733 / 753
九章
6
しおりを挟む
磨きあげられた大理石の上を兵士たちが行進し、コンピューターゲームの駒が自動的に盤上のマス目を埋めていくように規則正しく整列していく。彼らの上に降り注ぐ陽射しは、普段よりもよほど柔らかい。この日、宮殿内の中庭で行われるアリー・ファイサル・バッティの近衛師団長就任式は、この国では稀にみる雲の多い日だった。とはいえこの時期、5月半ばの日中気温は30度を優に超えるのだ。式は午前中に終える予定とされている。
エドワード・グレイは本殿二階の窓辺から、ここに来て初めて見る空を覆う灰色をいくばくかの安堵と郷愁を感じながら見上げ、ふたたび眼下で繰り広げられているどうにも現実感のない行進へと視線を移した。じきにそれにも飽きると窓に背を向け、この応接間に彼と同じく陣取っている英国人の情報部員――もっともあちらは秘密情報部なので、彼が所属する国防情報参謀部とは犬猿の仲、とまでは言わないが、膝を突き合わせて茶を飲みたいような気楽な相手ではない――を、見るともなく眺めた。
40代には見える年嵩と、エドワードと変わらないくらいの若手との二人組が、くつろいだ様子で差し向かいあい優雅に紅茶を嗜んでいるさまは、ここがどこで、今どんな状況にあるのか忘れてしまっているかのようだ。そんな緊張感のない彼ら二人ともが特に印象に残らない容貌をしていることも、いかにもSISらしいとエドワードは思った。
彼がSISとの過去の因縁をちらちらと思い返しては悶々としているうちに、窓外では漆黒に深緑のモールを下げた華やかな軍服の近衛兵1万余が、四方を馬蹄型アーチの連なるアーケードに囲まれた広大な空間に整然と並び揃った。彼らの頭部は、アラブの象徴とも見えるシュマッグで覆われている。陽の光を跳ね返して白く輝くそれが、画一的な軍服のなかでのこの国らしい特色の一つだといえるのかもしれない。もっともこれは儀式用の正装で、日常の勤務では軍服と同色のベレー帽を被っている。
この数か月で断行された彼ら近衛兵三分の一にも及ぶ再編成によって、師団を構成する顔ぶれは大きく変わったという。そうした大変革も、本日の式典でもってようやく完遂されるということだ。
なぜなら、昨年のクーデター未遂事件で王と皇太子を守り、また度重なるテロとの戦いでの功績を称えられたアリー・ファイサル・バッティの大佐から准将への昇進と勲章授与、そして近衛師団長任命によって、王から皇太子への指揮系統の移行がすべて整うことになるからだという。
「実に喜ばしいことじゃないか」と、思った以上に近い位置で聞こえている声に、エドワードは口をへの字に結び、仏頂面を保ったまま聞き耳を立てていた。
いつの間にか窓辺によっていた年嵩の男が、若手にそんな解説を始めていたのだ。
その政権移行の要となる式典を見せつけられることの意義を、どう捉えるべきなのか、探りあう相手は晴れやかな舞台にいる彼らではなく、こうして傍から眺めているもの同士の間ではないのか、とつい要らぬ思惑に気を重く沈め、聴こえぬふりを通して彼は式を見据えていた。
もちろん外野のそんな思惑など意に介することなく、式典は滞りなく進んでいた。その瞬間まで――。
窓外のスピーカーから響く理解できない言語をBGMのように聞き流しながら、エドワードは窓越しに眺め下ろしていたのだ。他の二人もそろそろ終盤だろうと、窓ガラスに腕をついて見下ろしていた。
「即席で仕上げた兵士にしては、よく統制されているじゃないか」
「ええ、まったく。ですがこうも皆が皆同じ格好では、王も皇太子も側近も、誰が誰やら判らないですね」
若手が追従笑いを浮かべて応えている。
黒の長衣を羽織っているのが国王だ、と年嵩が言った。
居並ぶ兵士たちよりも一段高く設けられている仮説ステージでは、国王自らの手によって、アリーに祝辞と勲章が授与されていた。
「あちらが皇太子だ」、と年嵩がステージの一方を指さした。
同じ壇上の端で控えていたサウード皇太子が、この日のハイライトとなる近衛師団長任命のために粛々と中央へと進む。王はその場を動かず皇太子を迎えていた。エドワードたちからは、その広いわずかに丸まった背中しか伺えなかったが。
王を挟んで直立不動で待つアリーの正面に止まり、サウードは満面の笑みを浮かべて両腕を広げた。アリーは畏敬を表すために一歩足を進めた。
直後――。
皇太子はカクンと膝を折り、冷たい大理石の上に崩れ落ちていた。
この広大な空間そのものが凍りついたような静寂が下りた。
居並ぶ兵士たちも、ステージ上にいた側近のうち誰一人として、微動だできる者はいなかった。
それも束の間、今度は王がくずおれた。
「衛兵! どうなってるんだ、衛兵! 早く陛下と殿下を保護しないか!」
