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第一章
疑惑 6
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「コウ!」
車から降りるなり、思わず目をむいて大声を上げていた。開け放たれた玄関先に、ずぶ濡れのコウが突っ立っていたのだ。
「なんて恰好をしているんだ!」
赤毛も、ショーンもいるっていうのに!
それなのに、僕の剣幕を見ても肝心の彼はきょとんと首を傾げるだけだ。間を置いて「あ、」と呟き、はにかんだように、にこっと彼は微笑んだ。
「平気だよ。今日は気温も高いしすぐに乾くよ」
「駄目。着替えておいで」
「先に庭をどうにかしないと……。また汚れると思うし」
「駄目、透けてる」
喉の下から伸びる折れそうに細い鎖骨。華奢な肩、腕――。筋肉のない薄い胸板に白いシャツが透けて貼り付いている。それに――。
コウの耳許に口を寄せ、囁いた。「それとも、僕を誘ってるの?」と。彼は一瞬あっけにとられ、それからつくづくと自分の胸元に目をやり、真っ赤になって室内に駆けていった。可愛い――。ゴムボールが跳ねてるみたいだ。とりあえずほっとして、振り返る。
良かった。バニーも、もういない。
見るでもなく庭を見回した。芝生の上には、視界に入れるのも腹立たしいテントが今日もハタハタと風を受けて揺れている。余分な部屋はないというのに、無理やり居ついたあの赤毛のものだ。なんだって、この家の庭にこんなものを受け入れなければならないのか、僕はいまだに納得いかない。全てはマリーの、そしてあの赤毛の我がままのせいだ。
そのテントの周囲が水浸しになっている。ぬかるんでドロドロだ。コウはまた自分一人で、これを何とかしようとしていたのか。あんなずぶ濡れのままで――。
「アル、ごめん。仕事はよかったの?」
「今日は土曜日だよ。義務じゃない」
戻ってきた彼の頬に、ただいまのキスをする。頬が冷たい。きっと、濡れたままでいたからだ。
「マリーは?」
「部屋で拗ねてる」
「ショーンの方は? 何が原因なの?」
話しながら家に入り、キッチンに向かった。居間には赤毛がいるだろうから。そこでなければ、スティーブの書斎だ。
コウが僕のためにお茶を淹れてくれている。お腹は空いてないか、といつものように訊ねてくれる。彼はいつだって僕のことを一番に気づかってくれる。
コウの話によると、今朝の騒動の発端は本当にどうでもいいような、つまらないことで――。キャンプから戻ってきたマリーが、風呂に浸かろうとバスルームに向かうと、使用済みコンドームが置きっ放しになっていたらしい。僕は昨夜はいなかったし、ショーンの部屋にはミラが泊まっていた。公共スペースだから次からは気をつけて、とそれで終わる話だ。それを彼女はがなりたて、わめきちらし、ここぞとばかりにショーンを追い出しにかかったわけだ。コウには申し訳ないが、僕は内心マリーを応援してしまった。だが、ショーンの方も負けてない。欲求不満のモテない女のひがみだ、と彼女を侮辱し、火に油を注いだらしい。
そしてその時、庭の水やりをしていたコウは、この騒ぎに仰天してホースを取り落として水を被り、栓を閉めるのも忘れて揉めている彼らのもとに駆けつけ仲裁に入り、今に至る、ということだ。馬鹿馬鹿しい。こんな下らないことに巻き込まれて、可哀想に――。
「あ、そうじゃないんだ。栓を締め忘れたのはその通りなんだけど、ずぶ濡れになったのは、自分で水を被ったからだよ」
なぜ、と問い質す僕の視線に、コウは急に、怯えたように瞳を震わせた。
「その、暑かったから――」
「今日はそこまで気温は高くないよ」
「でも、その、熱くて――」
