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九章
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翌日の午前中、アレンはずっと居間にいた。一人でエッセイ試験用に読んでおかないといけない本と向かいあっていた。
クリスとフレデリックは、朝から揃って彼らのフラットに戻っている。昨日、今日と一泊だけアレンの顔を見にくるつもりだったのだが、ここでの勉強がよほどはかどったとみえ、試験期間中ずっとこの館に滞在することになった。そこで、必要な着替えなどを取りに帰ったのだ。
もちろん一番の理由は戻ってきたばかりのアレンのためだ。だがそれだけではなく、彼らにとっても願ったりのことだった。今はマーカスやメアリーはいないとはいえ、ここならば、通いではあるがメアリーの姪が、食事の手配や細々とした家事をしてくれるのだから。ここは生活するための諸々の雑事から解放され、煩わされることなく勉強に打ち込める贅沢すぎる環境なのだ。
だがこうして一人残っているアレンは、昨夜の鬱屈とした想いを引きずったまま頭に本の内容を刻むこともなく、文字上に目を滑らせているばかりだった。あるいは本に留まる以上に、視線を戸外の緑の上に彷徨わせて。
そんな時、コッコッ、とガラスを叩く音が、はっと彼の注意をひいた。テラス側からやって来た飛鳥が、「息抜きに散歩でもどう?」と声をかけた。アレンは反射的に「はい!」と返事すると、すぐに本を閉じて立ちあがった。テラスへと踏み出すと、隔てられていた澄んだ空気に薔薇の香りが幽かに香った。その香りを壊さないようそっと吸いこみ、踵を返し手招きしている飛鳥の後に続いた。
飛鳥は「まだ少し早いんだけどね、薔薇がほころび始めているんだ」、とのんびり階段を上り、紫陽花の茂みをそぞろ歩いて、テラス広場からさらに奥へと足を進める。
やがて行き着いたなだらかな高台に広がる薔薇園は、三分咲きといったところだろうか。TSイベントでも使われた、父が兄のために作ったという薔薇だ。
満開よりもこれくらいの頃がつつましやかに美しく、兄には相応しい、とアレンは思った。
同時に、訪れたのは初めてではないのに、この特別な花をここで見たことがあっただろうか、濃い緑にセレストブルーを散らしたようなこんな景色を――、とそんな疑問も湧いて、訝しげに辺りをゆるゆる見回して。
「去年の今ごろは、とても薔薇どころじゃなかったからね」
吐息の様に告げられた飛鳥の声は、逆に今日のような何の変哲もない日々に感謝しているかのように穏やかだ。
そうだった。誰もが遠い異国にいる吉野の身を案じ、館内の空気はピリピリとして、花を愛でる気分になぞなれなかったのだ。
今年も、吉野は同じ場所にいる。だが情勢はよほど改善し、不安に思うことは何もない――、はずだった。
アレンはマーシュコートで彼自身も携わっていた彼らの仕事、サウードの立体映像に連動された人工知能の育成を、自身のそれと同じようなものだと思っていた。兄のそれにしても、イベント用の余興のようなものだったから。
あるいは、アレン自身の目で見た訳ではないが、パリ国際見本市の講演会で使われた、危険な場面に立ち会わなければならない場合の身代わりとしての影武者映像。皇太子ならば、そちらの方が主な用途かもしれない。人前に立つことも多いサウードならそんな必要もあるだろう――、と。
だからまさか、サウードがマーシュコートにいた間もずっと、人工知能映像が彼の国で皇太子として政務をこなしていた、などとは思いも及ばなかったのだ。
「まぁ、あれは仕方ないよ。吉野がきみにちゃんと話してないのが悪いよ」
「でも――、こんな重大なこと、そう簡単に喋れるはずがないですよね」
どこ、ということもなく、未だ開ききっていない花群に視線を移ろわせながら、アレンは憔悴しきった口調で受け応えた。
「それは、そうかもしれないけど、」言い惑いながら、飛鳥は慎重に言葉を探す。
ヘンリーの映像にしろ、目前に迫るイベントで使用予定のアレンの映像にしろ、すでに世間で周知されている。秘匿すべきことは取りたててなかった。そこへ、サウードは別枠であるときちんと説明しなかったのだから、落ち度は自分たちにこそある。
だがそう言ったところで、過度に自分を責めてしまう癖のあるアレンが「そうですか」と納得するはずもない。彼は吉野の頼みを読み違えたことを発端にしたゴシップ記事の一件から、飛鳥のように、吉野とあうんの呼吸で分かり合える術を自分も身につけなければと、必要以上に吉野の思惑を推し量ってばかりいるのだから。
「とにかく、きみが悪い訳じゃないし、彼らがよそで喋ることもないだろうし、気に病むことはないんだからね」
月並みの言葉しか思いつかない自分に辟易としながら、飛鳥は困ったような苦笑を浮かべた。飛鳥にしても、サウードの影武者とも言うべき映像制作の是非に関して、もやもやとした想いを抱えているのだ。おそらく、そこにはアレンの抱えるのと同じ疑問、同じ不安が隠されている。
かの地は、いまだにサウード自身を公に晒すことができないほど危険なのか、と。
だがそれを口にすることはできなかった。それに口にしたところで、何がどう変わるわけでもない。アレンの不安を煽るにすぎないのだから。
「でも、それだけじゃありません。僕のせいで、アーカシャーの内部機密まで――、」
「通信映像のこと? おかげでいいアイデアをもらえたよ! どういう使い方をすればいいのか、ってずっと悩んでたんだ。馬鹿みたいにさ! 固く考えすぎてたんだね。クリスみたいに柔軟に楽しめるように発想するべきだったんだ」
ぱっと明るく表情を変え、飛鳥がひと息に捲し立てた。
「え、クリスって――」
「映像同士って解っていても、向かい合ってお茶できると楽しい。電話や画面上なんかよりもずっと。そりゃそうだよね。実在感は薄れるだろうけど、距離の生む淋しさを、多少は埋められるのかもしれないものね」
こくこくと、アレンは何度も頷いた。自分が立ちあがれなかった時、傍にいてくれた吉野の映像にどれほど心を支えられていたことか――、言葉では言い尽くせないほどなのだ。
「彼らが戻ってきたら、また意見を聞かせてもらいたいな、って思ってる。それにきみの意見も。もちろん試験勉強の邪魔にならない程度で」
きらきらしい飛鳥の瞳に、ようやくアレンの晴れやかな笑顔が映った。犯してしまった過ちを悩み続けるよりも、視点を切り替え、別の光明を掴む方がずっといい。そしてそれは、アレン以上に飛鳥自身に必要なことでもあった。
「それでねぇ、ひとつ、立ち入ったことを訊いてもいいかな?」
どことなく言い難くげに、だがきっぱりと繰り出された飛鳥の願いに、アレンは「もちろん」とほわりとした笑みで応えた。
軽く小首を傾いでその続き待っていた。
飛鳥はアレンから視線を逸らし、咲きかけの一輪に指をそっと添えて触れた。
「この花の名前、『悔恨』て言うんだってね」ちらとアレンに視線を流す。だがアレンは動じる様子もなく軽く頷いている。
「どうしてきみたちのお父さんは、花にそんな名前をつけたのだろうって、不思議だったんだ」
飛鳥はセレストブルーの花びらに視線を据えたまま、もう面をあげることなく続けて言った。
「こんなことを訊くの、失礼かなって思うけれど、――きみたちのお母さんは、きみたちのお父さんのこと、愛していた?」
やがて静かな、けれどどこか苦しげな飛鳥の眼差しがアレンに向けられた。告げられた問いは、アレンには思いもよらぬものだった。
クリスとフレデリックは、朝から揃って彼らのフラットに戻っている。昨日、今日と一泊だけアレンの顔を見にくるつもりだったのだが、ここでの勉強がよほどはかどったとみえ、試験期間中ずっとこの館に滞在することになった。そこで、必要な着替えなどを取りに帰ったのだ。
もちろん一番の理由は戻ってきたばかりのアレンのためだ。だがそれだけではなく、彼らにとっても願ったりのことだった。今はマーカスやメアリーはいないとはいえ、ここならば、通いではあるがメアリーの姪が、食事の手配や細々とした家事をしてくれるのだから。ここは生活するための諸々の雑事から解放され、煩わされることなく勉強に打ち込める贅沢すぎる環境なのだ。
だがこうして一人残っているアレンは、昨夜の鬱屈とした想いを引きずったまま頭に本の内容を刻むこともなく、文字上に目を滑らせているばかりだった。あるいは本に留まる以上に、視線を戸外の緑の上に彷徨わせて。
そんな時、コッコッ、とガラスを叩く音が、はっと彼の注意をひいた。テラス側からやって来た飛鳥が、「息抜きに散歩でもどう?」と声をかけた。アレンは反射的に「はい!」と返事すると、すぐに本を閉じて立ちあがった。テラスへと踏み出すと、隔てられていた澄んだ空気に薔薇の香りが幽かに香った。その香りを壊さないようそっと吸いこみ、踵を返し手招きしている飛鳥の後に続いた。
飛鳥は「まだ少し早いんだけどね、薔薇がほころび始めているんだ」、とのんびり階段を上り、紫陽花の茂みをそぞろ歩いて、テラス広場からさらに奥へと足を進める。
やがて行き着いたなだらかな高台に広がる薔薇園は、三分咲きといったところだろうか。TSイベントでも使われた、父が兄のために作ったという薔薇だ。
満開よりもこれくらいの頃がつつましやかに美しく、兄には相応しい、とアレンは思った。
同時に、訪れたのは初めてではないのに、この特別な花をここで見たことがあっただろうか、濃い緑にセレストブルーを散らしたようなこんな景色を――、とそんな疑問も湧いて、訝しげに辺りをゆるゆる見回して。
「去年の今ごろは、とても薔薇どころじゃなかったからね」
吐息の様に告げられた飛鳥の声は、逆に今日のような何の変哲もない日々に感謝しているかのように穏やかだ。
そうだった。誰もが遠い異国にいる吉野の身を案じ、館内の空気はピリピリとして、花を愛でる気分になぞなれなかったのだ。
今年も、吉野は同じ場所にいる。だが情勢はよほど改善し、不安に思うことは何もない――、はずだった。
アレンはマーシュコートで彼自身も携わっていた彼らの仕事、サウードの立体映像に連動された人工知能の育成を、自身のそれと同じようなものだと思っていた。兄のそれにしても、イベント用の余興のようなものだったから。
あるいは、アレン自身の目で見た訳ではないが、パリ国際見本市の講演会で使われた、危険な場面に立ち会わなければならない場合の身代わりとしての影武者映像。皇太子ならば、そちらの方が主な用途かもしれない。人前に立つことも多いサウードならそんな必要もあるだろう――、と。
だからまさか、サウードがマーシュコートにいた間もずっと、人工知能映像が彼の国で皇太子として政務をこなしていた、などとは思いも及ばなかったのだ。
「まぁ、あれは仕方ないよ。吉野がきみにちゃんと話してないのが悪いよ」
「でも――、こんな重大なこと、そう簡単に喋れるはずがないですよね」
どこ、ということもなく、未だ開ききっていない花群に視線を移ろわせながら、アレンは憔悴しきった口調で受け応えた。
「それは、そうかもしれないけど、」言い惑いながら、飛鳥は慎重に言葉を探す。
ヘンリーの映像にしろ、目前に迫るイベントで使用予定のアレンの映像にしろ、すでに世間で周知されている。秘匿すべきことは取りたててなかった。そこへ、サウードは別枠であるときちんと説明しなかったのだから、落ち度は自分たちにこそある。
だがそう言ったところで、過度に自分を責めてしまう癖のあるアレンが「そうですか」と納得するはずもない。彼は吉野の頼みを読み違えたことを発端にしたゴシップ記事の一件から、飛鳥のように、吉野とあうんの呼吸で分かり合える術を自分も身につけなければと、必要以上に吉野の思惑を推し量ってばかりいるのだから。
「とにかく、きみが悪い訳じゃないし、彼らがよそで喋ることもないだろうし、気に病むことはないんだからね」
月並みの言葉しか思いつかない自分に辟易としながら、飛鳥は困ったような苦笑を浮かべた。飛鳥にしても、サウードの影武者とも言うべき映像制作の是非に関して、もやもやとした想いを抱えているのだ。おそらく、そこにはアレンの抱えるのと同じ疑問、同じ不安が隠されている。
かの地は、いまだにサウード自身を公に晒すことができないほど危険なのか、と。
だがそれを口にすることはできなかった。それに口にしたところで、何がどう変わるわけでもない。アレンの不安を煽るにすぎないのだから。
「でも、それだけじゃありません。僕のせいで、アーカシャーの内部機密まで――、」
「通信映像のこと? おかげでいいアイデアをもらえたよ! どういう使い方をすればいいのか、ってずっと悩んでたんだ。馬鹿みたいにさ! 固く考えすぎてたんだね。クリスみたいに柔軟に楽しめるように発想するべきだったんだ」
ぱっと明るく表情を変え、飛鳥がひと息に捲し立てた。
「え、クリスって――」
「映像同士って解っていても、向かい合ってお茶できると楽しい。電話や画面上なんかよりもずっと。そりゃそうだよね。実在感は薄れるだろうけど、距離の生む淋しさを、多少は埋められるのかもしれないものね」
こくこくと、アレンは何度も頷いた。自分が立ちあがれなかった時、傍にいてくれた吉野の映像にどれほど心を支えられていたことか――、言葉では言い尽くせないほどなのだ。
「彼らが戻ってきたら、また意見を聞かせてもらいたいな、って思ってる。それにきみの意見も。もちろん試験勉強の邪魔にならない程度で」
きらきらしい飛鳥の瞳に、ようやくアレンの晴れやかな笑顔が映った。犯してしまった過ちを悩み続けるよりも、視点を切り替え、別の光明を掴む方がずっといい。そしてそれは、アレン以上に飛鳥自身に必要なことでもあった。
「それでねぇ、ひとつ、立ち入ったことを訊いてもいいかな?」
どことなく言い難くげに、だがきっぱりと繰り出された飛鳥の願いに、アレンは「もちろん」とほわりとした笑みで応えた。
軽く小首を傾いでその続き待っていた。
飛鳥はアレンから視線を逸らし、咲きかけの一輪に指をそっと添えて触れた。
「この花の名前、『悔恨』て言うんだってね」ちらとアレンに視線を流す。だがアレンは動じる様子もなく軽く頷いている。
「どうしてきみたちのお父さんは、花にそんな名前をつけたのだろうって、不思議だったんだ」
飛鳥はセレストブルーの花びらに視線を据えたまま、もう面をあげることなく続けて言った。
「こんなことを訊くの、失礼かなって思うけれど、――きみたちのお母さんは、きみたちのお父さんのこと、愛していた?」
やがて静かな、けれどどこか苦しげな飛鳥の眼差しがアレンに向けられた。告げられた問いは、アレンには思いもよらぬものだった。
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