夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
33 / 219
第二章

御伽噺 7.

しおりを挟む
 そんな気がしたのはほんの一瞬。
 なにもない。キッチンは、薄暗い空間にいつもと変わらない佇まいを見せている。特に変わった様子もない。気のせいか――。食事の準備をしたにしては、片づきすぎているくらいのもので。――確かに、綺麗すぎる。コウの言う通り、料理はここで作ったものではなく、誰かに用意させたものなのだろう。あのいかにもなメニュー選択からして、雇用を認めさせるための戦術だったわけだ。
 
 僕だって、本音を言えば、コウの負担を減らすためなら、人を雇うことにやぶさかではない。問題は奴のやり方だ。赤毛が自分の領域をまるごとこの家に持ちこもうすることだ。それに家事はコウにとって、負担であると同時に、ストレスを発散させるための手段でもある。そこを考慮せずに彼から大切な中間領域を根こそぎ奪ってしまおうとする、そのやり方が気に食わない。コウをますます追い詰めることになりかねないのに。それを赤毛はわかってない。「コウのためだ」といいながら、その実、手前勝手な都合で彼をコントロールしようとする。

 そんな関係が、いつからあの二人の間で続いているのだろう。


 ぼんやりと考えながら動いていると、コーヒーをセットしてしまっていた。ショーンはともかくマリーは駄目だ。彼女はカフェインに弱い。夜にコーヒーは飲まない。お湯を注ぐ前で良かった。急いでお茶に切り替えた。

 居間の二人にお茶を運び、席にはつかずに「コウにもね」と言うと、マリーはすぐさま理解して頷いてくれた。珍しくショーンと諍うこともなく、真面目に家事に関する問題を話し合っているらしい。

 キッチンに戻ってコーヒーを三人分淹れ、トレーに載せた。



 屋根裏部屋まで上がるのは、何年振りだろう。子どもの頃はマリーと二人、よくここで遊んだのに。僕たちの使わなくなった玩具、季節用品なんかをしまっていた物置にすぎないこの部屋は、子ども心には、素敵な隠れ家であり、秘密基地だった。僕とちがって反抗的で強情な子どもだったマリーは、よく怒られてこの部屋に閉じ込められ、一人で反省させられてもいたけれど。そんなときは僕がこっそりとおやつを持っていってあげた。今にして思えば、アンナはすべてをわかっていて、公園にいくからと嘘をつく僕に、二人分のおやつと、ポットに入れたミルクティーをくれていたんだろうな。

 
 そんな懐かしい思い出を反芻しながら上がってきた屋根裏部屋は、記憶よりもずっと広く傾斜する天井も緩やかな、十分部屋として使えそうな空間だった。それに、想像ほどに埃が積もっているわけでもなく、思い出の中のガラクタはどこにも見当たらない。アンナが整理してしまったのだろうか。そしてコウは、こんなところの掃除までしていたのだろうか?

 古いチェストにトレイを置き、開け放たれた天窓から外を覗いた。

「コウ」

「ここにいるよ!」

 明るい声が返ってきた。赤毛もいるのか? 声音からして、険悪なムードには、なっていなさそうだが。

「コーヒーをどうかな?」

 白い窓枠からひょこっと顔を覗かせたコウにそう言うと、彼は嬉しそうに笑って、カップを二つ手に取った。

「きみもおいでよ。夕陽が綺麗だよ」
「ぼくはいいよ、ここで」

 僕はきみほど心の広い人間じゃないんだ。まだ、あいつと肩を並べて夕陽を鑑賞できるほど、寛容な気分にはなれない。

「ありがとう、アル」と、礼を言っただけで、コウもしつこく僕を誘うことはしなかった。


 しばらくは、窓外から聞こえてくる話声に耳をそばだてていた。日本語だ。ところどころ英単語が混ざるとはいっても、聞き耳を立てたところで意味はとれない。それでも、こんな場所でさっきのような言い争いになったらと思うと気が気じゃなかった。けれど僕のそんな不安とは裏腹に、コウの声音は終始落ち着いていて、厳しく諭すような力強さがあった。赤毛は――、居間での会話と同じ。どこか逃げ腰な、言い訳を並べているような上擦った声だ。喋っている内容などまるで判らなかったけれど、そんな気がした。


 だから、僕の心配は杞憂なのだと、ほっとして自分のカップを口に運んだ。そう待たずしてコウが戻ってきた。飲み終えたカップを窓枠に置くと、彼は笑って僕を誘った。

「アル、おいでよ。彼はもう行っちゃったから、気にしないで」

 行ったって、どこに? どうやって?

 狐につままれた気分で窓から身を乗り出し、傾斜する屋根瓦に素足をかける。暖かい。ゆっくりとコウの横に腰を下ろした。広々と開ける視界のどこにも、赤毛の姿はない。茜色に染まるひんやりとした空気に包まれた屋根と、豊かな葉を茂らせた梢がかかるばかりで。そして、遠くいくつも重なる屋根の連なり。

「ドラコは樹を伝って庭に下りたよ」

 僕の疑問に応えるようにコウは苦笑いし、ふっと表情を改め、彼との話し合いの内容を教えてくれた。

「あのバキバキになった椅子は、なんとかできると思う。ブラウンさんたちをこの家に受けいれさえすれば、修理してもらえる。ドラコにしてやられたよ。あの椅子を元にもどせるだけの技術があるのは、彼らくらいなんだ。だから、アル、きみさえ良ければ――」

 深々としたため息に、自嘲的な笑みが混じっている。僕は応えられなかった。黙したままどうすべきかを模索する。長すぎる沈黙に気持ちが萎えたのか、コウはごろりと屋根の上に横たわった。

「僕がここにいるだけで、皆に迷惑がかかるね」
「混同するんじゃないよ。きみが責任を感じることじゃない」

 ぼんやりと暮れゆく空を眺めている彼の髪を、そっと梳いた。その手のひらに頬を擦りつけてくる、無防備なコウ。こんな場所でさえ僕を誘惑する。

「僕のせいだよ。僕がいるから、彼もここにいる。面倒ごとを引き連れてくる。次々に飛び火して、燃え広がる」


 黄昏色に染まる空を受けて、コウ自身も紅く燃える。この透明な紅色に包まれたまま溶けてしまいそうに、儚い。

「アル、来て。僕の横に。ほら、見て、空が燃えているようだよ」
 
 紅く輝くコウが、腕を伸ばして僕を誘う。

「コウ、戻ろう」

 怖くなって、彼の手を掴んだ。強く腕を引いて起こし、抱きしめた。

「椅子なんてどうだっていい。スティーブには納得して、許してもらえるように、僕がなんとかする。だからこんなことに、きみの意に沿わないことに頷いたりしないで」

 きみが奴の尻拭いをする必要なんて、ない。僕たち――、いや、僕のために、奴の身勝手な提案を呑むことなんて、ないんだ。





しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

どうやら俺は悪役令息らしい🤔

osero
BL
俺は第2王子のことが好きで、嫉妬から編入生をいじめている悪役令息らしい。 でもぶっちゃけ俺、第2王子のこと知らないんだよなー

エートス 風の住む丘

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」  エートスは  彼の日常に  個性に  そしていつしか――、生き甲斐になる ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?   *****  今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。  

社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈

めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。 しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈ 記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。 しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。 異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆! 推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

処理中です...