本当は何をしていたの、と訊ねたかったけれど止めにした。コウは確かに、何かに怯えていたから。
だからさりげなく、話をマリーとショーンに戻した。どうやって収めたのか、と。
「ドラコが仲裁してくれたんだ」
「――なんて?」
「うるさい、だまれって。公共スペース云々言うのなら、居間でわめくなって」
赤毛の登場にムッときたけれど、これには思わず吹き出してしまった。マリーにはこれくらい言ってやるのでちょうどいい。コウは優し過ぎるから――。
「こうして一緒に暮らす人数が増えると、トラブルはつきものだよ。もっと明確な規則を決めた方がいいかもしれないね。きみが来たばかりの時にそうしたみたいにね」
「うん」と頷きながら、彼はどこか曖昧な笑みを浮かべた。自分もかつてはマリーのように、ひとつ、ひとつのことに腹を立て、唇を尖らせて文句を言っていたのを思い出しているみたいだ。コウはいいんだ。あれはあれで、可愛かったから。こんな些細なことで内省し、すぐに自罰的に落ち込んでしまうから、僕がちゃんと彼をみていてあげなくちゃいけない。
「それで、僕はどちらと先に話すべきなのかな?」
「あ、ショーンはミラと出かけてるんだ」
「じゃあ、マリーを宥めてくるよ」
なんだか沈み込んでしまったコウの頭をくしゃくしゃと撫でた。絡みつくことのない、さらさらとした絹糸のような黒髪の手触りは、今日も心地よい。ほっとする。
カタンッ、と席を立ってキッチンを出ようとしたら、背後から抱きすくめられた。背中に、柔らかで温かな頬がすりつけられる。胸元に回されたコウの手が、僕のシャツをきゅっと握り込んでいる。
「アル、仕事、大変なのは解ってるんだ。ごめん。でも、お願い、――遅くなっても帰ってきて。もう後ちょっとしか一緒にいられないだ。少しでも一緒にいたい。ごめん、我がままだって解ってる。でも、」
回された手を僕の手で覆って、ぎゅっと握って――。
「コウは、もっと僕に我がままを言っていいんだよ」
もう永遠に、こうしていたい――。
車から降りるなり、思わず目をむいて大声を上げていた。開け放たれた玄関先に、ずぶ濡れのコウが突っ立っていたのだ。
「なんて恰好をしているんだ!」
赤毛も、ショーンもいるっていうのに!
それなのに、僕の剣幕を見ても肝心の彼はきょとんと首を傾げるだけだ。間を置いて「あ、」と呟き、はにかんだように、にこっと彼は微笑んだ。
「平気だよ。今日は気温も高いしすぐに乾くよ」
「駄目。着替えておいで」
「先に庭をどうにかしないと……。また汚れると思うし」
「駄目、透けてる」
喉の下から伸びる折れそうに細い鎖骨。華奢な肩、腕――。筋肉のない薄い胸板に白いシャツが透けて貼り付いている。それに――。
コウの耳許に口を寄せ、囁いた。「それとも、僕を誘ってるの?」と。彼は一瞬あっけにとられ、それからつくづくと自分の胸元に目をやり、真っ赤になって室内に駆けていった。可愛い――。ゴムボールが跳ねてるみたいだ。とりあえずほっとして、振り返る。
良かった。バニーも、もういない。
見るでもなく庭を見回した。芝生の上には、視界に入れるのも腹立たしいテントが今日もハタハタと風を受けて揺れている。余分な部屋はないというのに、無理やり居ついたあの赤毛のものだ。なんだって、この家の庭にこんなものを受け入れなければならないのか、僕はいまだに納得いかない。全てはマリーの、そしてあの赤毛の我がままのせいだ。
そのテントの周囲が水浸しになっている。ぬかるんでドロドロだ。コウはまた自分一人で、これを何とかしようとしていたのか。あんなずぶ濡れのままで――。
「アル、ごめん。仕事はよかったの?」
「今日は土曜日だよ。義務じゃない」
戻ってきた彼の頬に、ただいまのキスをする。頬が冷たい。きっと、濡れたままでいたからだ。
「マリーは?」
「部屋で拗ねてる」
「ショーンの方は? 何が原因なの?」
話しながら家に入り、キッチンに向かった。居間には赤毛がいるだろうから。そこでなければ、スティーブの書斎だ。
コウが僕のためにお茶を淹れてくれている。お腹は空いてないか、といつものように訊ねてくれる。彼はいつだって僕のことを一番に気づかってくれる。
コウの話によると、今朝の騒動の発端は本当にどうでもいいような、つまらないことで――。キャンプから戻ってきたマリーが、風呂に浸かろうとバスルームに向かうと、使用済みコンドームが置きっ放しになっていたらしい。僕は昨夜はいなかったし、ショーンの部屋にはミラが泊まっていた。公共スペースだから次からは気をつけて、とそれで終わる話だ。それを彼女はがなりたて、わめきちらし、ここぞとばかりにショーンを追い出しにかかったわけだ。コウには申し訳ないが、僕は内心マリーを応援してしまった。だが、ショーンの方も負けてない。欲求不満のモテない女のひがみだ、と彼女を侮辱し、火に油を注いだらしい。
そしてその時、庭の水やりをしていたコウは、この騒ぎに仰天してホースを取り落として水を被り、栓を閉めるのも忘れて揉めている彼らのもとに駆けつけ仲裁に入り、今に至る、ということだ。馬鹿馬鹿しい。こんな下らないことに巻き込まれて、可哀想に――。
「あ、そうじゃないんだ。栓を締め忘れたのはその通りなんだけど、ずぶ濡れになったのは、自分で水を被ったからだよ」
なぜ、と問い質す僕の視線に、コウは急に、怯えたように瞳を震わせた。
「その、暑かったから――」
「今日はそこまで気温は高くないよ」
「でも、その、熱くて――」
本当は何をしていたの、と訊ねたかったけれど止めにした。コウは確かに、何かに怯えていたから。
だからさりげなく、話をマリーとショーンに戻した。どうやって収めたのか、と。
「ドラコが仲裁してくれたんだ」
「――なんて?」
「うるさい、だまれって。公共スペース云々言うのなら、居間でわめくなって」
赤毛の登場にムッときたけれど、これには思わず吹き出してしまった。マリーにはこれくらい言ってやるのでちょうどいい。コウは優し過ぎるから――。
「こうして一緒に暮らす人数が増えると、トラブルはつきものだよ。もっと明確な規則を決めた方がいいかもしれないね。きみが来たばかりの時にそうしたみたいにね」
「うん」と頷きながら、彼はどこか曖昧な笑みを浮かべた。自分もかつてはマリーのように、ひとつ、ひとつのことに腹を立て、唇を尖らせて文句を言っていたのを思い出しているみたいだ。コウはいいんだ。あれはあれで、可愛かったから。こんな些細なことで内省し、すぐに自罰的に落ち込んでしまうから、僕がちゃんと彼をみていてあげなくちゃいけない。
「それで、僕はどちらと先に話すべきなのかな?」
「あ、ショーンはミラと出かけてるんだ」
「じゃあ、マリーを宥めてくるよ」
なんだか沈み込んでしまったコウの頭をくしゃくしゃと撫でた。絡みつくことのない、さらさらとした絹糸のような黒髪の手触りは、今日も心地よい。ほっとする。
カタンッ、と席を立ってキッチンを出ようとしたら、背後から抱きすくめられた。背中に、柔らかで温かな頬がすりつけられる。胸元に回されたコウの手が、僕のシャツをきゅっと握り込んでいる。
「アル、仕事、大変なのは解ってるんだ。ごめん。でも、お願い、――遅くなっても帰ってきて。もう後ちょっとしか一緒にいられないだ。少しでも一緒にいたい。ごめん、我がままだって解ってる。でも、」
回された手を僕の手で覆って、ぎゅっと握って――。
「コウは、もっと僕に我がままを言っていいんだよ」
もう永遠に、こうしていたい――。
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