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第二章
御伽噺 7.
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そんな気がしたのはほんの一瞬。
なにもない。キッチンは、薄暗い空間にいつもと変わらない佇まいを見せている。特に変わった様子もない。気のせいか――。食事の準備をしたにしては、片づきすぎているくらいのもので。――確かに、綺麗すぎる。コウの言う通り、料理はここで作ったものではなく、誰かに用意させたものなのだろう。あのいかにもなメニュー選択からして、雇用を認めさせるための戦術だったわけだ。
僕だって、本音を言えば、コウの負担を減らすためなら、人を雇うことにやぶさかではない。問題は奴のやり方だ。赤毛が自分の領域をまるごとこの家に持ちこもうすることだ。それに家事はコウにとって、負担であると同時に、ストレスを発散させるための手段でもある。そこを考慮せずに彼から大切な中間領域を根こそぎ奪ってしまおうとする、そのやり方が気に食わない。コウをますます追い詰めることになりかねないのに。それを赤毛はわかってない。「コウのためだ」といいながら、その実、手前勝手な都合で彼をコントロールしようとする。
そんな関係が、いつからあの二人の間で続いているのだろう。
ぼんやりと考えながら動いていると、コーヒーをセットしてしまっていた。ショーンはともかくマリーは駄目だ。彼女はカフェインに弱い。夜にコーヒーは飲まない。お湯を注ぐ前で良かった。急いでお茶に切り替えた。
居間の二人にお茶を運び、席にはつかずに「コウにもね」と言うと、マリーはすぐさま理解して頷いてくれた。珍しくショーンと諍うこともなく、真面目に家事に関する問題を話し合っているらしい。
キッチンに戻ってコーヒーを三人分淹れ、トレーに載せた。
屋根裏部屋まで上がるのは、何年振りだろう。子どもの頃はマリーと二人、よくここで遊んだのに。僕たちの使わなくなった玩具、季節用品なんかをしまっていた物置にすぎないこの部屋は、子ども心には、素敵な隠れ家であり、秘密基地だった。僕とちがって反抗的で強情な子どもだったマリーは、よく怒られてこの部屋に閉じ込められ、一人で反省させられてもいたけれど。そんなときは僕がこっそりとおやつを持っていってあげた。今にして思えば、アンナはすべてをわかっていて、公園にいくからと嘘をつく僕に、二人分のおやつと、ポットに入れたミルクティーをくれていたんだろうな。
そんな懐かしい思い出を反芻しながら上がってきた屋根裏部屋は、記憶よりもずっと広く傾斜する天井も緩やかな、十分部屋として使えそうな空間だった。それに、想像ほどに埃が積もっているわけでもなく、思い出の中のガラクタはどこにも見当たらない。アンナが整理してしまったのだろうか。そしてコウは、こんなところの掃除までしていたのだろうか?
古いチェストにトレイを置き、開け放たれた天窓から外を覗いた。
「コウ」
「ここにいるよ!」
明るい声が返ってきた。赤毛もいるのか? 声音からして、険悪なムードには、なっていなさそうだが。
「コーヒーをどうかな?」
白い窓枠からひょこっと顔を覗かせたコウにそう言うと、彼は嬉しそうに笑って、カップを二つ手に取った。
「きみもおいでよ。夕陽が綺麗だよ」
「ぼくはいいよ、ここで」
僕はきみほど心の広い人間じゃないんだ。まだ、あいつと肩を並べて夕陽を鑑賞できるほど、寛容な気分にはなれない。
「ありがとう、アル」と、礼を言っただけで、コウもしつこく僕を誘うことはしなかった。
しばらくは、窓外から聞こえてくる話声に耳をそばだてていた。日本語だ。ところどころ英単語が混ざるとはいっても、聞き耳を立てたところで意味はとれない。それでも、こんな場所でさっきのような言い争いになったらと思うと気が気じゃなかった。けれど僕のそんな不安とは裏腹に、コウの声音は終始落ち着いていて、厳しく諭すような力強さがあった。赤毛は――、居間での会話と同じ。どこか逃げ腰な、言い訳を並べているような上擦った声だ。喋っている内容などまるで判らなかったけれど、そんな気がした。
だから、僕の心配は杞憂なのだと、ほっとして自分のカップを口に運んだ。そう待たずしてコウが戻ってきた。飲み終えたカップを窓枠に置くと、彼は笑って僕を誘った。
「アル、おいでよ。彼はもう行っちゃったから、気にしないで」
行ったって、どこに? どうやって?
