胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 この広々とした応接間に案内された客人は、まずは豪奢なシャンデリアのクリスタルの煌めきに見惚れ、足で踏みつけるのを戸惑うほどの貴重なペルシャ絨毯の緻密な図案に、繊細な調度品の数々に、感嘆の吐息を漏らすものだ。だがエドワード・グレイは、この部屋の華麗な色調とはそぐわない、いかにも不機嫌な面持ちで、檻の中の猛獣のように落ち着きなく歩き回っていた。

 ここへの滞在もすでに数日が経過しているのに、留め置かれるきっかけとなった吉野の“用事”は、いまだ聞かされないことが、彼の不機嫌の理由だ。食事の席で、あるいはお茶の時間に、顔を合わすことがないわけではないのに、そこで挨拶以上の言葉が交わされたことはないなどと――。

「いったい、いつまで待たすつもりだ?」

 つい苛立ちが声に乗って零れ落ちる。
 今だって、歓談の席を設けているのだとばかりに、色とりどりのフルーツや多種多様な菓子を添えた豪華なティーセットが、壁に沿ってぐるりと置かれたソファーの一角に用意されているのだ。
 だがエドワードはそんなものには目もくれない。ここも、これまで彼が案内された煌びやかな調度品を見せびらかすだけの部屋の数々も、ただただ彼が暇を潰すためのものであって、誰かの、――吉野や、あるいはサウードの訪れなぞ、期待するだけ無駄だった。自分ひとりのティータイムでは、意味などないではないか。
 
 いや厳密には、エドワードはこの部屋にひとりというわけではない。膝を並べて茶を飲むような仲にはなり得ない相手は、数に入れていないだけで。
 エドワードは窓辺に佇む背中を恨みがましくじろりと盗み見る。

 暇を持てあますと、時おり今のように、戸外を見おろしているその相手、ウィリアムに話しかけたりもする。だが、こちらもどうもらちがあかない。



「彼の時間が空くのを待っているのは、あなただけではありませんから」

 珍しく反応を返したウィリアムは、聞きとがめたエドワードが足を止め、目を吊り上げて大股で歩み寄ってくるのを気にするでもなく、やはり窓から下方を見据えている。エドワードはようやく、「何かあるのか?」と、その視線の先を追った。

 白いレースの遮光カーテンをわずかに開けた先に広がるのは、言わずと知れたこの宮殿に面した中庭だ。こうして二階から眺めると、白大理石にモザイクで描かれたアラベスク文様の全容が見渡せる。広大なこの空間を取り囲む回廊、そしてそれに続く建造物を映りこますほどに磨かれた大理石の白さに、エドワードは眩しそうに目を眇める。

「豪勢なものだな」と呟きはしたものの、贅をつくしたイスラム建築に感嘆しているのではない。むしろそこにはどうにも皮肉な視線が込められている。
 
 今は王族と呼ばれる彼らが、たまたま羊を放牧していた土地に石油が眠っていたというだけで、こんな贅沢が許されるなどと――、運が良かったのか、悪かったのか。

 エドワードには、どちらとも言い切ることはできなかった。
 石油などという天然資源さえなければ、他国から干渉されることも戦乱に巻きこまれることもなく、太古から連綿と受け継がれてきた素朴な生活を続けることができたかもしれないのだ。
 文明の発展を善とする西洋の価値観が、本当に、この地でも受け入れられているのかどうか――。

 かつてそんな疑問を持った折に、素朴な現地人の姿を望む彼の指向こそが幻想であり、西洋の傲慢さそのものだと、ヘンリーに指摘されたことがあったな、とふと思いだし苦笑がにじんだ。

 この豪奢な王宮や、先駆的な発展を遂げた首都の様相を見る限り、この国はそんな自然からの恩恵を存分に享受しているといえるのだろう。そして金と権力を持つ人間の見る夢なぞ、古今東西大差はないのかもしれない。

 などと、隣に並ぶウィリアムのことも忘れて物思いに耽っていたエドワードの背後から、ついっと手が伸びてきたと同時に、シャッと音を立ててカーテンが開かれた。

「この宮殿、綺麗だろ、もうあちこち見て回った?」

 不意にかけられた声にエドワードが弾かれたように振り返ると、吉野が、子どものような無邪気な笑みを向けていた。これまで顔を合わせてきたどの時とも違う、脱力した彼の空気に拍子抜け、とっさに返す言葉が出てこない。

「ああ、油を湯水のように使って建てただけのことはあるな。どこもかしこも贅沢の極みだ」と、つい今しがた考えていたことが、意志に反して口について出てしまった。

「その贅沢も意図あってのことだよ。贅を尽くした豪華なものってさ、金払ってでも見たいって思うくらいに圧倒されるだろ?」

 吉野は嫌味ともとれるエドワードの言い様を気にするふうもなく、楽しげな口調を崩さなかった。内心、失言したと舌打ちしながらも、吉野が気を悪くした様子のないことに胸をなでおろし、エドワードも今度は慎重に気を引き締めて尋ね返す。

「美術品として見ろってことか?」
「そこに読み取る意味は人それぞれだよ。この国の人間と外国人とじゃ、見いだす意味も違うだろうしね。あんたみたいに、たんに石油が化けたくらいにしか思わないやつもいるだろうしさ」

 吉野は答えながら窓ガラスに拳をついて、彼らに並んで眼下を見渡す。

「代替わりが順当に進めばさ、そう遠くない日に、この宮殿は一般公開する予定なんだ。この国きっての新名所として、海外からの観光客が、つぎ込んだ以上の外貨を落としてくれるようになるよ。これから何十年、何百年に渡ってね。いつの日にか、この国と民族の文化の結実として世界遺産に選ばれるように――、ここは、初めっからそんな想いを込めて建造されてるんだ」


 たんなる自己顕示だの、権力の誇示だと、これまで諸外国からは冷笑されてきた宮殿だが、その壮麗さと威厳でもって、アル=マルズーク王家の象徴として機能してきたのだ。だから、アブド元大臣の画策したクーデターの折もここが真っ先に占拠された。
 サウードは、この王宮が王家の象徴であるならば、人民に役立てもっと開かれるべきだと望んでいるのだ、と吉野は言葉を重ねていく。

 王家の宝は、民の宝でもある。その富のもたらす恩恵が、民の上にもあまねく行き渡るように――。


 この国の実質的指導者であるサウードの理想を、まるで世間話でもするように、吉野は語っていった。それは、異文化をどこか物語のなかの絵空事のようにしか捉えることのなかったエドワードにとって、不毛の砂漠でようやく瑞々しい果実を齧ることができたような、新鮮な驚きを与えてくれるものだった。







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