夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁

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第一章

疑惑 5

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 朝になる前に帰ろうと決めたのに、実際に戻ったのはお昼も過ぎてからだった。

 バニーのせいだ。彼がいきなり、あの赤毛の話題なんて出したから――。

 あの赤毛が、僕のコウをベッドに引っ張り込んでいるのではないか、とそんなイメージが脳裏を掠めて――。息ができなくなっていた。苦しくて、震えて、バニーにしがみついていた。朝まで――。

 バニーは帰って確かめれば済むことだ、と言ってくれたけれど。怖いなら、ついてきてくれるとも。そんな惨めな自分の姿をコウに見せるのが、嫌だったんだ。それに、僕は、これが僕の推論的思考にすぎないことを知っている。コウは僕を裏切ったりしない。彼はゲイではない。性的に男に惹かれる訳ではない。彼が愛しているのは僕だ。コウは、馬鹿みたいに正直なのだ。彼が話してくれないのも、嘘で誤魔化すことをしたくないからで――。


「そうだろう、バニー? 僕は実体のない妄想に脅えているだけなんだ」
「そうだよ、アル。おそらくね。僕をきみの子猫に逢わせてくれるなら、確信をもって頷いてあげられるのに」
「無理を言わないで――」

 
 性処理の相手を、あの真面目なコウに逢わせるなんて――。バニーは時々無茶を言う。気づかれるはずがない、といって。これまで誰にも疑われたことはないのだから、と――。
 
 彼は僕の良き先輩で、頼りになる導き手。倫理を逸脱することのない、完璧な心理士だ。その看板に偽りはない。僕はもう、彼のバイジーではないもの。彼は僕と関係をもった時点で、僕とのスーパービジョンも、個人分析も終了させた。けして、職業倫理に反した関係ではない。
 それに、僕たちの関係はもっと即物的なものなのだ。倫理など介入する余地などないほどの。こんな関係なんて、自分で処理するよりは深い快感を得られる、その程度のものにすぎないのだから。バニーだってそう言っている。

 けれど、こんな衝動にすぎないことでも、コウは、たんに生理的なもの、などと考えられるタイプではないのだ。彼の思考は未熟で幼い。そして夢見がちだ。判りやすく全ての関係性にラベルを貼って、組み分けせずにはいられない。彼にとってのセックスは愛の儀式なのだ。
 そして僕は、そんな彼の恋人だ。恋人というものは、お互い以外と性的な関係はもたないものだと信じて疑うこともない、幼い彼の――。

 でも、僕はそんな彼の感情を尊重する。愛しているから。バニーは、コウに逢わせる訳にはいかない。

 そう、これは、コウの信念でもあるのだから――。
 だから、彼が僕を裏切るはずが、ないじゃないか。



 ブランデーを少しもらって、少し眠った。マリーからの電話で起こされるまで。忘れていたんだ。テニスキャンプに参加していた彼女が帰ってくる日だっていうこと。
 電話の向こうでマリーはものすごい勢いでわめいていた。必死でなだめているコウの声が聞こえる。コウが電話を代わってくれた。『アル、どうしよう。マリーが帰ってくるなり、ショーンと大喧嘩始めちゃって……』泣きそうな声で訴えている。コウが僕の助けを求めてくれている。それなのに、マリーの声が煩すぎてよく聞こえない。

「コウ、大丈夫? すぐに、」
『ごめん、平気だよ、アル。忙しいんだろ? マリーは僕が宥めるから心配しないで。ドラコもいるし』
「すぐに帰るよ。いいんだよ、ちょうど一段落ついたところなんだ」
『仕事中ごめんね、アル』


 電話口で焦って彼を励ます僕を、バニーが声を殺して笑って見ている。

「朝食くらい食べていく時間はあるんだろう?」と電話を切った僕に、湯気の立つ皿を勧めてくる。
「シャワーも浴びてからの方がよさそうだよ」
「そんなに酷い顔をしてる?」
のきみが、そんな顔で戻る方が変に思われるってことだよ。車で送ってあげるから」


 まだ頭がずんと重かった。

 コウが、僕ではなく、あの赤毛を、頼るなんて……。そんなことがあっていいはずがない。

「アル」
「ん――」

 言われるままに朝食を食べて、シャワーを浴びて――。


 バニーに家まで送ってもらった。





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