狐につままれた気分で窓から身を乗り出し、傾斜する屋根瓦に素足をかける。暖かい。ゆっくりとコウの横に腰を下ろした。広々と開ける視界のどこにも、赤毛の姿はない。茜色に染まるひんやりとした空気に包まれた屋根と、豊かな葉を茂らせた梢がかかるばかりで。そして、遠くいくつも重なる屋根の連なり。
「ドラコは樹を伝って庭に下りたよ」
僕の疑問に応えるようにコウは苦笑いし、ふっと表情を改め、彼との話し合いの内容を教えてくれた。
「あのバキバキになった椅子は、なんとかできると思う。ブラウンさんたちをこの家に受けいれさえすれば、修理してもらえる。ドラコにしてやられたよ。あの椅子を元にもどせるだけの技術があるのは、彼らくらいなんだ。だから、アル、きみさえ良ければ――」
深々としたため息に、自嘲的な笑みが混じっている。僕は応えられなかった。黙したままどうすべきかを模索する。長すぎる沈黙に気持ちが萎えたのか、コウはごろりと屋根の上に横たわった。
「僕がここにいるだけで、皆に迷惑がかかるね」
「混同するんじゃないよ。きみが責任を感じることじゃない」
ぼんやりと暮れゆく空を眺めている彼の髪を、そっと梳いた。その手のひらに頬を擦りつけてくる、無防備なコウ。こんな場所でさえ僕を誘惑する。
「僕のせいだよ。僕がいるから、彼もここにいる。面倒ごとを引き連れてくる。次々に飛び火して、燃え広がる」
黄昏色に染まる空を受けて、コウ自身も紅く燃える。この透明な紅色に包まれたまま溶けてしまいそうに、儚い。
「アル、来て。僕の横に。ほら、見て、空が燃えているようだよ」
紅く輝くコウが、腕を伸ばして僕を誘う。
「コウ、戻ろう」
怖くなって、彼の手を掴んだ。強く腕を引いて起こし、抱きしめた。
「椅子なんてどうだっていい。スティーブには納得して、許してもらえるように、僕がなんとかする。だからこんなことに、きみの意に沿わないことに頷いたりしないで」
きみが奴の尻拭いをする必要なんて、ない。僕たち――、いや、僕のために、奴の身勝手な提案を呑むことなんて、ないんだ。
なにもない。キッチンは、薄暗い空間にいつもと変わらない佇まいを見せている。特に変わった様子もない。気のせいか――。食事の準備をしたにしては、片づきすぎているくらいのもので。――確かに、綺麗すぎる。コウの言う通り、料理はここで作ったものではなく、誰かに用意させたものなのだろう。あのいかにもなメニュー選択からして、雇用を認めさせるための戦術だったわけだ。
僕だって、本音を言えば、コウの負担を減らすためなら、人を雇うことにやぶさかではない。問題は奴のやり方だ。赤毛が自分の領域をまるごとこの家に持ちこもうすることだ。それに家事はコウにとって、負担であると同時に、ストレスを発散させるための手段でもある。そこを考慮せずに彼から大切な中間領域を根こそぎ奪ってしまおうとする、そのやり方が気に食わない。コウをますます追い詰めることになりかねないのに。それを赤毛はわかってない。「コウのためだ」といいながら、その実、手前勝手な都合で彼をコントロールしようとする。
そんな関係が、いつからあの二人の間で続いているのだろう。
ぼんやりと考えながら動いていると、コーヒーをセットしてしまっていた。ショーンはともかくマリーは駄目だ。彼女はカフェインに弱い。夜にコーヒーは飲まない。お湯を注ぐ前で良かった。急いでお茶に切り替えた。
居間の二人にお茶を運び、席にはつかずに「コウにもね」と言うと、マリーはすぐさま理解して頷いてくれた。珍しくショーンと諍うこともなく、真面目に家事に関する問題を話し合っているらしい。
キッチンに戻ってコーヒーを三人分淹れ、トレーに載せた。
屋根裏部屋まで上がるのは、何年振りだろう。子どもの頃はマリーと二人、よくここで遊んだのに。僕たちの使わなくなった玩具、季節用品なんかをしまっていた物置にすぎないこの部屋は、子ども心には、素敵な隠れ家であり、秘密基地だった。僕とちがって反抗的で強情な子どもだったマリーは、よく怒られてこの部屋に閉じ込められ、一人で反省させられてもいたけれど。そんなときは僕がこっそりとおやつを持っていってあげた。今にして思えば、アンナはすべてをわかっていて、公園にいくからと嘘をつく僕に、二人分のおやつと、ポットに入れたミルクティーをくれていたんだろうな。
そんな懐かしい思い出を反芻しながら上がってきた屋根裏部屋は、記憶よりもずっと広く傾斜する天井も緩やかな、十分部屋として使えそうな空間だった。それに、想像ほどに埃が積もっているわけでもなく、思い出の中のガラクタはどこにも見当たらない。アンナが整理してしまったのだろうか。そしてコウは、こんなところの掃除までしていたのだろうか?
古いチェストにトレイを置き、開け放たれた天窓から外を覗いた。
「コウ」
「ここにいるよ!」
明るい声が返ってきた。赤毛もいるのか? 声音からして、険悪なムードには、なっていなさそうだが。
「コーヒーをどうかな?」
白い窓枠からひょこっと顔を覗かせたコウにそう言うと、彼は嬉しそうに笑って、カップを二つ手に取った。
「きみもおいでよ。夕陽が綺麗だよ」
「ぼくはいいよ、ここで」
僕はきみほど心の広い人間じゃないんだ。まだ、あいつと肩を並べて夕陽を鑑賞できるほど、寛容な気分にはなれない。
「ありがとう、アル」と、礼を言っただけで、コウもしつこく僕を誘うことはしなかった。
しばらくは、窓外から聞こえてくる話声に耳をそばだてていた。日本語だ。ところどころ英単語が混ざるとはいっても、聞き耳を立てたところで意味はとれない。それでも、こんな場所でさっきのような言い争いになったらと思うと気が気じゃなかった。けれど僕のそんな不安とは裏腹に、コウの声音は終始落ち着いていて、厳しく諭すような力強さがあった。赤毛は――、居間での会話と同じ。どこか逃げ腰な、言い訳を並べているような上擦った声だ。喋っている内容などまるで判らなかったけれど、そんな気がした。
だから、僕の心配は杞憂なのだと、ほっとして自分のカップを口に運んだ。そう待たずしてコウが戻ってきた。飲み終えたカップを窓枠に置くと、彼は笑って僕を誘った。
「アル、おいでよ。彼はもう行っちゃったから、気にしないで」
行ったって、どこに? どうやって?
狐につままれた気分で窓から身を乗り出し、傾斜する屋根瓦に素足をかける。暖かい。ゆっくりとコウの横に腰を下ろした。広々と開ける視界のどこにも、赤毛の姿はない。茜色に染まるひんやりとした空気に包まれた屋根と、豊かな葉を茂らせた梢がかかるばかりで。そして、遠くいくつも重なる屋根の連なり。
「ドラコは樹を伝って庭に下りたよ」
僕の疑問に応えるようにコウは苦笑いし、ふっと表情を改め、彼との話し合いの内容を教えてくれた。
「あのバキバキになった椅子は、なんとかできると思う。ブラウンさんたちをこの家に受けいれさえすれば、修理してもらえる。ドラコにしてやられたよ。あの椅子を元にもどせるだけの技術があるのは、彼らくらいなんだ。だから、アル、きみさえ良ければ――」
深々としたため息に、自嘲的な笑みが混じっている。僕は応えられなかった。黙したままどうすべきかを模索する。長すぎる沈黙に気持ちが萎えたのか、コウはごろりと屋根の上に横たわった。
「僕がここにいるだけで、皆に迷惑がかかるね」
「混同するんじゃないよ。きみが責任を感じることじゃない」
ぼんやりと暮れゆく空を眺めている彼の髪を、そっと梳いた。その手のひらに頬を擦りつけてくる、無防備なコウ。こんな場所でさえ僕を誘惑する。
「僕のせいだよ。僕がいるから、彼もここにいる。面倒ごとを引き連れてくる。次々に飛び火して、燃え広がる」
黄昏色に染まる空を受けて、コウ自身も紅く燃える。この透明な紅色に包まれたまま溶けてしまいそうに、儚い。
「アル、来て。僕の横に。ほら、見て、空が燃えているようだよ」
紅く輝くコウが、腕を伸ばして僕を誘う。
「コウ、戻ろう」
怖くなって、彼の手を掴んだ。強く腕を引いて起こし、抱きしめた。
「椅子なんてどうだっていい。スティーブには納得して、許してもらえるように、僕がなんとかする。だからこんなことに、きみの意に沿わないことに頷いたりしないで」
きみが奴の尻拭いをする必要なんて、ない。僕たち――、いや、僕のために、奴の身勝手な提案を呑むことなんて、ないんだ。
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