724 / 745
九章
6
しおりを挟む
ひと言ふた言告げてウィリアムをさがらせると、吉野はエドワードだけを誘って応接間を後にした。
ようやくまとまった時間ができたから、とここでの滞在に退屈しきっていた彼を王宮内にあるスポーツジムに誘ったのだ。「勧められるままに茶なんぞ飲んでるより、暇つぶしならこの方がよほどいいよ」と、にこやかに談笑しながら長い回廊を渡って別棟へと向かう。
やがてたどり着いたフロアには、最新のマシンや、ダンベルラックがずらりと並び、鏡の前には広々とした空間がとられていた。設備も充分な広さも彼の母国のフィットネスクラブと遜色ない。ただし、管理者はいるのにトレーニングしている人間は一人もいないことが、それらをただ飾られているだけの調度品のように見せている。そのせいだろうか、この贅沢な設備にどこか生気のなさを、薄ら寒さを感じてしまうのは。
ぐるりと視線を一巡させるとエドワードは吉野に向き直り、口をへの字に曲げて軽く肩をすくめてみせた。
「ここはなんでもあるんだな。まるでレジャーランドだ」
「そうそう外を出歩くわけにもいかないからね。自前で揃えてるってだけだよ」
「確かにここでの暮らしは、すぐに運動不足に陥りそうだな」
食べて寝る以外とくにすることもなかったこの数日間で、体がなまっていた。それに、冷たく固い大理石とは違うゴムの弾力を足裏に感じていると、今までの緊張が解けていくような気もする。エドワードは大きく肩を回しほぐしながら、「どうせなら、もっと早く教えてほしかった」などと、恨みがましい視線を吉野に投げかける。
「指示が行き渡っていなかったんだね、ごめん」黒髪が揺れ、ぴょこんと頭が下がる。そしてまた持ち上がる。同時に吉野は、すっと一方の壁に下がる垂れ幕を指さして、「スカッシュのコートがあるんだ。ひと勝負しないか?」と屈託なく笑った。
ウェアからラケット、専用シューズまでがサイズ豊富に揃っている。ということは、ここで暮らす王家のためというよりも客のための設備なのか、と更衣室で着替えながら、エドワードは一人納得して吉野を見やる。と、彼は初心者のようにアイガードや膝サポーターまで装備しているではないか。
「なんだお前、初心者なのか! そっちから誘ったくせに期待させるなよ!」
「遊びで怪我なんかしたら立つ瀬がないだろ。あんたもアイガードくらいしておいてくれよ。いちおう客なんだしさ、怪我させたくないからさ」
できるものならやってみろ、とばかりに豪快に笑いとばすエドワードを、吉野は涼しい顔でやりすごしている。
だが、ゲームが始まってすぐに、この対戦相手を鼻先で笑ったことを、エドワードは大いに後悔することとなった。
「まだあんたには、スカッシュは早かったみたいだな、悪かったよ。あんた、怪我からまだ一年も経ってないんだってこと、忘れてた」
口では謝りながら、とくに悪びれた様子もなくあっけらかんと笑っている吉野をじろりと睨むと、エドワードは口の端でにやりと、継いで晴れやかに声を立てて笑った。素人と侮った吉野に、エドワードは完敗を喫したのだ。あまりの負けっぷりに、むしろ清々しささえ感じるほどの。それを、一年近く前の怪我のせいだから仕方ない、と慰められたのでは、それこそエドワードの立つ瀬がない。
「お前が忘れるはずないだろ! 俺がこの通りピンピンしているかどうか、その目で確かめたかったんだろうが!」
この国を揺るがせたクーデター未遂事件が、彼ら二人を結びつけたといえるかもしれない。この事件の渦中、エドワードは国王・皇太子護送任務で搭乗した軍用機を叩き落とされ、怪我を負ったのだ。もっとも仕組んだのは英国側のパイロットで、ここにいる杜月吉野ではない。むしろその逆で――。
その時の記憶がエドワードの背筋を這い上り、鈍い痛みとともに蘇る。
砂漠に降る厳しい陽光を跳ね、純白を翻す幻のような男の顔とともに――。
幻が、隣で床に座り、壁にもたれてミネラルウォーターを煽っている無邪気な横顔に重なる。年齢のわりに老獪だ、決してあなどってかかるな、と注意を受けていた、まだまだ子どものように見える少年の上に――。
ひとしきり顔をくしゃくしゃにして笑っていたエドワードは、いきなりぴたりと笑いを納めて、「俺は、お前に礼を言うべきなのか?」と不快そうに眉をひそめた。
この激しい感情の振れ幅に、吉野の方がたまらずくっくと肩を震わせる。
「別にいいよ、礼なんて。あんたを助けたかったわけでもないし」
「ようはヘンリーに貸しを作りたかった――、そういうことか?」
「あんた、自分があいつにとって、それだけの価値がある人間だって信じてるんだ?」
唇を結んだまま応えないエドワードに、吉野はふわりと柔らかい笑みを見せ、いかにも気を許しているような、のんびりした口調で喋りだす。
「そうだね、ヘンリーの機嫌を損ねるのは避けたかったのもある。でもそれ以上に、我が身を守るためだよ」
「俺たちをだまし討ちにしたのが、保身のためだっていうのか?」
「論点がずれてるよ。今話してんのは、俺があんたを助けた理由だろ? アブドの計画通りにあんたたちに死なれたんじゃ、英国からどんな難癖をつけられるか判ったもんじゃないからだよ。砂漠で極秘任務中の英国人が何人も殺されたとなっちゃ、あんたたちだって、黙って終わらせるわけにはいかなくなる。それこそどんな事故原因を捏造されるか――、だろ?」
「アブドの計画――って、お前、どこまで掴んでたんだ?」
訝し気に眉根をよせ、その大きな瞳で自分を威嚇するように見つめる相手を、吉野は笑っているような楽しげな瞳で眺めている。
どの程度の器なのか――。
この瞳に推し量られている、そんな気がして、エドワードは負けじとこの澄んだ鳶色の瞳を見返した。
だが彼の内側に響いてくるのは、吉野から受け取る何かではなく、自分の腹の内などとうに見透かされて、相手にもされていないのではないか、という自分では考えもしなかった情けない不安ばかりで――。
いつしか、彼の顔から笑みは消えていた。
「全部。アブドの通信網なんて、ザルだもん」
吉野は片膝に頬をつけ、また、くっくっと声を殺して笑っていた。
ようやくまとまった時間ができたから、とここでの滞在に退屈しきっていた彼を王宮内にあるスポーツジムに誘ったのだ。「勧められるままに茶なんぞ飲んでるより、暇つぶしならこの方がよほどいいよ」と、にこやかに談笑しながら長い回廊を渡って別棟へと向かう。
やがてたどり着いたフロアには、最新のマシンや、ダンベルラックがずらりと並び、鏡の前には広々とした空間がとられていた。設備も充分な広さも彼の母国のフィットネスクラブと遜色ない。ただし、管理者はいるのにトレーニングしている人間は一人もいないことが、それらをただ飾られているだけの調度品のように見せている。そのせいだろうか、この贅沢な設備にどこか生気のなさを、薄ら寒さを感じてしまうのは。
ぐるりと視線を一巡させるとエドワードは吉野に向き直り、口をへの字に曲げて軽く肩をすくめてみせた。
「ここはなんでもあるんだな。まるでレジャーランドだ」
「そうそう外を出歩くわけにもいかないからね。自前で揃えてるってだけだよ」
「確かにここでの暮らしは、すぐに運動不足に陥りそうだな」
食べて寝る以外とくにすることもなかったこの数日間で、体がなまっていた。それに、冷たく固い大理石とは違うゴムの弾力を足裏に感じていると、今までの緊張が解けていくような気もする。エドワードは大きく肩を回しほぐしながら、「どうせなら、もっと早く教えてほしかった」などと、恨みがましい視線を吉野に投げかける。
「指示が行き渡っていなかったんだね、ごめん」黒髪が揺れ、ぴょこんと頭が下がる。そしてまた持ち上がる。同時に吉野は、すっと一方の壁に下がる垂れ幕を指さして、「スカッシュのコートがあるんだ。ひと勝負しないか?」と屈託なく笑った。
ウェアからラケット、専用シューズまでがサイズ豊富に揃っている。ということは、ここで暮らす王家のためというよりも客のための設備なのか、と更衣室で着替えながら、エドワードは一人納得して吉野を見やる。と、彼は初心者のようにアイガードや膝サポーターまで装備しているではないか。
「なんだお前、初心者なのか! そっちから誘ったくせに期待させるなよ!」
「遊びで怪我なんかしたら立つ瀬がないだろ。あんたもアイガードくらいしておいてくれよ。いちおう客なんだしさ、怪我させたくないからさ」
できるものならやってみろ、とばかりに豪快に笑いとばすエドワードを、吉野は涼しい顔でやりすごしている。
だが、ゲームが始まってすぐに、この対戦相手を鼻先で笑ったことを、エドワードは大いに後悔することとなった。
「まだあんたには、スカッシュは早かったみたいだな、悪かったよ。あんた、怪我からまだ一年も経ってないんだってこと、忘れてた」
口では謝りながら、とくに悪びれた様子もなくあっけらかんと笑っている吉野をじろりと睨むと、エドワードは口の端でにやりと、継いで晴れやかに声を立てて笑った。素人と侮った吉野に、エドワードは完敗を喫したのだ。あまりの負けっぷりに、むしろ清々しささえ感じるほどの。それを、一年近く前の怪我のせいだから仕方ない、と慰められたのでは、それこそエドワードの立つ瀬がない。
「お前が忘れるはずないだろ! 俺がこの通りピンピンしているかどうか、その目で確かめたかったんだろうが!」
この国を揺るがせたクーデター未遂事件が、彼ら二人を結びつけたといえるかもしれない。この事件の渦中、エドワードは国王・皇太子護送任務で搭乗した軍用機を叩き落とされ、怪我を負ったのだ。もっとも仕組んだのは英国側のパイロットで、ここにいる杜月吉野ではない。むしろその逆で――。
その時の記憶がエドワードの背筋を這い上り、鈍い痛みとともに蘇る。
砂漠に降る厳しい陽光を跳ね、純白を翻す幻のような男の顔とともに――。
幻が、隣で床に座り、壁にもたれてミネラルウォーターを煽っている無邪気な横顔に重なる。年齢のわりに老獪だ、決してあなどってかかるな、と注意を受けていた、まだまだ子どものように見える少年の上に――。
ひとしきり顔をくしゃくしゃにして笑っていたエドワードは、いきなりぴたりと笑いを納めて、「俺は、お前に礼を言うべきなのか?」と不快そうに眉をひそめた。
この激しい感情の振れ幅に、吉野の方がたまらずくっくと肩を震わせる。
「別にいいよ、礼なんて。あんたを助けたかったわけでもないし」
「ようはヘンリーに貸しを作りたかった――、そういうことか?」
「あんた、自分があいつにとって、それだけの価値がある人間だって信じてるんだ?」
唇を結んだまま応えないエドワードに、吉野はふわりと柔らかい笑みを見せ、いかにも気を許しているような、のんびりした口調で喋りだす。
「そうだね、ヘンリーの機嫌を損ねるのは避けたかったのもある。でもそれ以上に、我が身を守るためだよ」
「俺たちをだまし討ちにしたのが、保身のためだっていうのか?」
「論点がずれてるよ。今話してんのは、俺があんたを助けた理由だろ? アブドの計画通りにあんたたちに死なれたんじゃ、英国からどんな難癖をつけられるか判ったもんじゃないからだよ。砂漠で極秘任務中の英国人が何人も殺されたとなっちゃ、あんたたちだって、黙って終わらせるわけにはいかなくなる。それこそどんな事故原因を捏造されるか――、だろ?」
「アブドの計画――って、お前、どこまで掴んでたんだ?」
訝し気に眉根をよせ、その大きな瞳で自分を威嚇するように見つめる相手を、吉野は笑っているような楽しげな瞳で眺めている。
どの程度の器なのか――。
この瞳に推し量られている、そんな気がして、エドワードは負けじとこの澄んだ鳶色の瞳を見返した。
だが彼の内側に響いてくるのは、吉野から受け取る何かではなく、自分の腹の内などとうに見透かされて、相手にもされていないのではないか、という自分では考えもしなかった情けない不安ばかりで――。
いつしか、彼の顔から笑みは消えていた。
「全部。アブドの通信網なんて、ザルだもん」
吉野は片膝に頬をつけ、また、くっくっと声を殺して笑っていた。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる