夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第二章

夜 8

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 なんとなく白けたムードを盛り返す気分にもならなくて、というよりも、こういうときに率先して張り切るショーン自身がとげとげしい空気を振り撒く張本人なので、残る僕らにはどうしようもなくて。誰からともなく、もういいか、となってお開きにすることにした。


 帰りのタクシーの中でも、皆黙りこくっていた。
 僕はこの場に赤毛がいないことにまずは安堵し、コウが僕とエリックのことを勘ぐりはしまいか、とそんなことばかり考えていた。けれど彼は眠たそうに目を瞑って僕の肩にもたれかかるだけで、僕を疑っているような素振りも、拒否するような態度も微塵も見せなかった。
 
 帰り着いた家にも、庭のテントにも人の気配はない。けれど、コウは取り立てて気にする様子も見せない。赤毛が「先に帰る」と告げた行き先は、ここではないということか。案外、奴のことだからフラットの一つや二つ、すでに手に入れているのかもしれない。いつものように金貨を弾いてね――。
 それなら後はこのまま寝るだけだ、と思った。コウとの間に赤毛絡みの問題さえ生じなければ、後はもう、どうでもいいというか、疲れていたしね。

 ところが、そんな考えは甘かった。家の中に入るなり、ショーンはコウを捉まえて「聴いてくれよ、コウ」と機関銃のごとく愚痴り始め止まらなくなった。今まで黙っていたのはただ単に、あの場所の雰囲気が重しになっていたに過ぎなかったということらしい。バズも従兄に義理だてしているのか、同情的に付き合う素振りだ。マリーまでもがミラに対する憤慨を隠そうともせず便乗する。そしてコウは、悲痛さを分け合っているような顔つきで、真剣な瞳をショーンに向けて相槌をうっているのだ。
 もう、いい加減にしてくれ――。
 そんな気分でいるのは僕だけらしい。ミラのことなんて、なるべくしてこうなった、それだけのことに過ぎないじゃないか。いったい何を今さら聴けっていうんだ? 
 だが、どうやらそんな真っ当な意見が通じる相手はここにはいないようだ。



「悪いけど――」と僕は当然、いち抜けた。シャワーを浴びて早くベッドに横になりたい。できることならコウを抱きしめて眠りにつきたい。いろんなことがあり過ぎた。湯船のなかで寝落ちしてしまいそうだった。

 浴室から部屋に戻る前に、水を飲みにキッチンへ下りた。居間は相も変わらずぐだぐだだ。コウをこの場から引っ張りだしたい。けれどきっと駄目だ。コウは優しいから。傷心のショーンを置いて僕のところへなんて、来てくれやしない。
 



 だから、ベッドヘッドにもたれてじっとコウが戻ってくるのを待っていた。何をするでもなく、ぼんやりと――。あれほど消耗していたのに、なぜだか眠気はなくなっていた。けれど、何も考える気にもなれなくて。苛立ったままの神経を鎮めようと、ゆっくりと呼吸を数えていた。
 

 ようやくドアが静かに開き、コウが足音を忍ばせて戻ってきたのは空が白み始めた頃だった。
 コウはとても憔悴しきったようすで僕を見て「まだ起きてたんだ」と微笑んだ。
 腕を広げてコウを呼んだ。彼はベッドに這いあがると、軽く膝だてた僕の脚の間に飛びつくようにその身を投げだしてきた。僕の首筋に頬を擦りつけじゃれついて、反転してぴたりと背中をそわせた。それきり脱力してじっと動かない。彼の腹部で軽く交差した僕の腕に手をかけたまま――。

「こうしてると安心する」

 柔らかな吐息。僕たちを隔てる境界は溶け、脈が重なる。同じリズムを刻む。ひとつの塊になったように――。

 コウが僕に望むのは、きっとそんなこと。

 本当は、コウは僕とのセックスなんて望んでいないんじゃないかと、ふとそんな気がした。それなのに、こうして安心しきって僕に甘えているコウに、無防備な子どものようなコウにさえ欲情する僕は、なんてあさましいのだろう――。

「アル、好きだよ」

 寝言のように口の中で呟いたと思ったら、ほら、もう寝息を立てている。よほど疲れていたんだ。
 まるで傷ついた獣が血だらけの身体を引きずって、それでも巣に帰ってくるように、コウは僕の腕の中で丸くなって眠っている。

 こうして僕のもとに帰ってきてくれるなら。必ず戻ってきてくれるのなら――。

 きみの眠りを抱く巣になるのもいいんじゃないか、って気になる。可愛いコウの寝息に合わせて、静かに息づくだけでいるのも――。それがほんのたまになら。今日のような、どうしようもなく消耗させられる日だったら。きみの眠りを脅かそうなんて、いくら僕でも思いはしない。たとえ今だけでも、きみを穏やかに守り支える大地でいたい、と心から願える。明日の僕は信じられなくても――。今なら無防備なきみの寝顔が、僕の良心を信じさせてくれるから。



 手を伸ばしてウォールライトを消し、身体を少しずつずらして横たえた。

 コウを胸に抱いたまま。

 そして、朝目覚めたときもこのままの姿勢でいれればいいな、と願いながら僕も眠りについたのだ。





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