一番に声を張りあげたのは、本殿の窓からこの式典を眺めていたエドワードだった。
「近衛兵は何をしているんだ? 救護班は?」
そして、SISの二人の諜報員たちだった。
エドワード・グレイは本殿二階の窓辺から、ここに来て初めて見る空を覆う灰色をいくばくかの安堵と郷愁を感じながら見上げ、ふたたび眼下で繰り広げられているどうにも現実感のない行進へと視線を移した。じきにそれにも飽きると窓に背を向け、この応接間に彼と同じく陣取っている英国人の情報部員――もっともあちらは秘密情報部なので、彼が所属する国防情報参謀部とは犬猿の仲、とまでは言わないが、膝を突き合わせて茶を飲みたいような気楽な相手ではない――を、見るともなく眺めた。
40代には見える年嵩と、エドワードと変わらないくらいの若手との二人組が、くつろいだ様子で差し向かいあい優雅に紅茶を嗜んでいるさまは、ここがどこで、今どんな状況にあるのか忘れてしまっているかのようだ。そんな緊張感のない彼ら二人ともが特に印象に残らない容貌をしていることも、いかにもSISらしいとエドワードは思った。
彼がSISとの過去の因縁をちらちらと思い返しては悶々としているうちに、窓外では漆黒に深緑のモールを下げた華やかな軍服の近衛兵1万余が、四方を馬蹄型アーチの連なるアーケードに囲まれた広大な空間に整然と並び揃った。彼らの頭部は、アラブの象徴とも見えるシュマッグで覆われている。陽の光を跳ね返して白く輝くそれが、画一的な軍服のなかでのこの国らしい特色の一つだといえるのかもしれない。もっともこれは儀式用の正装で、日常の勤務では軍服と同色のベレー帽を被っている。
この数か月で断行された彼ら近衛兵三分の一にも及ぶ再編成によって、師団を構成する顔ぶれは大きく変わったという。そうした大変革も、本日の式典でもってようやく完遂されるということだ。
なぜなら、昨年のクーデター未遂事件で王と皇太子を守り、また度重なるテロとの戦いでの功績を称えられたアリー・ファイサル・バッティの大佐から准将への昇進と勲章授与、そして近衛師団長任命によって、王から皇太子への指揮系統の移行がすべて整うことになるからだという。
「実に喜ばしいことじゃないか」と、思った以上に近い位置で聞こえている声に、エドワードは口をへの字に結び、仏頂面を保ったまま聞き耳を立てていた。
いつの間にか窓辺によっていた年嵩の男が、若手にそんな解説を始めていたのだ。
その政権移行の要となる式典を見せつけられることの意義を、どう捉えるべきなのか、探りあう相手は晴れやかな舞台にいる彼らではなく、こうして傍から眺めているもの同士の間ではないのか、とつい要らぬ思惑に気を重く沈め、聴こえぬふりを通して彼は式を見据えていた。
もちろん外野のそんな思惑など意に介することなく、式典は滞りなく進んでいた。その瞬間まで――。
窓外のスピーカーから響く理解できない言語をBGMのように聞き流しながら、エドワードは窓越しに眺め下ろしていたのだ。他の二人もそろそろ終盤だろうと、窓ガラスに腕をついて見下ろしていた。
「即席で仕上げた兵士にしては、よく統制されているじゃないか」
「ええ、まったく。ですがこうも皆が皆同じ格好では、王も皇太子も側近も、誰が誰やら判らないですね」
若手が追従笑いを浮かべて応えている。
黒の長衣を羽織っているのが国王だ、と年嵩が言った。
居並ぶ兵士たちよりも一段高く設けられている仮説ステージでは、国王自らの手によって、アリーに祝辞と勲章が授与されていた。
「あちらが皇太子だ」、と年嵩がステージの一方を指さした。
同じ壇上の端で控えていたサウード皇太子が、この日のハイライトとなる近衛師団長任命のために粛々と中央へと進む。王はその場を動かず皇太子を迎えていた。エドワードたちからは、その広いわずかに丸まった背中しか伺えなかったが。
王を挟んで直立不動で待つアリーの正面に止まり、サウードは満面の笑みを浮かべて両腕を広げた。アリーは畏敬を表すために一歩足を進めた。
直後――。
皇太子はカクンと膝を折り、冷たい大理石の上に崩れ落ちていた。
この広大な空間そのものが凍りついたような静寂が下りた。
居並ぶ兵士たちも、ステージ上にいた側近のうち誰一人として、微動だできる者はいなかった。
それも束の間、今度は王がくずおれた。
「衛兵! どうなってるんだ、衛兵! 早く陛下と殿下を保護しないか!」
一番に声を張りあげたのは、本殿の窓からこの式典を眺めていたエドワードだった。
「近衛兵は何をしているんだ? 救護班は?」
そして、SISの二人の諜報員たちだった。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる