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九章
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「取引って――、何のことだ? 俺はお前が引き留めたから残っただけで、特に他意がある訳じゃない」
エドワードは真顔で応えた。確かに、ここでの滞在に下心がない訳ではない。だがそれは、こんなふうに問われるような、吉野自身の持ち札に関することではない。吉野から情報を得たいというよりも、むしろ彼を出し抜きたい。前回のような情報戦で裏をかかれ失態を擦り付けられた以上、単独でそれなりの成果をださないことには、汚名返上とはいかないのだから。
「先に話した通り、例の失態を挽回するために、ここまでの護衛を引き受けたんだ。そういった意味なら、そりゃ、あるさ。だがそんな改まって、取引なぞと言われるほどのことじゃないだろ? 任務だからな」
「あんた、それ、本気で言ってる?」
あっけらかんと言い放つエドワードとは対照的に、吉野は口許を皮肉げに緩ませ、小首を傾げた。
さすがに、この男、なぜ自分がここに寄越されたかも考えないほど能天気でもないだろう、くらいに思っていたのだ。だがエドワードは、話をはぐらかそうとしているとも見えない。こうしている間も遠慮なくグラスを重ねる姿には緊張感の欠片もなく、古くからの友人の家にでも遊びにきているような気安さだ。
「ああ、解った。あんたにとって、俺はヘンリーの一部なのか。腕か、それとも足みたいに思ってるんだな!」
クックッと笑いだしながら、吉野は、また空になっているエドワードのグラスに自分のグラスの中身を注ぎ空ける。
どう手回ししたのか知らないが、この男がここにこうしているのは、ヘンリーの手筈で間違いないだろう。
取引のために。いやむしろ、吉野の望むようにすればいい、との差し入れのつもりだったのだろうか――。
これからの成り行きに必要な頭は、別にエドワードである必要はない。だから吉野はこの任務の顔ぶれに彼を見つけた時、求められる思惑があるのだろうと勘繰った。この男に尋ねることへの見返りを要求されるのだろう、と。
そんな彼の望みを知るヘンリーは、機会を用意してくれた。だが、エドワード本人までもが、情報に対する対価はいらない、という態度でくるとは吉野自身想像だにしなかったのだ。
「なんだ、飲まないのか?」
「俺はあんたと違って、客って訳じゃないしね」
「あいつの手とか足とか――、素面だから、そんな気持ち悪いこと言ってんじゃないのか? お前、自分がウィリアムみたいな位置にいると思ってんのか? そりゃお前の勘違いだぞ! こっちがどんなに親い仲だと思ってたって、あいつが他人を自分の一部になんて思う訳がないだろ! あいつの全部は義妹に捧げられてるんだぞ!」
替わりに注ぎ直した深い黄金色を湛える紅茶のグラスを、軽くエドワードのグラスに打ち合わせて喉を潤す吉野に、エドワードは呆れたような眼差しを向けて一気にまくしたてている。吉野はひょいと肩をすくめて同意を示した。
「俺もそう思ってたんだけどな――。でもなんだって、ヘンリーはそこまでサラに負い目を感じてるの? あんた、幼馴染なんだろ、なんか知ってる?」
「負い目――? あいつは義妹がインドからやって来たときからずっとああだぞ。親父さんの病気のこともあるし、家長として責任を感じてるんだろ」
ありきたりの答えしか返ってこない。駆け引きしようにも乗ってこないのは、ペースの割りにまだまだ飲みようが足りないのか、と相手の顔をじっと見たところでどうも判らない。
これが素なのか、それとも訓練の賜物なのか。
「あんた、面白いね」
吉野は顔を伏せて笑みを浮かべ、独り言のようなささやかな声音で呟いた。
これが演技でないのなら、彼は本当に任務をこなすだけの下っ端でしかないということだ。本当にヘンリーの言うように、ウイスタン在学中は学生の身分にかまけて、命令されたことしかしないことで、飛鳥を守る側に立ってくれたのだろう。ノースのように、それ以上を求めることをしなかったのだ。
それは、命令に逆らった、という訳ではないのだろうが――。
受動的攻撃、とでもいえるだろうか。
ひと目で軍人だろうと察しのつく外見のくせに、軍の諜報員である自分に抗い続けている――。
それが、ヘンリーがこの男をいまだに友人として、吉野に紹介する理由。
「なんであんたみたいなのが、ノース――、ギルバート・オーウェンの尻拭いなんかをさせられたんだろうな? アーニーん家が飛鳥の身元保証人になったから? それに対抗してってこと?」
親指と中指に挟んだままのショットグラスをくいと振って、吉野は目を細め冷笑を浮かべて言った。ぎろりと目だけを動かして睨み返してきた相手を、正面から受けて続ける。
「この名前には、さすがに顔色が変わるんだね。まったく知らない仲って訳でもなかったんだね」
「アスカのことは――、申し訳なかったと思ってる」
「誰が思ってるって? あんたが言うセリフじゃないだろ」
吉野はついと立ちあがり、大きな欠伸をしながらぐいっと伸びをする。
「あーあ、なんでこんなちまちましたグラスしか置いてないんだろ。コーヒーが欲しいのに……。持ってこさせるから、ちょっと待ってて。申し訳ないって言うのが本気ならさ、ゆっくり聞かせてよ。あんたとギルバート・オーウェンの関係性ってやつをさ。それが誠意を見せるってことじゃないの?」
ソファーに座ったままの相手を見下ろして、どこか楽しんででもいるような、エドワードからしてみれば、痛烈な皮肉に聴こえる口調で告げると、吉野はドアの外にいる従卒に要件を伝えに席を離れた。
その背中を顔を強張らせて睨めつけたまま、エドワードはショットグラスにジンを注いだ。そして、これから始まるに違いない拷問のような時間を想い、その想像を振り払うためにも、勢いにまかせてグラスをあおった。
エドワードは真顔で応えた。確かに、ここでの滞在に下心がない訳ではない。だがそれは、こんなふうに問われるような、吉野自身の持ち札に関することではない。吉野から情報を得たいというよりも、むしろ彼を出し抜きたい。前回のような情報戦で裏をかかれ失態を擦り付けられた以上、単独でそれなりの成果をださないことには、汚名返上とはいかないのだから。
「先に話した通り、例の失態を挽回するために、ここまでの護衛を引き受けたんだ。そういった意味なら、そりゃ、あるさ。だがそんな改まって、取引なぞと言われるほどのことじゃないだろ? 任務だからな」
「あんた、それ、本気で言ってる?」
あっけらかんと言い放つエドワードとは対照的に、吉野は口許を皮肉げに緩ませ、小首を傾げた。
さすがに、この男、なぜ自分がここに寄越されたかも考えないほど能天気でもないだろう、くらいに思っていたのだ。だがエドワードは、話をはぐらかそうとしているとも見えない。こうしている間も遠慮なくグラスを重ねる姿には緊張感の欠片もなく、古くからの友人の家にでも遊びにきているような気安さだ。
「ああ、解った。あんたにとって、俺はヘンリーの一部なのか。腕か、それとも足みたいに思ってるんだな!」
クックッと笑いだしながら、吉野は、また空になっているエドワードのグラスに自分のグラスの中身を注ぎ空ける。
どう手回ししたのか知らないが、この男がここにこうしているのは、ヘンリーの手筈で間違いないだろう。
取引のために。いやむしろ、吉野の望むようにすればいい、との差し入れのつもりだったのだろうか――。
これからの成り行きに必要な頭は、別にエドワードである必要はない。だから吉野はこの任務の顔ぶれに彼を見つけた時、求められる思惑があるのだろうと勘繰った。この男に尋ねることへの見返りを要求されるのだろう、と。
そんな彼の望みを知るヘンリーは、機会を用意してくれた。だが、エドワード本人までもが、情報に対する対価はいらない、という態度でくるとは吉野自身想像だにしなかったのだ。
「なんだ、飲まないのか?」
「俺はあんたと違って、客って訳じゃないしね」
「あいつの手とか足とか――、素面だから、そんな気持ち悪いこと言ってんじゃないのか? お前、自分がウィリアムみたいな位置にいると思ってんのか? そりゃお前の勘違いだぞ! こっちがどんなに親い仲だと思ってたって、あいつが他人を自分の一部になんて思う訳がないだろ! あいつの全部は義妹に捧げられてるんだぞ!」
替わりに注ぎ直した深い黄金色を湛える紅茶のグラスを、軽くエドワードのグラスに打ち合わせて喉を潤す吉野に、エドワードは呆れたような眼差しを向けて一気にまくしたてている。吉野はひょいと肩をすくめて同意を示した。
「俺もそう思ってたんだけどな――。でもなんだって、ヘンリーはそこまでサラに負い目を感じてるの? あんた、幼馴染なんだろ、なんか知ってる?」
「負い目――? あいつは義妹がインドからやって来たときからずっとああだぞ。親父さんの病気のこともあるし、家長として責任を感じてるんだろ」
ありきたりの答えしか返ってこない。駆け引きしようにも乗ってこないのは、ペースの割りにまだまだ飲みようが足りないのか、と相手の顔をじっと見たところでどうも判らない。
これが素なのか、それとも訓練の賜物なのか。
「あんた、面白いね」
吉野は顔を伏せて笑みを浮かべ、独り言のようなささやかな声音で呟いた。
これが演技でないのなら、彼は本当に任務をこなすだけの下っ端でしかないということだ。本当にヘンリーの言うように、ウイスタン在学中は学生の身分にかまけて、命令されたことしかしないことで、飛鳥を守る側に立ってくれたのだろう。ノースのように、それ以上を求めることをしなかったのだ。
それは、命令に逆らった、という訳ではないのだろうが――。
受動的攻撃、とでもいえるだろうか。
ひと目で軍人だろうと察しのつく外見のくせに、軍の諜報員である自分に抗い続けている――。
それが、ヘンリーがこの男をいまだに友人として、吉野に紹介する理由。
「なんであんたみたいなのが、ノース――、ギルバート・オーウェンの尻拭いなんかをさせられたんだろうな? アーニーん家が飛鳥の身元保証人になったから? それに対抗してってこと?」
親指と中指に挟んだままのショットグラスをくいと振って、吉野は目を細め冷笑を浮かべて言った。ぎろりと目だけを動かして睨み返してきた相手を、正面から受けて続ける。
「この名前には、さすがに顔色が変わるんだね。まったく知らない仲って訳でもなかったんだね」
「アスカのことは――、申し訳なかったと思ってる」
「誰が思ってるって? あんたが言うセリフじゃないだろ」
吉野はついと立ちあがり、大きな欠伸をしながらぐいっと伸びをする。
「あーあ、なんでこんなちまちましたグラスしか置いてないんだろ。コーヒーが欲しいのに……。持ってこさせるから、ちょっと待ってて。申し訳ないって言うのが本気ならさ、ゆっくり聞かせてよ。あんたとギルバート・オーウェンの関係性ってやつをさ。それが誠意を見せるってことじゃないの?」
ソファーに座ったままの相手を見下ろして、どこか楽しんででもいるような、エドワードからしてみれば、痛烈な皮肉に聴こえる口調で告げると、吉野はドアの外にいる従卒に要件を伝えに席を離れた。
その背中を顔を強張らせて睨めつけたまま、エドワードはショットグラスにジンを注いだ。そして、これから始まるに違いない拷問のような時間を想い、その想像を振り払うためにも、勢いにまかせてグラスをあおった。
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