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第二章
御伽噺 3.
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ハムステッドヒースで休憩した。近くのカフェでコーヒーを買って――。あまり歩きすぎるのもコウにはまだ負担のようだから、入り口近くの木陰で幹にもたれて。
広々とした緑の海原を涼やかな風が駆け抜ける。
「気持ちいいね」
コウが僕の肩に頭をもたせかける。目を瞑ったまま笑っている。少し汗ばんだ彼の髪を梳いて、風を通してあげた。
「眠ってしまいそうだよ。この頃ずっと寝てばかりなのに」
「少し眠るといい。まだ身体が本調子じゃないんだ」
「起こしてくれる?」
返事の代わりに、そっと膝枕してあげた。
「アル」
「ん?」
「好きだよ」
「うん」
膝の上の彼の黒髪に、キスを落とした。
僕の大切なコウ。こうしてきみの安らかな眠りの番ができるだけで、僕は幸せに満たされる。こんなふうに、二人でいられるだけでいい――。
久しぶりにこの家の住人全てが揃う夕食は、キッチンではなく居間でとる。スティーブのディナーテーブルを、ショーンが引っ張りだしてくれたらしい。マリーがいるということは、彼女の采配か――。仕方がない。ティーテーブルでは狭すぎるし、椅子も足りない。チッペンデール――、スティーブの大切なアンティークコレクションに傷でもつけられはしないかと、冷や冷やものだ。
料理中は気が散るから入ってくるなという赤毛の希望通り、皆、大人しくソファーで待っていた。コウは部屋で休んでいる。やはり病み上がりに動きすぎて疲れてしまったらしい。「楽しかった」とコウは笑ってくれていたけれど。なんだかふわふわと足下が覚束ない様子が心配で、夕食まで横になるように、と僕が部屋へ追い立てた。
ショーンも、マリーも赤毛の議題に触れようとせず、当たり障りのない雑談でお茶を濁していた。それより二人とも、コウの体調の方が気になるらしい。やたらと昼間の外出の様子を訊きたがった。ランチの後アンティークマーケットへ行った話から、白雪姫の民俗学的解釈の話になった。ショーンが多いに興味を示したからだ。
「そんな解釈聴いたことないよ! さすがコウだな! 森は異界であるってのは、まぁ定説なんだけどな。やっぱりそこからが、その辺の奴らが考えるようなこととは視点が違うんだよなぁ、コウはさ!」
興奮して喋りだすショーンには、口を挟むのも容易じゃない。
「コウの意見は独創的なの? 定説って、例えば? きみはどう解釈してるの?」
「そうだな、よくいわれれるのは白雪姫という処女の、女への成長物語だな。家を出た白雪姫は、小人の家で家事と従順さを学ぶことで良縁を得て、貞淑な妻になるのさ」
ショーンはちらりと黙って聴いているマリーを見遣り、その口許に馬鹿にするような歪な笑みを浮かべる。
「だけど19世紀半ばには、まるきり逆のこんな解釈もあるんだ。白雪姫ってのは性悪だったんだってな。父親である王様とデキちまって、お妃に城を追われるはめになったんだよ。それを色仕掛けで猟師を落として助けてもらい、小人たちの家に囲われるのさ。白雪姫が来てからも小人の家のベッドの数は変わらず。姫は日替わりでそれぞれの小人の相手をしてやってた、ってことさ」
マリーがきゅっと眉をひそめた。
「小人じゃなく山に住む盗賊だったって類話も多い。それから、小人イコール成人前の少年って説もある。若者ばかりを一所に集めて大人になるための成人の儀式を行う、その儀式の供物、つまり彼らに共有される娼婦が、白雪姫なんだよ。この話は民俗学的には、山間部の青少年の性風俗を表した暗喩なのさ」
マリーは我慢ならないようすで席を立った。「時間になったら呼んでちょうだい」と吐き捨てるように言い、居間を出ていく。
「なんだ、意外に初心なんだな!」
バタンッ、と大きな音を立てて閉められたドアに向かって、ショーンはニヤニヤいやらしげな笑みを向けている。この男の、この無神経さ――。この二人、これだから溝が埋まらないんだ。いや、この場合マリーは悪くない。女性のいる席でするような話じゃないだろう。まったく、こいつの神経を疑わずにはいられない。明確な悪意すら感じられるこんな下品な解釈に、コウだって頷くはずが――。
――そのものだからか?
