7 / 219
第一章
疑惑 5
しおりを挟む
朝になる前に帰ろうと決めたのに、実際に戻ったのはお昼も過ぎてからだった。
バニーのせいだ。彼がいきなり、あの赤毛の話題なんて出したから――。
あの赤毛が、僕のコウをベッドに引っ張り込んでいるのではないか、とそんなイメージが脳裏を掠めて――。息ができなくなっていた。苦しくて、震えて、バニーにしがみついていた。朝まで――。
バニーは帰って確かめれば済むことだ、と言ってくれたけれど。怖いなら、ついてきてくれるとも。そんな惨めな自分の姿をコウに見せるのが、嫌だったんだ。それに、僕は、これが僕の推論的思考にすぎないことを知っている。コウは僕を裏切ったりしない。彼はゲイではない。性的に男に惹かれる訳ではない。彼が愛しているのは僕だ。コウは、馬鹿みたいに正直なのだ。彼が話してくれないのも、嘘で誤魔化すことをしたくないからで――。
「そうだろう、バニー? 僕は実体のない妄想に脅えているだけなんだ」
「そうだよ、アル。おそらくね。僕をきみの子猫に逢わせてくれるなら、確信をもって頷いてあげられるのに」
「無理を言わないで――」
性処理の相手を、あの真面目なコウに逢わせるなんて――。バニーは時々無茶を言う。気づかれるはずがない、といって。これまで誰にも疑われたことはないのだから、と――。
彼は僕の良き先輩で、頼りになる導き手。倫理を逸脱することのない、完璧な心理士だ。その看板に偽りはない。僕はもう、彼のバイジーではないもの。彼は僕と関係をもった時点で、僕とのスーパービジョンも、個人分析も終了させた。けして、職業倫理に反した関係ではない。
それに、僕たちの関係はもっと即物的なものなのだ。倫理など介入する余地などないほどの。こんな関係なんて、自分で処理するよりは深い快感を得られる、その程度のものにすぎないのだから。バニーだってそう言っている。
けれど、こんな衝動にすぎないことでも、コウは、たんに生理的なもの、などと考えられるタイプではないのだ。彼の思考は未熟で幼い。そして夢見がちだ。判りやすく全ての関係性にラベルを貼って、組み分けせずにはいられない。彼にとってのセックスは愛の儀式なのだ。
そして僕は、そんな彼の恋人だ。恋人というものは、お互い以外と性的な関係はもたないものだと信じて疑うこともない、幼い彼の――。
でも、僕はそんな彼の感情を尊重する。愛しているから。バニーは、コウに逢わせる訳にはいかない。
そう、これは、コウの信念でもあるのだから――。
だから、彼が僕を裏切るはずが、ないじゃないか。
ブランデーを少しもらって、少し眠った。マリーからの電話で起こされるまで。忘れていたんだ。テニスキャンプに参加していた彼女が帰ってくる日だっていうこと。
電話の向こうでマリーはものすごい勢いでわめいていた。必死でなだめているコウの声が聞こえる。コウが電話を代わってくれた。『アル、どうしよう。マリーが帰ってくるなり、ショーンと大喧嘩始めちゃって……』泣きそうな声で訴えている。コウが僕の助けを求めてくれている。それなのに、マリーの声が煩すぎてよく聞こえない。
「コウ、大丈夫? すぐに、」
『ごめん、平気だよ、アル。忙しいんだろ? マリーは僕が宥めるから心配しないで。ドラコもいるし』
「すぐに帰るよ。いいんだよ、ちょうど一段落ついたところなんだ」
『仕事中ごめんね、アル』
電話口で焦って彼を励ます僕を、バニーが声を殺して笑って見ている。
「朝食くらい食べていく時間はあるんだろう?」と電話を切った僕に、湯気の立つ皿を勧めてくる。
「シャワーも浴びてからの方がよさそうだよ」
「そんなに酷い顔をしてる?」
「仕事中のきみが、そんな顔で戻る方が変に思われるってことだよ。車で送ってあげるから」
まだ頭がずんと重かった。
コウが、僕ではなく、あの赤毛を、頼るなんて……。そんなことがあっていいはずがない。
「アル」
「ん――」
言われるままに朝食を食べて、シャワーを浴びて――。
バニーに家まで送ってもらった。
バニーのせいだ。彼がいきなり、あの赤毛の話題なんて出したから――。
あの赤毛が、僕のコウをベッドに引っ張り込んでいるのではないか、とそんなイメージが脳裏を掠めて――。息ができなくなっていた。苦しくて、震えて、バニーにしがみついていた。朝まで――。
バニーは帰って確かめれば済むことだ、と言ってくれたけれど。怖いなら、ついてきてくれるとも。そんな惨めな自分の姿をコウに見せるのが、嫌だったんだ。それに、僕は、これが僕の推論的思考にすぎないことを知っている。コウは僕を裏切ったりしない。彼はゲイではない。性的に男に惹かれる訳ではない。彼が愛しているのは僕だ。コウは、馬鹿みたいに正直なのだ。彼が話してくれないのも、嘘で誤魔化すことをしたくないからで――。
「そうだろう、バニー? 僕は実体のない妄想に脅えているだけなんだ」
「そうだよ、アル。おそらくね。僕をきみの子猫に逢わせてくれるなら、確信をもって頷いてあげられるのに」
「無理を言わないで――」
性処理の相手を、あの真面目なコウに逢わせるなんて――。バニーは時々無茶を言う。気づかれるはずがない、といって。これまで誰にも疑われたことはないのだから、と――。
彼は僕の良き先輩で、頼りになる導き手。倫理を逸脱することのない、完璧な心理士だ。その看板に偽りはない。僕はもう、彼のバイジーではないもの。彼は僕と関係をもった時点で、僕とのスーパービジョンも、個人分析も終了させた。けして、職業倫理に反した関係ではない。
それに、僕たちの関係はもっと即物的なものなのだ。倫理など介入する余地などないほどの。こんな関係なんて、自分で処理するよりは深い快感を得られる、その程度のものにすぎないのだから。バニーだってそう言っている。
けれど、こんな衝動にすぎないことでも、コウは、たんに生理的なもの、などと考えられるタイプではないのだ。彼の思考は未熟で幼い。そして夢見がちだ。判りやすく全ての関係性にラベルを貼って、組み分けせずにはいられない。彼にとってのセックスは愛の儀式なのだ。
そして僕は、そんな彼の恋人だ。恋人というものは、お互い以外と性的な関係はもたないものだと信じて疑うこともない、幼い彼の――。
でも、僕はそんな彼の感情を尊重する。愛しているから。バニーは、コウに逢わせる訳にはいかない。
そう、これは、コウの信念でもあるのだから――。
だから、彼が僕を裏切るはずが、ないじゃないか。
ブランデーを少しもらって、少し眠った。マリーからの電話で起こされるまで。忘れていたんだ。テニスキャンプに参加していた彼女が帰ってくる日だっていうこと。
電話の向こうでマリーはものすごい勢いでわめいていた。必死でなだめているコウの声が聞こえる。コウが電話を代わってくれた。『アル、どうしよう。マリーが帰ってくるなり、ショーンと大喧嘩始めちゃって……』泣きそうな声で訴えている。コウが僕の助けを求めてくれている。それなのに、マリーの声が煩すぎてよく聞こえない。
「コウ、大丈夫? すぐに、」
『ごめん、平気だよ、アル。忙しいんだろ? マリーは僕が宥めるから心配しないで。ドラコもいるし』
「すぐに帰るよ。いいんだよ、ちょうど一段落ついたところなんだ」
『仕事中ごめんね、アル』
電話口で焦って彼を励ます僕を、バニーが声を殺して笑って見ている。
「朝食くらい食べていく時間はあるんだろう?」と電話を切った僕に、湯気の立つ皿を勧めてくる。
「シャワーも浴びてからの方がよさそうだよ」
「そんなに酷い顔をしてる?」
「仕事中のきみが、そんな顔で戻る方が変に思われるってことだよ。車で送ってあげるから」
まだ頭がずんと重かった。
コウが、僕ではなく、あの赤毛を、頼るなんて……。そんなことがあっていいはずがない。
「アル」
「ん――」
言われるままに朝食を食べて、シャワーを浴びて――。
バニーに家まで送ってもらった。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
エートス 風の住む丘
萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 3rd Season」
エートスは
彼の日常に
個性に
そしていつしか――、生き甲斐になる
ロンドンと湖水地方、片道3時間半の遠距離恋愛中のコウとアルビー。大学も始まり、本来の自分の務めに追われるコウの日常は慌ただしくすぎていく。そんななか、ジャンセン家に新しく加わった同居人たちの巻き起こす旋風に、アルビーの心労も止まらない!?
*****
今回はコウの一人称視点に戻ります。続編として内容が続いています。初見の方は「霧のはし 虹のたもとで」→「夏の扉を開けるとき」からお読み下さい。番外編「山奥の神社に棲むサラマンダーに出逢ったので、もう少し生きてみようかと決めた僕と彼の話」はこの2編の後で読まれることを推奨します。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
胡桃の中の蜃気楼
萩尾雅縁
経済・企業
義務と規律に縛られ生きて来た英国貴族嫡男ヘンリーと、日本人留学生・飛鳥。全寮制パブリックスクールで出会ったこの類まれなる才能を持つ二人の出逢いが、徐々に世界を揺り動かしていく。青年企業家としての道を歩み始めるヘンリーの熾烈な戦いが今、始まる。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる