21 / 219
第一章
模様 3
しおりを挟む
家に帰りついたときにはとっくに夜中をまわっていた。コウはやはり起きているらしい。キッチンには灯りが燈り、カーテン越しに影が揺れている。庭のテントにひと気はない。赤毛もまだ室内にいるのだろうか。――灯りの向こう側に浮かぶ不埒な幻影から目を逸らし、玄関のドアを開ける。ほとんど同時に、キッチンのドアからコウの顔が覗いた。泣き出しそうな張り詰めた顔をしているくせに、僕を見てほっとしたように笑う。
「おかえり、アルビー」
「こんな遅くまで起きてたの?」
「うん、その、いろいろとね――。何か飲む? お茶でも淹れようか?」
軽くハグして、髪にただいまのキスを落とす。コウは今、寒さに震える小鳥みたいだ。淋しくて震えていた? 僕の帰りを待ちわびていたの?
強く抱きしめてあげたかったのに、おずおずと背中に回されたコウの腕の感触に、あっ、と思い出して、屈めていた背筋を伸ばした。
「久しぶりに、ペイントしてきたんだ。以前から頼まれていて、ずっと延び延びになっていたから――」
手首まで下ろしたシャツのボタンを外し、めくってみせた。下に描かれた塗料が薄く透けて見える半透明の保護シートに覆われた腕を、コウはなんともいえない眼差しで見つめている。
「色素が定着するまで、こすらないように気をつけないといけないんだ」
「前にしてた、タトゥーみたいなの? 全身?」もどかしげに小首を傾げて上目遣いに僕を見る瞳が、怒っているみたいで――。
「アルに触れちゃ駄目なの?」
膨れっ面が可愛くて、そのリスみたいに膨らんだ頬を両手で覆った。
「キスはできるよ」
突き出している唇を親指でなぞる。
「いつまで?」
「コウが望むなら、いつまででも、どこにでもキスしてあげるよ」
「そうじゃなくて! いつまで触っちゃ駄目なの!」
「ん? 明日には――」
「なんだ! もっと、ずっと、そうしてなきゃいけないのかと思ったよ!」
深く安堵の吐息をもらすコウ。拗ねていた口許に笑みが戻った。
「そんな長くかかっていたら、僕の方が、コウが足りなくて死んでしまうよ」
手のひらを滑らせる。柔らかな頬、細い首、小さな形の良い頭。後頭部を支えて上向かせる。僕の可愛いコウ――。目が赤い。泣いていたの?
どうして、きみにはわかってしまうのだろう――。
僕はけして、きみに対して怒っているわけではないんだ。ただ淋しかっただけで、怒ったわけではないのに――。
なのにどうして、きみに触れるこの躰からは、怒りが沁みでてしまうのだろう。どうしてきみはこんな僕を、いつも黙って受け入れてくれるのだろう。コウの方こそ、僕に腹を立てて然るべきだと思うのに……。
「もう休んだ方がいいよ。僕は今日は下で寝る。――彼がいないならね」
そうだ……。あの赤毛。たまに僕の場所に陣取って寝ているのだった。
「あ、うん。ドラコはいないよ。一度帰ってきて、また出掛けたんだ。でも、今日は僕が下で寝るからアルはベッドを使って。明日……もう今日だね。朝早いんだろ?」
「いや、それは別に」
返事も聞かずに、コウは出しっぱなしていた掃除道具をてきぱきと片づけ始めている。そんな彼をぼんやりと眺めていた僕をくるりと振り返ると、「アル、おやすみ」とつま先立ちして軽いキスをくれる。
「コウ、」
「今日は寝過ごしてごめん。明日はちゃんと朝ご飯とお弁当を作るからね。だからね、僕が、居間の方がいいんだ」
どうやら僕に有無を言わせる気はないらしい。こう見えて、コウは頑固だ。僕だってよく知ってるよ――。
翌日、仕事帰りにエディの店で塗料を落とし、発色具合をチェックしてもらった。
問題なく綺麗に仕上がっているそうで、エディは満足そうに鼻歌を歌いながら、全身にユーカリオイルを塗り込んでくれている。それよりシャワーを浴びたい。でも、色が定着するまでもう一日我慢しなきゃいけない。