ふとあの時の、赤毛の意味ありげな一言を思いだした。あいつも、今のショーンと同じ、蔑むような笑みを浮かべて――。
白雪姫という呼び方に、そんな意味を込めていたのか――。
あまりの腹立たしさに拳が震えた。これは僕に対する侮辱だけじゃない。母をも侮辱しているんだ。あの、貞淑の鏡のようにいわれ、今なお多くのファンを魅了し、慕われている母を――。
「コウも、そんな解釈があるって知ってるのかな」
彼はこんな話はしなかった。生きる世界の違う、地の精霊と白雪姫の純粋な恋物語なのだ、と言ってくれた。愛するがゆえに、その命を奪って精霊界に迎える決心がつかず、精霊王は彼女に死と再生の儀式を施すことで境界を取り払い、人間のままの白雪姫を迎え入れ、愛したのだ、と。だからこの地上に、精霊の血を引く者が産まれることになったのだ、と。そして、彼女の子孫たちを、地の精霊王は今なお守護している――。
――きみは精霊の祝福を受けているんだよ。
コウは誇らしげに、そう言ってくれたのだ。
母がその美貌から、白雪姫のよう、と呼ばれていたからといって、その子孫に違いないというのはあまりにも飛躍しすぎている。何の根拠もないじゃないか――。
御伽噺をテーマに扱った心理学の講義を受けたこともあるけれど、そもそも類話が多すぎるし、そこに見出せる解釈はどうとでも変わる。伝承説話なんて、語り手の数だけ解釈があるといっていい。
それでも、コウが憶することなく話してくれたことが、胸に響いた。
以前、この飾り棚の母の面影を映した人形は、アーノルドと精霊との契約によって守られている異界へつながる媒体なのだ、とコウは話してくれた。それはコウの想い、薄幸だった彼女の魂の安寧を祈る、誤解を恐れない思いやり深く優しい解釈だ。
嬉しかった。たとえ信じることはできなくても――。
僕が父に棄てられた事実は、変わらない。けれど彼には彼なりの、如何ともしがたい母への深い想いと葛藤があった。それゆえに落ちた妄想世界だ。コウはそんな彼の狂気に目を逸らすことなく向き合ってくれたのだ。そして、これまで誰にも見出すことのできなかった、彼を掬いあげる方法を提示してくれた。僕のために――。僕を父から解き放ってくれるために――。
宗教もオカルトも、メランコリックな心を鎮めるための中間領域にすぎない――。それでも、そこには解釈する側の深い愛が込められている。だからこそ、慰められるんじゃないか。
それを、赤毛も、この男も――。
許せない。
広々とした緑の海原を涼やかな風が駆け抜ける。
「気持ちいいね」
コウが僕の肩に頭をもたせかける。目を瞑ったまま笑っている。少し汗ばんだ彼の髪を梳いて、風を通してあげた。
「眠ってしまいそうだよ。この頃ずっと寝てばかりなのに」
「少し眠るといい。まだ身体が本調子じゃないんだ」
「起こしてくれる?」
返事の代わりに、そっと膝枕してあげた。
「アル」
「ん?」
「好きだよ」
「うん」
膝の上の彼の黒髪に、キスを落とした。
僕の大切なコウ。こうしてきみの安らかな眠りの番ができるだけで、僕は幸せに満たされる。こんなふうに、二人でいられるだけでいい――。
久しぶりにこの家の住人全てが揃う夕食は、キッチンではなく居間でとる。スティーブのディナーテーブルを、ショーンが引っ張りだしてくれたらしい。マリーがいるということは、彼女の采配か――。仕方がない。ティーテーブルでは狭すぎるし、椅子も足りない。チッペンデール――、スティーブの大切なアンティークコレクションに傷でもつけられはしないかと、冷や冷やものだ。
料理中は気が散るから入ってくるなという赤毛の希望通り、皆、大人しくソファーで待っていた。コウは部屋で休んでいる。やはり病み上がりに動きすぎて疲れてしまったらしい。「楽しかった」とコウは笑ってくれていたけれど。なんだかふわふわと足下が覚束ない様子が心配で、夕食まで横になるように、と僕が部屋へ追い立てた。
ショーンも、マリーも赤毛の議題に触れようとせず、当たり障りのない雑談でお茶を濁していた。それより二人とも、コウの体調の方が気になるらしい。やたらと昼間の外出の様子を訊きたがった。ランチの後アンティークマーケットへ行った話から、白雪姫の民俗学的解釈の話になった。ショーンが多いに興味を示したからだ。
「そんな解釈聴いたことないよ! さすがコウだな! 森は異界であるってのは、まぁ定説なんだけどな。やっぱりそこからが、その辺の奴らが考えるようなこととは視点が違うんだよなぁ、コウはさ!」
興奮して喋りだすショーンには、口を挟むのも容易じゃない。
「コウの意見は独創的なの? 定説って、例えば? きみはどう解釈してるの?」
「そうだな、よくいわれれるのは白雪姫という処女の、女への成長物語だな。家を出た白雪姫は、小人の家で家事と従順さを学ぶことで良縁を得て、貞淑な妻になるのさ」
ショーンはちらりと黙って聴いているマリーを見遣り、その口許に馬鹿にするような歪な笑みを浮かべる。
「だけど19世紀半ばには、まるきり逆のこんな解釈もあるんだ。白雪姫ってのは性悪だったんだってな。父親である王様とデキちまって、お妃に城を追われるはめになったんだよ。それを色仕掛けで猟師を落として助けてもらい、小人たちの家に囲われるのさ。白雪姫が来てからも小人の家のベッドの数は変わらず。姫は日替わりでそれぞれの小人の相手をしてやってた、ってことさ」
マリーがきゅっと眉をひそめた。
「小人じゃなく山に住む盗賊だったって類話も多い。それから、小人イコール成人前の少年って説もある。若者ばかりを一所に集めて大人になるための成人の儀式を行う、その儀式の供物、つまり彼らに共有される娼婦が、白雪姫なんだよ。この話は民俗学的には、山間部の青少年の性風俗を表した暗喩なのさ」
マリーは我慢ならないようすで席を立った。「時間になったら呼んでちょうだい」と吐き捨てるように言い、居間を出ていく。
「なんだ、意外に初心なんだな!」
バタンッ、と大きな音を立てて閉められたドアに向かって、ショーンはニヤニヤいやらしげな笑みを向けている。この男の、この無神経さ――。この二人、これだから溝が埋まらないんだ。いや、この場合マリーは悪くない。女性のいる席でするような話じゃないだろう。まったく、こいつの神経を疑わずにはいられない。明確な悪意すら感じられるこんな下品な解釈に、コウだって頷くはずが――。
――そのものだからか?
ふとあの時の、赤毛の意味ありげな一言を思いだした。あいつも、今のショーンと同じ、蔑むような笑みを浮かべて――。
白雪姫という呼び方に、そんな意味を込めていたのか――。
あまりの腹立たしさに拳が震えた。これは僕に対する侮辱だけじゃない。母をも侮辱しているんだ。あの、貞淑の鏡のようにいわれ、今なお多くのファンを魅了し、慕われている母を――。
「コウも、そんな解釈があるって知ってるのかな」
彼はこんな話はしなかった。生きる世界の違う、地の精霊と白雪姫の純粋な恋物語なのだ、と言ってくれた。愛するがゆえに、その命を奪って精霊界に迎える決心がつかず、精霊王は彼女に死と再生の儀式を施すことで境界を取り払い、人間のままの白雪姫を迎え入れ、愛したのだ、と。だからこの地上に、精霊の血を引く者が産まれることになったのだ、と。そして、彼女の子孫たちを、地の精霊王は今なお守護している――。
――きみは精霊の祝福を受けているんだよ。
コウは誇らしげに、そう言ってくれたのだ。
母がその美貌から、白雪姫のよう、と呼ばれていたからといって、その子孫に違いないというのはあまりにも飛躍しすぎている。何の根拠もないじゃないか――。
御伽噺をテーマに扱った心理学の講義を受けたこともあるけれど、そもそも類話が多すぎるし、そこに見出せる解釈はどうとでも変わる。伝承説話なんて、語り手の数だけ解釈があるといっていい。
それでも、コウが憶することなく話してくれたことが、胸に響いた。
以前、この飾り棚の母の面影を映した人形は、アーノルドと精霊との契約によって守られている異界へつながる媒体なのだ、とコウは話してくれた。それはコウの想い、薄幸だった彼女の魂の安寧を祈る、誤解を恐れない思いやり深く優しい解釈だ。
嬉しかった。たとえ信じることはできなくても――。
僕が父に棄てられた事実は、変わらない。けれど彼には彼なりの、如何ともしがたい母への深い想いと葛藤があった。それゆえに落ちた妄想世界だ。コウはそんな彼の狂気に目を逸らすことなく向き合ってくれたのだ。そして、これまで誰にも見出すことのできなかった、彼を掬いあげる方法を提示してくれた。僕のために――。僕を父から解き放ってくれるために――。
宗教もオカルトも、メランコリックな心を鎮めるための中間領域にすぎない――。それでも、そこには解釈する側の深い愛が込められている。だからこそ、慰められるんじゃないか。
それを、赤毛も、この男も――。
許せない。
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