夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第一章

規則 2.

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 やり残していたパソコン作業を居間で終わらせて部屋へ戻ってみると、ウォールライトの梟の孕むオレンジ色の灯の下で、コウは布団に包まってすっかり眠りに落ちていた。

 待っていてくれる、って言ったのに――。

 でも、こうなるのは想定していたからかまわない。居間で話し合っていた時から、彼は何度も欠伸を噛み殺していたもの。

 指を挟んだままの本をそっと抜いてサイドボードに置き、ずり落ちている頭を枕の上に横たえた。可哀想に。下瞼が疲労と睡眠不足で黒ずんでいる。

 コウはおそらく、昨夜はあまり寝ていない。皆が寝静まってから、きっとまた、キッチンや居間、それに倉庫の掃除でもしていたのだろう。それとも、スコーンを焼いていたのか。何か総菜でも作っていたのか――。
 僕の帰りが遅い夜は、コウはそんなふうにして、自分の不安をやりすごす。気持ちが落ち着くからと言って。僕らの役に立てることが、嬉しいのだと言って。そうやって、必死で自分の居場所を確認する。役に立てないと、僕の愛を失ってしまうとでも思っているかのように――。僕はそんな彼の無茶を止めさせたいのに。でも、なかなか上手くいかなかった。彼は、自分は家事が趣味なのだと本気で信じていたから。その思いの根拠を、けして自分で探ろうとはしてくれなかった。

 でも、今日のコウは違った。
 彼を不安に落とし、強迫的な行動に駆り立てるものが何なのか、やっと理解し、捉まえてくれたのだ。


 ――遅くなっても帰ってきて。少しでも一緒にいたい。

 嬉しくてたまらない。コウはやっと気づいてくれたんだ。僕の不在が、彼の心を引っ掻き、傷つけ、代償行動では埋められないほどの穴を開けるのだ、と。こんなわずかな言葉を口にすることさえ、我がままだ、とずっと抑え込んでいたのだ、と――。


 きみの抱えている抑圧から解き放ってあげたい。きみはこんなにも僕を愛していて、僕から愛されているのだ、と気づいて欲しいんだ。きみの居場所は僕の横だよ。

 きみ自身で、僕を捉まえて――。もっと、本当の心を僕に見せて――。


「愛してるよ、コウ」

 だから、今晩は許してあげる。この無防備な寝顔を見つめるだけで我慢するよ。


 あまり触れるとこれだけでは済まなくなるから、子どものように丸まって眠っている彼の手を、そっと握るに留めておいた。それだけで僕は満たされる。繋がっているのだ、と安心できる。


 こんなにも簡単に、安らかな静寂に僕をいざなってくれる――。そんな相手は、きみだけなんだよ。




 額に落ちる優しいキスに目が開いた。

「ごめん、アル、起こしちゃったかな?」
「コウは僕に謝ってばかりだ」

 謝らなくていい。いてくれるだけでいいんだ。僕の横に。こうして、抱きしめることのできる位置に。

 可愛い唇を唇で塞いだ。我慢した分だけ、衝動を抑えられない。この手で、唇で、確かめたい。

 コウ、僕を確認して。きみ自身で。

「アル――」
「ん?」

 唇を離すとコウの両手が、僕の頬を包みこんだ。きらきらした瞳で僕を見あげて。確かめる。指先で。手のひら全体で。僕の輪郭。僕の存在。確かにここにいるということを。

「本当は、こんなふうにきみを抱きしめたくて起こしたんだ」

 そして、首に腕をまわして、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「うん」

 知ってる。僕も同じだから――。



「コウ! 起きろ! いつまで寝てるんだ! 今日は出掛けるって言っただろ! メシは? メシ、メシ、メシ!」


 ふざけるな、赤毛!

 ドアを蹴破りかねない勢いで、赤毛がわめいている。この朝っぱらから――。あんなやつ、放っておけばいいんだ! 

 それなのに、

「すぐ行くよ!」

 頬におざなりのキスを残し、コウは僕の腕をすり抜けて、慌てて服を着ている――。

 なんて悪夢だ……。

 
「あ、アルビー、今日は一日ドラコとロンドン観光する予定なんだ。だから夕食はいらない。今日の当番はショーンだからね」
「――――、」

 酷く落ち込んでいた。何て返したのかも、思い出せないほどに――。

「平気。それからショーンが戻るのは夕方だって。だから、アルは気にせずゆっくり休んで。ひどく疲れた顔をしてるよ」

 きみ以外のこと、いったい何を気にするって言うんだ?

 上半身を起こしただけで呆然ぼうぜんとしている僕の頬に、ベッドに膝をあげて顔をよせ、もう一度軽いキスをくれると、コウはあたふたと部屋を後にしてしまった。


 ドアの隙間から垣間見えた小憎たらしい顔が、ニヤリと笑っていた。






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