――エディの臭いが気になって仕方ない。ユーカリ、緑茶、レモン、ライム、クローブ、微かな刺激がぶつかり合い混ざりあう独特の香り。それがエディの香り。そこに褐色の肌に艶をのせ滑り落ちる汗が纏いつく。僕のと混ざり合う臭気が――、疎ましい。
もう塗料に気を遣う必要もない。思いきりコウを抱きしめて、ただいまのキスをした、いところだったけれど、シャワーを浴びてないのが気になって、軽いキスしかできなかった。
コウはさっそく、「見せて」ときらきらと瞳を輝かせてくれていたけど、仕方なく「まだだよ」と断った。
シャツを脱いだら、直に肌に顔を寄せられたら――、独特の臭いに気づかれるような気がして。
もう一日待てば、この臭いも脱ぎ捨てられる。幸運なことに、未だに赤毛とは顔を合わせていないのだし。赤毛のあんな一言に囚われているなんて、馬鹿げている、と解ってはいるのだけど――。
「明日が一番綺麗に発色するらしいから。一番をコウに見て欲しいんだ」
にっこり笑って誤魔化すと、コウはちょっと拗ねたようだった。けれどすぐに、「楽しみだね」と笑顔をくれた。
やはり思った通りだ。コウは、僕が躰に描くペイントに特別な愛着をもってくれている。でも僕にとっては、この無邪気なコウの笑顔は、複雑な悔恨に結びつく呼び水だ――。
だからあれ以来、なんとなくエディの店から遠ざかっていた。けれどコウがこんなふうに喜んでくれるなら、描いてもらって良かったのだと思える。あの時とは違う図案で、コウの心も、躰も、もっと優しく包んで塗り替えてあげればいいのだ――、と。
それにしても――。赤毛は今日もいない。ついさっき出かけたのだそうだ。
そしてコウは、一日、図書館には行かずに家にいたらしい。夏の訪れとともに陽射しがきつくなって、少し貧血気味だという。
「大丈夫? 僕も、もっと早く帰ってくるようにするから」
「平気だよ。ドラコも、ショーンも忙しくしてて、日中は家にいないからさ。一人でゆっくり休んでたよ。それに、マリーが優しいんだ。ついで、っていって、夕食を買ってきてくれたんだよ」
僕の肩にもたれて、コウは弛緩しきっている。なんだろう? なんだかコウの影が薄い。ものすごく具合が悪そう、というわけでもなさそうなのに――。
「平気だよ、アルビー」
僕にではなく、自分自身に言い聞かせるように、コウは呟いた。
「おかえり、アルビー」
「こんな遅くまで起きてたの?」
「うん、その、いろいろとね――。何か飲む? お茶でも淹れようか?」
軽くハグして、髪にただいまのキスを落とす。コウは今、寒さに震える小鳥みたいだ。淋しくて震えていた? 僕の帰りを待ちわびていたの?
強く抱きしめてあげたかったのに、おずおずと背中に回されたコウの腕の感触に、あっ、と思い出して、屈めていた背筋を伸ばした。
「久しぶりに、ペイントしてきたんだ。以前から頼まれていて、ずっと延び延びになっていたから――」
手首まで下ろしたシャツのボタンを外し、めくってみせた。下に描かれた塗料が薄く透けて見える半透明の保護シートに覆われた腕を、コウはなんともいえない眼差しで見つめている。
「色素が定着するまで、こすらないように気をつけないといけないんだ」
「前にしてた、タトゥーみたいなの? 全身?」もどかしげに小首を傾げて上目遣いに僕を見る瞳が、怒っているみたいで――。
「アルに触れちゃ駄目なの?」
膨れっ面が可愛くて、そのリスみたいに膨らんだ頬を両手で覆った。
「キスはできるよ」
突き出している唇を親指でなぞる。
「いつまで?」
「コウが望むなら、いつまででも、どこにでもキスしてあげるよ」
「そうじゃなくて! いつまで触っちゃ駄目なの!」
「ん? 明日には――」
「なんだ! もっと、ずっと、そうしてなきゃいけないのかと思ったよ!」
深く安堵の吐息をもらすコウ。拗ねていた口許に笑みが戻った。
「そんな長くかかっていたら、僕の方が、コウが足りなくて死んでしまうよ」
手のひらを滑らせる。柔らかな頬、細い首、小さな形の良い頭。後頭部を支えて上向かせる。僕の可愛いコウ――。目が赤い。泣いていたの?
どうして、きみにはわかってしまうのだろう――。
僕はけして、きみに対して怒っているわけではないんだ。ただ淋しかっただけで、怒ったわけではないのに――。
なのにどうして、きみに触れるこの躰からは、怒りが沁みでてしまうのだろう。どうしてきみはこんな僕を、いつも黙って受け入れてくれるのだろう。コウの方こそ、僕に腹を立てて然るべきだと思うのに……。
「もう休んだ方がいいよ。僕は今日は下で寝る。――彼がいないならね」
そうだ……。あの赤毛。たまに僕の場所に陣取って寝ているのだった。
「あ、うん。ドラコはいないよ。一度帰ってきて、また出掛けたんだ。でも、今日は僕が下で寝るからアルはベッドを使って。明日……もう今日だね。朝早いんだろ?」
「いや、それは別に」
返事も聞かずに、コウは出しっぱなしていた掃除道具をてきぱきと片づけ始めている。そんな彼をぼんやりと眺めていた僕をくるりと振り返ると、「アル、おやすみ」とつま先立ちして軽いキスをくれる。
「コウ、」
「今日は寝過ごしてごめん。明日はちゃんと朝ご飯とお弁当を作るからね。だからね、僕が、居間の方がいいんだ」
どうやら僕に有無を言わせる気はないらしい。こう見えて、コウは頑固だ。僕だってよく知ってるよ――。
翌日、仕事帰りにエディの店で塗料を落とし、発色具合をチェックしてもらった。
問題なく綺麗に仕上がっているそうで、エディは満足そうに鼻歌を歌いながら、全身にユーカリオイルを塗り込んでくれている。それよりシャワーを浴びたい。でも、色が定着するまでもう一日我慢しなきゃいけない。
――エディの臭いが気になって仕方ない。ユーカリ、緑茶、レモン、ライム、クローブ、微かな刺激がぶつかり合い混ざりあう独特の香り。それがエディの香り。そこに褐色の肌に艶をのせ滑り落ちる汗が纏いつく。僕のと混ざり合う臭気が――、疎ましい。
もう塗料に気を遣う必要もない。思いきりコウを抱きしめて、ただいまのキスをした、いところだったけれど、シャワーを浴びてないのが気になって、軽いキスしかできなかった。
コウはさっそく、「見せて」ときらきらと瞳を輝かせてくれていたけど、仕方なく「まだだよ」と断った。
シャツを脱いだら、直に肌に顔を寄せられたら――、独特の臭いに気づかれるような気がして。
もう一日待てば、この臭いも脱ぎ捨てられる。幸運なことに、未だに赤毛とは顔を合わせていないのだし。赤毛のあんな一言に囚われているなんて、馬鹿げている、と解ってはいるのだけど――。
「明日が一番綺麗に発色するらしいから。一番をコウに見て欲しいんだ」
にっこり笑って誤魔化すと、コウはちょっと拗ねたようだった。けれどすぐに、「楽しみだね」と笑顔をくれた。
やはり思った通りだ。コウは、僕が躰に描くペイントに特別な愛着をもってくれている。でも僕にとっては、この無邪気なコウの笑顔は、複雑な悔恨に結びつく呼び水だ――。
だからあれ以来、なんとなくエディの店から遠ざかっていた。けれどコウがこんなふうに喜んでくれるなら、描いてもらって良かったのだと思える。あの時とは違う図案で、コウの心も、躰も、もっと優しく包んで塗り替えてあげればいいのだ――、と。
それにしても――。赤毛は今日もいない。ついさっき出かけたのだそうだ。
そしてコウは、一日、図書館には行かずに家にいたらしい。夏の訪れとともに陽射しがきつくなって、少し貧血気味だという。
「大丈夫? 僕も、もっと早く帰ってくるようにするから」
「平気だよ。ドラコも、ショーンも忙しくしてて、日中は家にいないからさ。一人でゆっくり休んでたよ。それに、マリーが優しいんだ。ついで、っていって、夕食を買ってきてくれたんだよ」
僕の肩にもたれて、コウは弛緩しきっている。なんだろう? なんだかコウの影が薄い。ものすごく具合が悪そう、というわけでもなさそうなのに――。
「平気だよ、アルビー」
僕にではなく、自分自身に言い聞かせるように、コウは呟いた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる