と僕に見せつけたいんじゃないの――。
こうして毎日のようにコウを呼びだして、赤毛はいよいよ僕からコウを奪う気なのだろう。そして僕はこんな惨めに、木陰からこの豪華な建物の窓を窺っているしかないなんて――。
逆に、毎日コウがうちに帰ってきてくれていることの方が、奇跡みたいだ。ここに泊まっていかないのは、僕に操を立ててくれているからだろうか。こうして一日中、赤毛といても? 彼とは本当に何もないの?
みっともない疑惑ばかりが募っていく――。
コウたちが出てくるまで、ここで突っ立って待っているわけにもいかない。不審者すぎる。
ため息をひとつ吐いて、とりあえず近くのカフェでも探すことにした。彼らが動きだしたころを見計らって追いかけても充分間に合うはずだ。赤毛とだけ先に話をつけるなら、コウが帰ってからの方がいいかもしれない。
9月になれば大学が始まる。コウはキングズカレッジの大学生になるのだ。もうこうして赤毛の遊びにつき合ってやる暇もなくなる。彼に必要なのは、安定した生活なのだ。彼を振り回すのはやめてくれ、と。言いたいことは山とある。
そんなことばかり頭のなかでグルグルと思い巡らせながら道を渡っていると、目当ての建物からちょうど住人がでてきた。
エリック――!
なぜ彼がこんなところにいるのだ?
呆然と立ち尽くしていると、彼の方もすぐに僕に気づき、にこやかな笑みを湛えて近づいてきた。
「やぁ、アル! 奇遇だな。まぁ、偶然ってわけでもないのだろうけど、どうだい、少し早いけど夕飯でも?」
偶然じゃない――て、どういう意味だと彼を見据えた。エリックは目を細めてニヤつきながら、僕の肩に腕を回す。彼はいつもこんな思わせぶりな態度で人の気を引こうとする。悪い癖だとは解っているのだが、場所が場所だけに、彼はなにか知っているのかもしれない。この高級アパートメントに出入りしていることからして――。
「どこがいいかな? ナイツブリッジ通りまで出るかい? それとも近場がよければ、この横道に入ったところにイタリアンがある。そこにしようか」
エリックはことさら上機嫌だ。飲んでいる、というわけではなさそうなのに。
「それに、きみにプレゼントもあることだしね。お礼しなきゃいけない、って思ってたところなんだ。この辺りで逢えるだろうと思ってたけど、ああ、でもまさかこんなに早く見つかるなんて! それだけが誤算だったな。それならもっといいレストランに予約を入れておけばよかった!」
エリックは相槌さえ求めることもなく、ひとりで喋っている。だが彼の選んだレストランは、その言葉の通り目と鼻の先だった。
裏通りの細い石畳に沿った店構えは深紅の薔薇とアイビーで外壁を覆い尽くされている。それがアーノルドの家を思い起こさせ、ふっと気分が沈んだ。この位置なら僕にも申し分がないのだと、そんな気分を振り落とし、彼に続いてドアをくぐる。
店内はこじんまりとしていて、テーブル数も十に満たない。だがこの時間でもほぼ埋まっている。若いカップルが多いな。それなりに人気はあるようだ。
エリックは何度か来たことがあるようで、顔見知りらしいウェイターと気さくに話している。
雑談には加わらず、落ち着いた照明の下の壁面装飾のように置かれたワインセラーを眺めていると、ウェイターが立ち去ると同時にエリックが顔を寄せてきた。
「ここのワインはお薦めしないな。どこででも買えるような銘柄はぼったくりな値段設定の上に、ヴィンテージが記載されてない。この190ポンドのティニャネッロなんて、一昨年のものなら小売りで100ポンド以下。78年ものならその倍以上だ。ここのワインリストは雑すぎるよ」
彼は臆面もなくペリエを頼んだ。『ハウンズ』のエリックがワインを頼まないなんて、意味深に受け取られかねないのに――。
だが飲まない理由にまでうんちくを傾けるところは彼らしい。僕だって、今はそんな気分じゃないからそれでかまわない。
続いて彼はすらすらとお薦めを教えてくれた。料理には特に文句はつけなかった。
間を置かずウェイターが、籠に盛ったパンを運んできた。テーブルに置かれたバジルの鉢からチョキチョキと葉を刻み、銅製の小さなミルクパンに入れられたオリーブオイルに浸す。
「これは新鮮だね」
うちの浴室にもバジルがあったかな、と思い返してふと笑ってしまった。
これからエリックの口から飛びだすとんでもない話に翻弄されることになるなんて、思いもよらずに――。
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